他者を他者として扱う


2005/08/13(土) 16:21:32 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-116.html

以下は全て『ポスト・モダンの左旋回』からの引用。


 しかしそうしたレヴィナスの「他者」論に対して、デリダは、「他者」について「語る」ことが可能であるためには、やはり語る主体(ロゴスの主体)としての「私」の存在が前提されているはずであることを早くから指摘している。レヴィナスの「全き他者」も、結局は、主体による「現前性(表象)の形而上学」に囚われている、というのが、デリダの〝読み〟である。この「〝私〟が〝他者〟について語る」ことをめぐるアポリアは、左翼的な文脈で言えば、?前衛的?左翼活動家・知識人たちが、「女性」「少数民族」「被差別地域出身者」「同性愛者」「障害者」「ホームレス」「援交する女の子」……といった市民社会にとっての「他者」を「代弁=代理=表象 represent」することの妥当性をめぐる問題に対応する。「私」の言葉(パロール)によって「(再)現前化=代理表象」し、操作することができるとすれば、それは、少なくとも「全き他者」ではなくなってしまう
(211〜212頁)


しかし、普遍的に妥当すべき「法」と、制定された実定法=法律の関係をテーマにする法哲学の視点から考えれば、「倫理(的責任)」と「法(的責任)」は密接に関係し合っており、相互に切り離せないのは当然のことだが、「倫理」の基準として想定される「正義 Gerechtigkeit=iustitia」と、それを実体化させて、拘束力を与えたものである「法 Recht=ius」の間には常に「差異」があるわけであって、「正義」をそのまま「法」に転化できるはずはない。「他者」への応答可能性=責任(responsabilite)から直接的に導き出せる「正義」と違って、論理的一貫性や利益均衡を重視する「法」体系においては、〝正しい〟ことを実現するという単純素朴なことが、そう簡単ではない。
 特に、「我々(全員)」が「応答すべき=責任のある responsable」相手を、「表象の限界」を超えたところから現れる〝無限なる他者〟に設定するような議論を展開すれば、「責任」の所在がそれこそ〝無限〟に拡大していき、日本的な一億総懺悔、さらには、「皆が皆に対して罪がある」という擬似キリスト教的なテーゼに繋がりかねない。かつて丸山真男が指摘した、「無限責任のきびしい倫理」が「巨大な無責任」へと転落するメカニズムをもう一度作動させてしまう危険がある。そうならないためには、「法外なもの=割り切れないもの」をあえて割り切る「政治」の論理と、それを〝公正に〟手続き化する「法」の論理が必要になる。「法外なもの」を、もう一度「法」の論理へと回収していくプロセスまでも視野に入れて議論を立てない限り、「無限なる他者への応答可能性」だけ暗示してもあまり意味はない
(213〜214頁)


デリダは、「純粋の暴力」を発動させる〝瞬間〟、つまり「法/不法」の境界線を措定して「正義」を呼び込む「決定」の?瞬間?には、どうしても「割り切れない」「決定不可能なもの」が亡霊のように取り憑いてくるが、それにもかかわらず、「決定=判決 decision」はなされねばならず、実際になされている、という立場を取っている。当然、決定する者(主体)は、その瞬間に、割り切ることのできない無限の(「正義」の)可能性の中から、一つの可能性だけを「正義」として選ばねばならないわけだから、そこには、恐るべき「責任」が伴う。自らが選択した「法」が、フランス革命ボルシェビキ革命がそうであったように、「未来=来るべきもの a-venir」において全面的に非難の的にされるかもしれないが、それでも「決断」せざるをえない。「決断」とは、無限の彼方からやって来る「他者」たちに対しての「責任」を負うことなのである。このように、一見カール・シュミットの「決断主義」を思わせる?危険?な論法を駆使しながら、デリダは「倫理―政治―法」という領域に敢えて踏み込んでいく。「無限責任」を「有限責任」へと限定することへの「責任」を自ら引き受けているわけである。
(227〜228頁)


最近思っているのは、「他者を排除しない」という態度はそんなにありがたがる程のものなのか、という疑問。以前、森岡正博がらみで少し書いたが、基本的に愛を求める人は差別化を求めているのであって、他者を排除しないことには始まらない。連帯や共同体も同じで、差別と排除なしに存在し得ない関係性ではないか。


もちろん「他者を排除しない」と語る際の「排除しない」というのが、語ることのできないサバルタンやらマルチチュードやらなんやらが語ることができる環境を整えること、他者と対話できるようにすることを主に指しているのであれば、それはそれでいいだろうとは思う。
しかし、対話できるという時点で、既に「他者性」はかなり低くなっているはず。だいたいが「他者」というのも随分曖昧な概念で、単純に「自己」とは別のものという意味での(「他人」に近い意味での)「他者」から、自分とは縁遠い人々としての「他者」、あるいは理解されていないか虐げられている人々としての「他者」、さらには全く得体の知れない正体不明の者としての「他者」まで、えらく幅がある。単純に「他者」が「他者」が、と言うより、他者性の高低で判断した方がいいのではないか。


「他者を排除しない」どころか、「他者」をつくらない社会やら「他者」のいない世界やらを目指す人もいる。その実現可能性の低さはわざわざ云々するまでもないことであるし、目指すこと自体はまぁいいだろう。例えば的場昭弘氏は、脱中心的で無権力的な「アソシアシオン」においては、水平的な相互関係を持つ「アソシエートした個人」による社会、すなわち無差別・無階級で「他者」のいない世界が出現する、と言う(『マルクスだったらこう考える』228〜229頁)。
しかし、それってどうなのか。「アソシエートした個人」だか何だか知らないが、本当に水平的な関係かどうかどうやって判断するのか。表面上はいくらでも水平的だと言える。だが、実態として全き水平的関係が実現することは有り得ない。全き水平的関係を望み得ないのに、「他者」がいない世界だと取り繕うとしたり思い込もうとしたりする悲劇を考えたくはない。重要なのは、表面的に水平的関係を取り繕うとしたり「他者」のいない世界などという美辞麗句ばかりを追い求めることではなく、「他者」が「他者」として存在することや自己と「他者」との対立・緊張、あるいは自らが行う「他者」の排除もしくは排除への欲望などを直視し意識化することである。


安易に「排除しない」などと言うよりも、まず自己を省みてみることだ。本当に排除を望んでいないのか?。排除したいじゃないか、「他者」なんて。あるいは自分に関わらないところで排除・抑圧されている「他者」のことなんて、どうでもよくないか?。本当に自分はそんなことに関心があり、彼らと対話したり連帯したりしたいとかするべきだとか思っているのか?。むしろこのままの方が自分にとっては益があるんじゃないのか?。自分の欲望と自分の口をついて出る言葉とが、甚だしく乖離している言説を他人はもとより自分自身も信頼できるだろうか。軽率に「他者」に近づこうとする前に、まず自己と「他者」との距離に思い至るべきだ。両者の間にある溝を、気が遠くなるまで見つめ続けるべきだ。「他者」を「他者」でなくす前に、「他者」を徹底的に「他者」として扱い、見つめ、語りかけるべきではないか。


また、あらゆる「他者」同士が連帯するなんてことが可能だろうか。不可能じゃないかもしれない。だが、やっぱり自分がとりあえず「他者」でなくなることが第一、という「他者」がふつうじゃないか。
すべての「他者」よ、団結せよ!、なんて言う人(これも的場氏だが)を私がきな臭く思うのは、彼がまるで「他者」の為を思って団結を勧めているかのように振舞うからである。実態は、彼が目指す反資本主義運動の為にはその方が都合がいいから、であるのに、だ。私はいわゆるエンパワーメント論への疑念・違和感を書いたことがあるが*1、その反発の中心は外部者(ここでは「他者」に近づき寄り添おうとする「彼」)がさもエンパワーされる当事者(ここでは「他者」)の為に動いているかのように振舞い、自らの存在をできるだけ不可視化・無化しようとする傾向に向けたものだった。「他者」論の文脈でも同じことが言える。


外部者は外部者としての立場と存在と利害に基づいて語り行動するべきだ。けして当事者の為などという虚言を語るべきではないしそのように振舞うべきではない。自己は自己としての立場と存在と利害に基づいて語り行動するべきだ。けして「他者」の為などという虚言を語るべきではないしそのように振舞うべきではない。「他者」を連帯させたいなら、そうさせたい自己の動機を隠蔽せずに「他者」に語り、説得するべきである。その行動は「他者」の為にもなるかもしれないが、第一には自己の欲望の為であることを自覚する必要がある。
これは水平的な関係構築の為にも重要な点である。上述のエンパワーメントへの懐疑は、そこに現に存在する依存関係・権力関係が不可視化されることで、依存は深まり脱却が困難となって水平とは程遠い権力関係が保存・強化されていく恐れゆえであるからだ。


以上のことを踏まえると、「他者」が語ることができる環境を整える、という方向の言動にも慎重な態度が必要になる。代弁することによる権力性は今更言うまでもないが、「他者」に歩み寄り寄り添おうとすることだけでさえも、無自覚になされれば代弁とほぼ同様に機能する恐れがある。「他者」に歩み寄るなとまでは言わないが、まずは自己の足場と「他者」との距離を執拗に確認することからだ、と強調することは必要だろう。
「他者」との対話のイメージにも注意が必要かもしれない。語ることのできない「他者」をどう語らせるか、というスタンスではなく、こちらが「他者」にひたすら語りかける。距離を保ちつつ、自己の立場にこだわったまま「他者」に語りかけ続ける。「他者」に向き合うことは必要だが、安易に歩み寄らない。そしてもし、「他者」が少しでも自分から語りそうになれば、いつまででも語りを待つ。催促することなく待つ。この待つ姿勢は、仲正がドゥルシラ・コーネルを紹介しながら論じている「イマジナリーな領域に対する権利」に近いのかもしれない。


自己を自己として、「他者」を「他者」として扱うこと。出発点はこれでしか有り得ない。両者の距離、対立、緊張をこそ、まずは自覚化・可視化すべきであろう。


ポスト・モダンの左旋回

ポスト・モダンの左旋回

マルクスだったらこう考える (光文社新書)

マルクスだったらこう考える (光文社新書)

コメント

正論だと思うけど三つほど。


第一に、『表面的に水平的関係を取り繕うとしたり「他者」のいない世界などという美辞麗句ばかりを追い求めることではなく、「他者」が「他者」として存在することや自己と「他者」との対立・緊張、あるいは自らが行う「他者」の排除もしくは排除への欲望などを直視し意識化することである。』とのことですが、的場氏は読んでないからわかりませんが、マルクス主義には、自己の欲望や意識といった上部構造的に定義された「自己ー他者」関係 だけではなく、それらを規定する下部構造を問題視する、という唯物論的伝統があるはずです。『水平的関係を取り繕うとしたり「他者」のいない世界』というのは、そういう下部構造の変革を意識しての発言として解釈すれば、そもそも想定している「他者性」の次元が違うかも可能性もあります。下部構造の変革を経由すれば、人間の意識に植えつけられた、資本主義的な「他者」性(そういうものがあるとして)が消滅する、とは言いうるからです。そして、その後の新しい世界でもきはむ氏が言うような「他者性」(それは非マルクス主義社会学で考察されるようなそれに近いかもしれません)の問題は残るでしょうが、それとこれとは次元の違う問題かもしれません。そこらへんはどうなんですか?


第二に、私はよく知らないけれども、戦後日本のマルクス主義思想の中でも、知識人と大衆の関係をどう考えるか、という議論がたくさんあったようです。そこでもおそらく『軽率に「他者」に近づこうとする前に、まず自己と「他者」との距離に思い至るべきだ。両者の間にある溝を、気が遠くなるまで見つめ続けるべきだ。「他者」を「他者」でなくす前に、「他者」を徹底的に「他者」として扱い、見つめ、語りかけるべきではないか。』という議論が、違う形ではあれ行われたはずですので、興味あれば学んでご教授下さい(笑)


第三に、途上国開発の分野の「エンパワーメント」概念なんかに対しては、伊勢崎賢治という人がそういうことを非常に明快に意識していて、その上で開発の現場で働いていて面白いので、興味があれば彼の本をどうぞ。
2005/08/14(日) 22:35:32 | URL | dojin #- [ 編集]


他者性の次元が違う、ということは厳密に議論しようとすればかなり有り得そうなことだと思います。
的場氏は下部構造から上部構造へという単純な構図は採っていなかったとは思いますが、資本主義的「他者」性という狭いものだけを問題とするとしたら、それは旧来のドグマティックな言説に留まるということで、それ自体相手にする必要は特に無いかなとも思います。
う〜んと、質問の趣旨をよく理解できていない可能性あります。とりあえず、次元が違うならそれはそれでいい、ということかと。


知識人と大衆問題というのは、いわゆる講座派対労農派などと関わるのでしょうか。戦後思想には以前より興味は出てきましたが、教授は期待しないでおいてやって下さい。


伊勢崎氏の『武装解除』は読みましたが、他の著書も機会があれば読んでみたいと思います。
2005/08/15(月) 13:57:27 | URL | きはむ #- [ 編集]


相手の拠っている問題意識や世界観や概念に対する批判を抜きに、「他者」の概念だけを自分の土俵に引っ張ってきて解釈して批判するのは生産的ではない、ということです。


それはそのまま、きはむ氏のマルクスに対する態度にも当てはまります。仮に思想をやっていこうと思うならば、マルクスに興味が持てないのはいいとしても、マルクスの何に興味がもてないのかを、相手の中に内在してそこそこに考察できなければ、他者の思想を論ずることはできないでしょう。マルクスの問題意識がダメなのか、マルクスの学問的スタンスがダメなのか、マルクスの細かい理論部分がダメなのか。これは相手がマルクスだろうと凡百の評論家だろうと同じです。それはときに退屈で苦痛な作業かもしれませんが、これなしには相手を批判できないはずです。


きはむ氏の言葉を使うならば、『軽率に「他者」に近づこうとする前に、まず自己と「他者」との距離に思い至るべきだ。両者の間にある溝を、気が遠くなるまで見つめ続けるべきだ。「他者」を「他者」でなくす前に、「他者」を徹底的に「他者」として扱い、見つめ、語りかけるべきではないか。』ということです。


ちなみに伊勢崎さんの本は、デビュー作の「インド・スラム・レポート」が断然おすすめです。彼の若かりし頃の青臭さと思想がにじみでています。
2005/08/16(火) 00:14:34 | URL | dojin #- [ 編集]


全くもって耳が痛いです。確かに、厳密に「他者」論を行おうとすれば、相手が何を意図しているのかもう少し精緻な読解が不可欠でしょう。それは今後の課題として。


ただ、私が「興味が持てない」と言うのは必ずしも批判とイコールではありません。純粋に興味を持てないだけのことです。
私にとってのマルクス=「他者」と考えることが可能だとすれば、確かになぜ私がこの「他者」を軽んずるのか説明するのがより誠実な態度であることには間違いが無いでしょう。私もできればその説明責任を果たせるようになりたいとは思いますし、そのためにもマルクス関連の本を不真面目ながらもいくつか読んだわけです。


ただ、批判しているわけではない以上、私がなぜマルクスに興味が無いかに関する説明責任は必ずしも大ではないと考えます。私が他の凡百の評論家になぜ興味が持てないかをいちいち一人一人説明しなくてはならない、ということはないでしょう。
「他者」論の文脈にしても、ある一人の人間が無数のマイノリティ問題になぜ興味が持てないのかいちいち説明しなくてはならない、ということはないはずです。私は、ある「問題」に「興味が持てない」こと自体は責められるべき態度ではない、と考えます。この場合の挙証責任はむしろ、「興味を持つべき」と考える側に存在するのではないでしょうか。それを思っても(是非はともかく)「マルクス」が未だ占める特別な地位を感じざるを得ません。


私はマルクスという「他者」との距離に自ら思い至っているわけで、今のところ特にこちらから「語りかける」必要は感じていないわけです。そのことを「他者」に寄り添っている、あるいは語りかけている人々は批判するかもしれませんが、果たして私はその批判をそれ程重く受け止める必要があるのか、疑問に思わないこともありません。


と、言うわけで私自身の言説に自己矛盾はとりあえず無いと考えています。とはいえ、こういう風に自省を迫られるご指摘はホントありがたいです。自分の身振りというのはなかなかわからないものだなぁ、とつくづく思っていたところですから。


念の為付け加えますと、アナリティカル・マルキシズムには興味は持っています。dojinさんはそっち方面には行かれないのでしょうか。
2005/08/16(火) 17:49:13 | URL | きはむ #- [ 編集]


『「他者」論の文脈にしても、ある一人の人間が無数のマイノリティ問題になぜ興味が持てないのかいちいち説明しなくてはならない、ということはないはずです。私は、ある「問題」に「興味が持てない」こと自体は責められるべき態度ではない、と考えます。この場合の挙証責任はむしろ、「興味を持つべき」と考える側に存在するのではないでしょうか。』


このことを論理的に正当化するのは難しいですよ。
「全ての問題に興味を持つこと」の現実不可能性は簡単に言えても、その論理的正当性を簡単に言えますか?


さらに論理的正当性を主張するのも、「他者」や「問題」の線引き、という困難な前提を導入しないとなかなか難しいと思いますよ。例えば、親が我が子を「興味がない」といって餓死させても、それは責められるべき態度ではないと言い得てしまいます。なぜなら我が子だってマルクスだってマイノリティだって同様に「他者」の「問題」と言い得るのだから。この場合、「他者」や「問題」はあらゆるものに当てはまることになり、故にあらゆるものに対する無関心が正当化されてしまいます。逆のロジックを使って、さらにいくつかの条件をつければ、あらゆるものに対する無関心が非難され得ます。


私はこういう議論にあまり興味はありませんが、繰り返すと、論理的には現実不可能性から論理的正当性は導き出せません。違うロジックがあるのならそれは何でしょうか?結局、「他者」や「問題」の線引きという困難な前提を置かなければムリなのではないでしょうか?


あと、もっと俗っぽい批判として、


『「他者」論の文脈にしても、ある一人の人間が無数のマイノリティ問題になぜ興味が持てないのかいちいち説明しなくてはならない、ということはないはずです。』


をたとえ認めたとしても、この文例の人間ときはむ氏の立場は全然違うのでは、と思っちゃいます?きはむ氏は「不特定多数のうちのある一人」という感じのニュアンスただよう「ある一人の人間」ではなく「マルクス主義に関連する思想について語らう特定の人」ですし、他者も「無数のマイノリティ問題」ではなく「マルクス」です。両者の置換えは、議論の論証というより議論のすり替えでは?この置換えに何らかの正当性を見出せるのでしょうか?別に置き換えた後の言明がより一般性の高いものであるわけではないですし。


まぁここまでしつこく考えなくていいのかな。
2005/08/17(水) 02:53:19 | URL | dojin #- [ 編集]


「責められるべきでない」と語ることと「正当化」は同じではありません。私は現実不可能性を根拠に論理を展開したわけでも、別に興味を持つ必要は無い、などと積極的に唱道しているわけでもないことは読んで解って頂けることだと思います。


餓死などの問題に関しても、興味が無いこと自体は責められるべきではない、という私の立場は変わりません。これを問題化して親を問責するためには違うロジックが必要となります。論理的正当化ができないのは興味を持つべきだとする側も同様のはずです。つまり違ったロジックが必要なのは「興味が無い」という側ではなくそれを問責しようとする側なのです。
ということで、私の立場は「興味が無い」こと自体が責められるべき立場で無いということを認めた上で、いかにして責任や倫理を語り得るのか模索するものだ、と言っておきます。


置き換えは、マルクスと「他者」をイコールで扱うことをわかりやすくする意図でした。で、私と文例の立場は同じだと思います。一人採り出した時点で特定の人間、語るも語らないも一つの立場、マルクスも凡百とは言わないが無数の思想家の一人には違いない、ということで特に問題は無いのでは。私が多少でも語っているのはマルクスじゃなくて的場昭弘ですし。
2005/08/17(水) 15:15:54 | URL | きはむ #- [ 編集]


うーん。まぁちょっと考えてみたら、そもそも、私は「興味がない」ことを責めているわけではなくて、「興味がない」ものに「言及」するときのマナーについて触れただけす。


別にマイノリティ問題や餓死やマルクスや的場に興味がないのはいいとしても、それに言及する以上は、それらに対する理解がある程度なければならない、それがマナーだ、くらいのことです。


あと、話がもどっちゃいますが、餓死やマイノリティ問題に「興味がないこと」が責められるべきでない、となぜ言えますか?その根拠はなんですか?
2005/08/18(木) 18:19:50 | URL | dojin #- [ 編集]


逆でしょうね。これまで私の書き方が悪かったですね。興味が無いことをそれ自体として問責できる論理的根拠は見当たらないのではないか、と言ったほうが正確だったと思います。興味が無いことそれ自体だけで何で責めることができるのだろうという疑問です。その点私のここまでの言明は積極的というより消極的ですし、挙証責任(根拠を示す必要)はこちらには無いと言うのはこの意味が大きかったわけです。


そもそも、
>親が我が子を「興味がない」といって餓死させても、それは責められるべき態度ではないと言い得てしまいます。
だから「興味がない」ことを「責められるべきではない」とは言えないわけです、
とは言えません。
なぜなら、この文自体が結果としての餓死を問題にしている(違うロジックを持ち出している)のであって、「興味が無いこと」それだけで問責できるロジックになり得ていません。こういう帰結的議論は重要ではありますが、無関心でも死なせなきゃいいんでしょ、健康にさせときゃいいんでしょ、ということで容易に責任を回避できます。


あとは説教臭い倫理や道徳のレベルになるかと思いますが、それが大した力を持ち得ないことは言うまでもないでしょう。つまり私が言いたかったのは、興味が無いことをそれ自体として問題にできるロジックは無いのではないか、ということ。その意味で「責められるべきではない」と言うよりは「責めることはできない」と言った方がより正確だったかもしれません。


自分(例えば先進国上層階級に生まれ育った白人男性の異性愛者)がどんな立場にいるのかを意識することは必要だと思います。それを助ける言論も運動も大切なことです。しかし、意識化以上のことを求められるいわれは無いでしょう。自分の立場を十分に認識している人に対して、これこれの問題に興味を持っていないからよくない、と言いうるとしたらその根拠は何なのか私には解らない。
2005/08/19(金) 19:54:24 | URL | きはむ #- [ 編集]


最初から議論がだんだん離れていますね。まぁいいや。マルクスの話はおいといて、無関心の話についてちょっと聞きたいことが。コメント欄をながなが使ってすみません。


前半部は同意します。結果としての「餓死」の一因としての「無関心」を責めることと、「無関心」そのものを責めることは違う、ということですか。そういうわけ方をするなら、確かにその通りだと思います。


しかし、ということは、何かの「問題」の一因としての「無関心」に限定すれば(私は、そのような「無関心」しか考えていなかった)それは「責めることはできる」と考えていいのですか?


そもそも「興味がない」ことそれ自体を責めることができないのはあたりまえです。例えば、「ブログに興味がない」とか「ギターに興味がない」ことを責められる理由はないわけです。俺の勝手だろ、と。


しかし、だからといって「マイノリティ問題に興味がない」とか「障害者問題に興味がない」こと自体も責めることができない、とはいえないでしょう。ここでいう「興味がない」という行為(あえて行為といいましょう)は、マイノリティや障害者の生活に大きな影響を与えるのですから、そのことについても考える必要があります。ブログやギターとは違います。


つまり、何らかの「問題」の一因であるならば、「興味がない」ということと「殺人を犯す」ということは、同レベルの積極的な行為として考えることだって論理的にはできるはずです。(もちろん、「興味がない」ことと「殺人を犯す」ことを同レベルの行為として位置づけることができるか、という問題は残りますが)


差別や資源配分の問題では、この「興味がない」ことが他者を死に追いやる一因になることすらあり得ます。こういう場合には、


『しかし、意識化以上のことを求められるいわれは無いでしょう。自分の立場を十分に認識している人に対して、これこれの問題に興味を持っていないからよくない、と言いうるとしたらその根拠は何なのか私には解らない。』


という主張に対して、「あんたの無関心が、人様が心地よく生きるのを難しくしてるんだよ。それがあんたの無関心を責める根拠だ」ということができます。


たしかに、ここで問題とされているのは、「人が心地よく生きられない」という帰結の一因としての無関心ですので、無関心一般を責めているわけではないですが。きはむ氏は、このような限定された「無関心」ならば、責めてもいいと考えるのですか?
2005/08/20(土) 01:17:50 | URL | dojin #- [ 編集]


関心の対象としてのブログとギターとマイノリティ問題との間に本質的な違いがあるかどうか、疑問に思います。無関心自体が「俺の勝手」であることは同様ですから、要するにテーマに関わらず「問題の一因としての無関心」を責めうるか否かという論点ですね。


まず、無関心が「問題」の直接的原因となることは考えにくい。それは遠因や背景としては指摘しうるでしょうが、一般に、誰かを死に追いやるまでには何らかのステップを挟んでいるはずです。
多分大多数の人がそうしたステップが存在し得ないような配慮・取り決めに賛同するでしょうし、私も概ねそれが望ましいと思います。ただ、だからといって無関心までを排撃することを正当化できるかどうか。外面的言動・現象だけでなく内面まで厳しく問い詰めるなら、それこそ擬似キリスト教的態度になりかねません。


また、「人様が心地よく生きるのを難しくしてる」と言われたとして、果たしてこちらはその批判をそれ程重く受け止める必要があるのかどうか。この言い方は無関心一般を責める態度とそれ程異なるのか少し疑問でもありますし、仲正の言うような「無限責任」への後退を生みかねない気もしますし、色々問題があるような。


無関心という行為が生んだ結果に関しては「責任」が生じるでしょうが、だからといって結果から無関心まで遡って非難しうる根拠とはならないのではないでしょうか。そして無関心の結果への「責任」というのも、一方的に責められるということは意味しないでしょう。これがとりあえずの答えなのかな。


ちょっと穏健すぎるかな。そもそも「他者を死に追いやる」こと自体が果たして責められるべきことか、という問いがまずなされるべきなんですけどね、本当は。まぁ、もとより話の前提も語の定義も一致していないし、そこまで論じ始めたらきりが無いか。
2005/08/20(土) 15:13:11 | URL | きはむ #- [ 編集]


1.『無関心が「問題」の直接的原因となることは考えにくい』について


これに対してはなんともいえませんね。ただ、無関心が、一定の人間たちをキツい状況においやる、もしくはその場に留まらせる、そして無関心の人達を恨むことは十分ありうるでしょう。


2.擬似キリスト教的態度や無限責任について


きはむ氏が述べているのは、結局、他者の内面まで踏み込むことや「無限責任」への恐怖であって、無関心が責められるべきでない根拠ではありません。他者の内面や無限責任の話は正しいと思いますが、だからといってそれがそのまま無関心への免罪符になるわけではありません。実際に無関心によって苦しめられ、無関心の人を恨む人がいるならば、彼等にとっては現状よりも他者の内面への踏み込みや無限責任のほうがよっぽどいいと思うかもしれません。その人達からすれば、きはむ氏は、無関心が自分にとっては切実な問題ではなく、人間の内面の尊厳や限定責任といった現代社会のルールを守ろうとする一保守主義者にすぎないのです。そういう人達をどう説得するのですか?。その人達に面と向かって、無関心は「俺の勝手」といえますか?


ちなみにいっときますと、私はそういう意味では一保守主義者ですが、その根拠は自分の穏やかな生活を大切にしたいという個人的な利己心にすぎません。そして他人の無関心を私が責め得ないとしたら、それは私が自分自身の無関心を責めるだけの自己一貫性がないが故に、他人にそれを要求できないだけであって、無関心がア・プリオリに「責めることができない」ものだからではありません。
2005/08/21(日) 16:58:24 | URL | dojin #- [ 編集]


1.『無関心が「問題」の直接的原因となることは考えにくい』についての付け加え


例えば、『無関心」が直接的な原因とならなくても、自分達が直接的原因となった「問題」に対する自分達の無関心が、一定の人間たちをキツい状況に追いやる、もしくはキツい状況に留まらせることは十分ありうるでしょう。左翼がよく問題にしたように、フィリピンのスモーキーマウンテンには、日本企業がらみの強制立ち退きで家を失った人達がいますし、日本の民主主義政府の下での施策で施設に隔離された障害者たちなどの例もあります。彼らに対する私たちの無関心は、彼等をキツイ状況のままにしている一因と考えることはできませんか?
2005/08/21(日) 17:09:59 | URL | dojin #- [ 編集]


私は一保守主義者と呼ばれても否定しませんし、自ら一保守主義者と名乗りながら自分とは必ずしも一致しない人の意見を引っ張ってきてくださるdojinさんには感謝するほかありません(いや、嫌味でなくホントに)。


で、無限責任なんちゃらの話は確かに「責めることができない」根拠には必ずしもならなかったと思っていますが、「責められるべきでない」根拠に全くなり得ないとは思いません。
また、無関心が「俺の勝手」であることは変わりませんし、私はその言明についてある種の責任を当然負うでしょう。


正面からお答えすることはこれ以上しないと思いますが、この議論を通じて感じたことについてはその内エントリを立てようかと思います。
2005/08/22(月) 14:51:21 | URL | きはむ #- [ 編集]

TB


責任論ノート―責任など引き受けなくてよい http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20070122/p1