敵に似るというブービートラップ


2005/08/21(日) 16:11:39 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-119.html

別にわざわざエントリを起こすほどのことを書こうとは思わないのだが、昼間は暑くて勉強する気になれないこともあり、拙論とじゃれ合ってくれるあたたかな方々の議論がそれなりに蓄積したこともあり、徒然に何か書こうかなぁと。


でも正直なところ、もう別に言う事はないのだ。「あいつはこれがわかっていない」「これがわかっていたらこんな考えはしないはずだ」とかいう本質主義的断定に、私はもういい加減うんざりしている。


演劇と政治の関係、祭りと政治の関係などについては政治学に学問的蓄積があるはずだが、残念ながら私はそれについて無知である為、有益なコメントがし得るとは思えない。


私が一番「なんだかなぁ」と思うのは、内田氏の側もそれを批判するaraikenさんとその周辺も、どちらも個人の努力や覚悟を要求しているように見える点だ。もちろんaraikenさんは自らの闘争を他人には無理強いできない、誘惑することができるだけだ、と言っているので、私は特に批判する気はない。しかし、「祭り」ってのは闘争なんだとか、「軽い」もんじゃなくて覚悟が要求されるんだ、なんて述べているのを目にすると、私は「なんだかなぁ」と思わざるを得ない。変革の条件を結局個人の努力や覚悟に還元した議論をしがちなのは、新旧左右問わず慢性的な症状なのだろうか。私はそういうの、好かない。


ただ好かないとだけ言ったら、また問題があるだろうな。でも、好かないものは好かない。そんなのしんどいよ。しんどいのは嫌だし、続かないよ。その点、「疲れる」のってどうなんだろうか、という問題提起の仕方をしているrorygallagherさんへの方が、(結論が一致するかどうかはわからないとはいえ)私は共感しやすい。
社会を変革する為に個人に過度の努力を求める思想を私は基本的に信頼しない。でもaraikenさんなどは自分自身のミクロの闘争だと言っているんだから、それはそれでいいだろうと思う。自己実現は自由だ。だから、別にもう言うことはない。


言うことはないと言った以上、これはまぁ、あくまで余談程度に聞いて欲しいのだが、どうしても私はaraikenさんの「祭り」の定義に馴染めない。だいたいが、


太陽の輝き(栄光)は、惜しみなき自己犠牲(浪費)によってしかあがない得ない


なんて言葉を大仰に掲げている(「祭りの戦士とは何か?」)が、あくまで比喩の次元とはいえ、この言葉とご自身の主張とが本当に整合性を持っているのだろうか。共同体の「栄光」の為に自己犠牲を求めるという「祭り」とミクロの政治闘争とが実際一致し得るのだろうか。私はどうも、天に頂く太陽の輝きの為に地上に在る人間が犠牲を捧げる、という考え方は好きになれない。この考え方をとるなら、それこそ(araikenさんが批判するところの)内田氏の主張を同じ構造で反転させるだけになりかねないのではないか。それとも、この「栄光」が自分以外の何かというわけではないのなら、比喩を変えたほうがいいんじゃないだろうか。
なんてことを言うのは無粋だからやめようとずっと思っていたのだが、書いてしまった。きっと暑さのせいだろう。失礼千万で申し訳ないことだ。

コメント

上のきはむさんの文章、読ませていただきました。しかし、これと以前の議論とはどうつながるのか、という点にいささか疑問を覚えます。


そもそも、議論の発端は、きはむさんが荒井さんを含む論者を一括して「逸脱派」と呼び、対する内田氏や宮台氏などの論者を一括して「再帰・統合派」と呼んだ上で、後者には具体的なビジョンがあるが、前者にはない、だからダメだ、というような主張を展開されたことにあるわけです。


これに対し、荒井さんや「その周辺」(私もおそらくこれに含まれるのでしょうが)も、逸脱とはいかなる意味を持つのか、再帰とは何か、というような言葉の問題を含めて反論してきたわけです(この反論が「わかっていない」とか「わかっていない」とかいう「本質主義的断定」のレベルに終始してきた、とおっしゃるとすれば、かなり不当な断定であると思いますが)。


ところが、上の文章では、はむさんはこれまでの論点を離れて、「好き嫌い」とか、「疲れる、疲れない」といった問題(というより個人的感想?)に議論を還元してしまっているように思えます。きはむさんご自身が提出された<変革の具体性>というさきの論と、これはどういう首尾一貫性を持つものなのでしょうか。


あるいは、上の文章では、「社会変革の努力を個人に過度の努力を求める」点が好ましくないとおっしゃっているように読めますが、これも以前の「逸脱/再統合」という問題設定とどう連関するのでしょうか。それとも、これは以前の議論とはぜんぜん関係ない話なのでしょうか?


最後にひとつ言えば、相手を批判する時に、「もう言うことはない」とか「余談程度」などと、あらかじめ逃げを打つようなことをおっしゃるのはいかがなものでしょう。『異邦人』のムルソーではあるまいし、誰であれ、自分の発言を<暑さのせい>などにするわけにはいかないでしょう?


2005/08/21(日) 18:24:59 | URL | Gil #- [ 編集]


ふふ、厳しいいですね。
お答えは、全部つながっています、ということでひとつ。
軽い文体だと伝わらないんですかね。硬く書くと長くなりがちで嫌なのですが。


「余談程度」とは逃げだという批判は甘受しますが、「もう言うことはない」は批判を意味していないのでいいのでは?、という話はどうでもいいか。
不真面目さへの叱責はそれとして、ムルソーに喩えてもらえるのはちょっと嬉しい、なんて言ったらまた怒られちゃうかな。
2005/08/22(月) 14:59:37 | URL | きはむ #- [ 編集]


おっしゃる通り、議論の相手に対して「言うことがない」と宣言する、というのは「批判」として成立しません。それは端的に<不毛>である、というだけのことです。


そもそも、相手の「問題」そのものが共有できない、「好きになれない」、ということであれば、共に語り合う意味自体がないわけですからね。


まあ正直、今後実りのある議論は期待できそうにないと思うので、もうやめておきます。あと言うことがあるとすれば、「何も言うことがないなら、端的に沈黙するべきでしょう?」という、実につまらない忠告でしかありません。ま、これも「どうでもいい」ことでしょうが。


2005/08/22(月) 19:46:12 | URL | Gil #- [ 編集]


このテーマのエントリーで、強さから降りた疲れた筆者のぐだぐだっぷりがコメント欄で叱責されるなんて、とても「再帰的」だなあ・・・


一応今までの議論と繋がりはみえてますよ。


ここで「議論」が終わるとしたら、とても残念です。両方の言い分がそれぞれわかる気がしていただけに。


・・・一観客の勝手な感傷でした。
2005/08/22(月) 20:59:44 | URL | いつもはROMだけど #- [ 編集]


「なんだかなぁ」という感じや「疲れる」っていう感じ、あってもいいと思うよ。


みんなが思想家になれるなら、そもそも政治なんていらないよね。


そういえば、「考えてる人が偉い」みたいな態度がとんでもない間違いだってことを、カントはルソーを介して悟ったとか言うのを読んだ覚えがあるよ。
2005/08/23(火) 22:25:48 | URL | サモッチ #- [ 編集]

TB


祭りのあと―世界に外部は存在しない http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20070121/p1


恋と革命 http://araiken.exblog.jp/2190791