選挙へのエゴイズムの見解(試論)


2005/08/21(日) 00:18:41 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-118.html

今日は選挙について書こうと思う。一般論として、有権者は投票に行くべきか、行かざるべきか、ということだ。思いもかけず解散・総選挙の季節となってしまったので、私はこのことについて書かなければならない。思想と行動が不一致であることは概ね見苦しいことであり、自身の行動を説明し得るだけの一貫した論理を示す必要が私にはある。


一方で、デモクラシーの精神に忠実であると自負している人々は、有権者がその権利を行使することは議論の余地なき「善きこと」であるかのように、投票を勧めるであろう。他方、一般的なアナーキストは、投票行為自体が既存の国家体制と抑圧的権力を承認し生き長らえさせるものだとして、「選挙になど行くな」と言う。
結論から言えば、私は「選挙に行こうが行くまいが、それは自由である」と考える。ここで「自由である」ということは責めを受けるいわれは無いということであり、それは現在の行動それ自体としても将来にわたる結果に対しても同様である。


少し迂回になるが、重要な議論なので、以下の引用をお読み頂きたい。


 群衆がワーッと動き出すと、もうこれは手がつけられない。あのエネルギーはたいへんなものですね。では、あのエネルギーはどこから来ているかというと、すべて群集を構成する人間諸個人自身のエネルギーだということは明白でしょう。それ以外の力というのはいっさい入っていないわけです。もちろん、倍化されているというか、ふだん出ないような力を出しているかもしれませんし、また、それが逆に混乱をいっそう大きくしてるかもしれませんが、とにかく群集を構成する人間諸個人自身の力の総和だということは明らかです。
 ところが、私自身も経験がありますが、その混乱のなかに巻き込まれて、生きた心地もしていないような個人個人は、そんな混乱がいつまでも続いた方がよいなどと、誰も考えていないわけです。できることなら、早く静まってほしいし、でなければ、なんとかしてその外へ出たい。けれども、なんともしようがない。みんながただある方向に動くから、怪我をしないためには、それについて動くよりほかに道がない。ところが、みんながそれについて動こうとするから、その力がまた群集全体の力に加わる。そして、すべてがそれを構成する個々人の意図とはまったく無関係に動いていく、というわけです。
 このばあい、考えてみますと、群集全体が自分自身の力で動いている、というよりは、動かされている。群衆の一人一人はそんな動きをすることがいやでしようがない。そんな気はぜんぜんない。しかも、自分たちの力の総和が自分たち自身に対してまったくよそよそしい、疎遠なものになってしまっていて、逆に自分達をあらぬ方向に押し動かしていく。これがいわゆる「疎外」現象なんですが、とにかくそのなかでは、人間はもはや人間らしく主体であることをやめて、物とまったく同じに客体となってしまっているわけです。
(『社会科学における人間』大塚久雄、84〜85頁)


社会実在論と社会唯名論のような議論に関する私の考えは簡明なものだ。社会は唯名であり、かつ実在である。社会が個人の集合であることは間違いが無い。だが、社会は個人の集合に過ぎない、と単純に言い切ることには問題が付きまとう。なぜなら、社会は確かに個人の集合に過ぎないはずなのに、それ以上の意味と存在を持って現れてくるからである。本来実体の無いはずのものが「現実に」現れてくるのであり、集合に過ぎないものが独立の存在として息づき始めるのである。ゆえに、社会は個人の集合に過ぎないと同時に、集合以上の存在である。このような現象をヘーゲルマルクス的には「対象化」や「疎外」という概念を使って説明するのであろうし、吉本隆明的には「逆立」という言葉を使うのであろう。


このように個人と社会が「逆立」(私はこの言葉を好む)する現実において、ルソー的な「一般意志」が虚構であることは今更説明するまでも無い。一般意志の決定はあなた自身の決定である、と言われても私は納得できない。私がその一部であるところの社会と私自身は別個のものだ。同様に、議会制民主主義の正統性ロジックを用いて、「この政権を選んだのは国民一人一人だ」「この政策についてあなたも間接的に賛成していることになる」、などと言われても私は納得できない。もちろん、そのロジックが難渋な現実をなんとか切り抜けていくことを可能にしたもので、歴史的実績とある種の美しさを有していることを私は否定しない。それはあたかもトランプのカード一枚一枚を使って築き上げられたタワーのように、薄く細い、頼りない論拠を積み上げ積み上げ成り立っている、芸術的建造物であるように思われる。それは、誰も息を吹きかけたり振動を与えたりしないこと、という前提の上で成り立っている。したがって、私のようなある種類の人々にとっては、なぜそんな頼りない素材をわざわざ用いるのか理解できない。


選挙で選ばれた議員の立法や議員が選出した首相による内閣の政策については国民一人一人にも責任がある、という「まっとう」な言説に私はほぼ直感的な反発を覚える。そんな責任は負いたくない、回避したい。自分が一票を投じた候補が与党議員になったからといって、野党議員になったからといって、落選したからといって、白票を投じたからといって、投票を棄権したからといってどうだって、果たして本当に有権者には、私にはそんな「責任」があるのだろうか。


ここで引用に戻ろう。個人と群集の関係。それは個人と社会の関係、国民(有権者)と国家の関係にほぼ等しい。群集が動いていく力は確かに個人の力の集合に違いない。しかし群集は個々人の意思とほぼ無関係に動いていく。群集の力は確かに個人の集合以上のものである。それは個々人から「疎外」している。個々人は何もしていないわけではなく、自らのなしうる力の範囲内で行動しているだろう。しかし、個人の力が群集に与える影響は微小かつ不確実である。さて、この時群集の中の個人は群集の動きとそれがもたらす結果に責任を持つだろうか。私は持たないと思う。もしあると結論するとしても、それは問題視しうる程大きくはないであろう。


勘がそれ程よい方でなくともお気づきだろうが、私はこの群集の論理を民主主義にも適用しようとしている。無論、こうした意図は大塚久雄の意図には反するものであろう。それどころか、おそらく私は大塚の意図とは真逆の方向に進もうとしている。しかしながら、私は大塚の論とほぼ同じ論法で有権者の責任というものを回避できるという考えを主張する。


議会制民主主義においては、まず好ましい候補者が出馬するかどうか、次に好ましい候補者がいても彼が当選するかどうか、さらに彼が当選しても公約を守ろうとするかどうか、最後に公約を守ろうとしてもそれが実現するかどうか、いずれも不確実である。また、一人の権利は限られている。
不確実でも、限られていても、権利があることはあるじゃないか。そして、権利あるところには義務が、さもなければ責任があるのだ。ごもっともだ。権利があることはある。群集の中でも個人は全く動きを封じられたわけではなかった。権利に(義務はともかく)責任が伴うと仮に認めたとしても、問題にできるほどの大きさの責任を対応させるにはあまりに小さな権利ではないか?。


私から「疎外」し、「逆立」している社会や政府について、なぜ私は責任を負わなければならないのか。あれは私ではない。あれは私ではない。


投票行為それ自体を、既存権力の正統性を補強するとして退けようとするアナーキストにも言っておかなければならない。個人がその限られた力を行使して、多少なりとも自らの利便を図ろうとする行為は責められえない。私は権利という概念を好まないが、社会的に一定程度有効な力として保持している私の権利を行使しようがしまいが、アナーキストなどに云々されることではない。上述のように、個人の投票行為が選挙された議会や政府とその行動および結果への明確な責任を生むことは無い。よって、私の投票行為はいかなる責任も私に生じせしめず、その意味は既存権力の承認・補強ではなく、自己利益を目的とした自らの力の行使である。投票行為が現状権力の支持を意味するという見解自体が、有権者の責任という論理に囚われている。


結論として、いかなる投票行為も不投票行為も自由であり、そこに何らの罪悪感や過度の責任感を有する必要は無い、と述べることができる。


おそらく、一般の読者は以上の私の主張を真に受けるべきではない。有権者の責任なるものを破壊しようとすることがいかなる帰結を生むかは計り知れない。私は責任という言葉をあまりにも曖昧かつ不安定に用いている。私は責任概念一般についてより学習し、考えを深める必要がある。私は「あれは私ではない」と述べることの重大さと意味をまだ十分に理解していないように思われる。「疎外」というものがいかなる意味を持っているかということを考えれば、私の言おうとしていることは予想以上に恐ろしい事かもしれない。しかし、それにもかかわらず、今後も私の選挙に対する考えの基本軸は変らないだろう。たぶん、結論も。ただ、まだ十分ではない、ということだ。書き終わって、それを痛感した。


ちなみに私は、最近あった都議会選の際に投票所に足を運ぶことはなかった。今回の衆院選はどうするか、まだ決めていない。多分雨が降らなければ行くのではないかという気はする。しかし、先のことは分からない。やっぱり面倒には違いが無いので、行かないかもしれない。


社会科学における人間 (岩波新書)

社会科学における人間 (岩波新書)

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責任論ノート―責任など引き受けなくてよい http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20070122/p1