免罪符は要らない


2005/08/12(金) 19:44:11 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-115.html

『マルクスだったらこう考える』的場昭弘は、基本的につまらない本だった。敢えて言及するなら、ということで以下。


現実の出来事や問題に関して、宗教に解決を求めてはいけない。なぜならその行為が問題の解決へは向かわず、ただ回避するだけに留まるからです。それでは宗教は単なる癒し、すなわち阿片にすぎず、効果もいっときのものでしかありません。
(160頁)


とあるのだが、この点は政治的イデオロギーについても同様のことが言える、という言及は無い。マルクス自身がどうだったか、という話に私は興味が無いが、少なくともマルクス主義は歴史的に阿片であり続けたし、この本自体もまた、ある人々に対しては阿片として機能しているのではないか。
別に阿片であることにも阿片を求めることにも、私はけして否定的ではない。むしろある面では好ましくさえ思うかもしれない。しかし、それはあくまで阿片が阿片であることに自覚的な場合のみであって、阿片に過ぎないものをあたかも特効薬であるかのように見せようとする言動には批判を慎まない。
別に的場氏を阿片の売人に過ぎないと断罪する気は無いけれども、宗教の阿片的機能に言及するのなら、政治的イデオロギーも同様であり、自分の思想や主張もまた同様かもしれない、という自己言及と言おうか逡巡と言おうか、そうした非超越者的態度を多少なりとも見せて欲しかった。


で、一方、仲正昌樹氏。とりあえずリチャード・ローティ文化左翼批判を紹介している部分を抜粋。


 このようにローティは、文化左翼たちが、現存の資本主義の背後にある「システム」を概念的に実体化し、「合理性」とか「ファロス中心主義」「ロゴス中心主義」といった名前をつけ、それを「脱構築」するといって空論を続けていることに苛立ちを覚えている。プラグマティズム的に発想すれば、「理論」とは、具体的な「問題」を解決するために組み立てられ、その都度、「実験」して、有効性を試さなければ意味がない。米国の税制とか社会保険制度が公正であるか否かについて判定するための正義論なら、何らかの形で実証することが可能であるが、アメリカ経済が男根やファロスに支配されているといったテーゼは証明しようがないし、どのようにしたら?解決?もしくは?改善?したことになるのかはっきりしない。どう扱ったらいいのか分からないような「理論」を構築し、自分で勝手に立てた「問題」を脱構築して自己満足しているポスト・モダン系の文化左翼たちが、依然として「左翼」を名乗っていることにローティは我慢できない。捉えどころのない「システム」を暴露すると息巻いている連中よりは、アメリカの民主主義の枠組みを最大限に利用して、「自由と連帯」に向けての現実的な改革を成し遂げようとしている人たちの方が、よほど「左翼」の名に値するではないか、というわけだ。
『ポスト・モダンの左旋回』278〜279頁)


 左翼が訴える相手であるはずの「大衆」が知りたいのは、「革命とは何か?」ではなく、「革命の後に自分の生活がどのようになるか?」であるが、「文化左翼」的な思考の人たちは、それに適切な仕方で答えることができない。そもそも、個別の「問題」に対して、直接的な「答え」を出すという発想が欠けている。グローバリゼーションの影響で文化的少数派の置かれている状況がさらに悪化する……といったレベルの話はできても、破綻しかけている年金制度をどのように維持していくか、といった?庶民?が具体的に知りたがっている問いに対しては、「そういう庶民の苦しみが分からない支配者は……」というレベルのお茶を濁すような反応しかできない。
『正義と不自由』92〜93頁)


「お前らの言っていることじゃ、現実には何も変らないだろうが」というローティの苛立ちは痛いほど解る気がする。もちろん私はローティのプラグマティズムに全面的な支持を与える気もしないし、ローティ=宮台的なプラグマティックなリベラリズムよりは、ローティ=デリダ=仲正的にプラグマティズム脱構築を結び付けようとする試みの方に魅力を感じている。後者はまだはっきりとした形を見せない上に、前者とどれ程異なったものとなるのかも明らかではないが、再帰・統合派を乗り越えて祝祭・逸脱派の二次的レベルへの脱皮を図るには必要な議論となるのだろう。


前回のエントリは少しまったりし過ぎて*1、「対立点が何だかよくわからなくなった」などとぼんやりしたことをほざいてしまったが、araikenさんの主張の方向では結局現状肯定以上のものは望めないだろう、という基本的な批判の矛を収めたわけでは全然ない。


「ミクロな権力と闘争し、それぞれの多様な価値を可能性の限界まで追求して生きる」という終生の運動こそが「祭り」である、というaraikenさんの応答は、その裏面を解釈すれば、そういう終生の運動なのだから「祭りの後」の具体的な改革ビジョンなどを考えたり用意したりする必要は無いのだ、という思考停止の免罪符としても受け取れる。
これは人によっては、仲正に毒された、少し意地悪に過ぎる見方だと思われるかもしれない。


意地悪ついでに言っておくと、システムをいじっただけではダメで、ミクロな意識の変革がなされなければマクロな改革も意味をなさない、というaraikenさんの指摘は、それ自体もっともだとしても、ではミクロな意識の変革がどのような道筋で具体的なマクロ変革に結びつくのか、ミクロの政治に自覚的になるという程度以上の「明確なビジョン」が本当に存在しているのか、こういった点はまるで明らかではない。
まぁブログでの散発的な主張にここまで求めるのはさすがに意地悪すぎる。後で自分に跳ね返ってくるのも怖いので、この辺にしておこう。


私はよく自分で何を目指して語っていたのかわからなくなるので、改めて振り返って考えてみる。すると、ミクロの闘争を私はけして否定しないけれども、もう今更それだけではダメで、まぁ内田氏なんかの足を引っ張るのはご自由だが、もう少し先を見通した建設的な議論を望むには、araikenさんとは違ったレベルでの語り方が求められるのではないか、というのが私の一貫した問題意識だった、と思う。


*余談。生産主義を否定して無目的な祝祭を求めるaraikenさんへの批判として「何も生まない」とか「建設的な対話にならない」とかいう言い方をすることに私はいつもためらいがあって、あるいは指摘があるかなと思っていた。「何も生まない議論でええんじゃ〜」と言われるかな、と。araikenさん自ら建設的対話を望んでいること自体にその目的志向性の存在が示されているわけで、けして何の達成も目指していないわけではないだろうと思う。araikenさんの言う「無目的」とはあくまで生産主義に対するカウンター的な概念であって、もう少し全体的・総合的な視点からすると何らかの目的性を含んでいることは確かである。とすると、「無目的」という言い方ではなく、他のより妥当な表現が有り得るのではないか、という疑問提起をすることも不可能ではないだろう。とは言え、これはあまりに無神経に深入りしすぎることになっているかもしれないので、適当に聞き流して欲しい。


マルクスだったらこう考える (光文社新書)

マルクスだったらこう考える (光文社新書)

ポスト・モダンの左旋回

ポスト・モダンの左旋回

正義と不自由―絶対的正義の限界

正義と不自由―絶対的正義の限界

コメント

araikenさんのとこと、こちらとどっちに書こうか迷ったのですが、こっちに書きます。


理屈でなく実感なのですが、社会理論でプランをだしたがる人のほうが、そうでない人より思考停止する傾向があると思います。社会理論を学ぶ動機自体が現実に直面するより、理論のなかで安心していたい、つまり思考停止したいことである気がします。(この種の思考停止は社会システムの重要な構成要素だと思います。)


われわれの視野は限られていて、社会理論で説明できる部分は実際には社会の一部です。理論にもとづいた実践であっても、「現実的」でありたいなら、現実と自分の認識のずれや誤りを行動に反映しつづけることが必要です。私をふくめて、社会理論好きは、これから逃げたくて社会理論にひかれるふしがあります。くむはさんは理論が社会を包括することへの希望というか、そういうのが強いように思うのですが(私もそうなんですけど)、どうでしょうか。


だから、一時的には具体的なプランを出すことが不可能なほど、思考停止させなくするような理論が、本来は必要な気がします。


あ、それと私は思考停止がだめといってるんじゃなくて、思考は停止しているけど、体はうごいているとか、感情は繊細になっているとか、そういうのならいいかなとこれも理屈ぬきで思います。(きむはさんは絶対だめといいそうだ。)知能指数の低い話ですみません。
2005/08/20(土) 23:39:30 | URL | osakaeco #- [ 編集]


私は思考停止を責めているわけではなくて、思考停止に気付いていないのは嫌だなと思います。


最終解決と言うか、最終結論なんて出せるわけがないのは当然です。だからテーマテーマ、その場その場で暫定的な結論を出してしばらく(方法的にと言うか)思考停止しながら実践なりなんなりをしていくしかありません。


私が、理論が社会を包括することへの希望が強い、というのはどうなんだろうか。部分的には当たっているかもしれませんね。でも気になるところだけは考えときたい、というだけの話です。私は基本的に視野の狭い人間ですよ。
2005/08/21(日) 00:32:17 | URL | きはむ #- [ 編集]

TB


思考停止ではなくて http://araiken.exblog.jp/2184246


祭りのあと―世界に外部は存在しない http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20070121/p1