割り切れない世界で


2005/08/24(水) 00:18:36 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-120.html

あんたの無関心が、人様が心地よく生きるのを難しくしてるんだよ。


こういう言い方が私は好きではない。


私達は誰でも他人を傷付けて生きている。他人を排除し、抑圧し、差別し、搾取し、無視することで生きている。そしてそのことを知っている。知っているから罪悪感を覚えたり身を引き裂かれるような思いを感じたりする。しかし、それでも他人を傷付ける道を「選んでいる」。それは割り切れない思いを抱いて前に進むことだ。


冒頭に引いた言葉は、ある意味での割り切りであると私は思う。それは他人なんてどうでもいいと語ることや、意識的かつ能動的に他人を傷つけようとすることとは逆方向への割り切りである。あらゆる他人を心地よく生きさせて欲しいということはけして応え得ない期待であり、誰も傷つけずに生きるということは全く不可能な責務である。それにもかかわらず、そうした完全な不可能性を追求し無限の倫理を奉じるということは、ある種の割り切りに違いない。けして割り切れないことを、その割り切れなさを退けてしまう。


私は、二つの場合においてこの態度を問題とする。
一つは、この態度を選ぶ者の言動が一貫性を欠く場合である。多様な考えや態度はそれ自体としては責めることができないが、その内部での矛盾や不備を以て批判することができる。しかし、この態度の場合には、その非一貫性はほぼ不可避のものでもある。それは、この態度が不可能性を追求することを意味しており、不可能性を追求している以上、その態度を貫徹することは不可能であるからだ。このことは、無関心と排除に向かう割り切りが容易かつ自由であることとは対照的である。
しかし、この態度を採る者は私の批判をさほど気に留めないかもしれない。確かにワタシもまたどこかで、何らかの形で誰かを傷つけ、誰かが心地よく生きることを難しくしているが、そのことはあなたを責めることができない理由とはならない、と。ワタシは自らもあなたも同じ罪状で断罪されるべきだと表明しているのだ、と。それはまさしく無限責任の泥沼に足を踏み入れることとなるが、一つの態度ではあるだろう。しかし、さほど意味も無く非生産的な態度である。それぞれの暴力とそれぞれの距離を自覚し意識している人々を前にして、「皆が皆に罪がある」なんてことを言って何になるというのか。この点で、私はこうした態度によって無関心を「責めることはできない」とは考えないが、「責めるべきではない」とは思う。あるいは、責めても仕方がない、と言うべきか。


二つには、この態度をとる者は往々にして足が宙に浮きやすいことにおいてである。自らの足場を見失うことには様々な形があるだろう。自らを超越的な断罪者に擬してしまったり、自己否定の深い穴に落ち込んでしまったり、「他者」を聖化してしまったり、などなど。いずれも甘美な罠だ。自らが誰かを傷つけねば生きていけないことや、ある「人様」もまた別の「人様」を傷つけ心地よく生きさせないようにしてしまっていることなどを、忘れてしまう。
私がさだまさしの「遥かなるクリスマス」(こちらで歌詞全文が読める)やスガシカオの「気まぐれ」を聴いて心動かされるのは、その地に足が着いた態度ゆえである。自己と「他者」との距離を簡単に詰めようとしない。いや、詰めようにも詰められないやりきれなさ、割り切れなさ。それが巧みに抉り出され、切り取られているからだ。
自らが「他者」を傷つける、あるいは無視する地平に確かに存在することを、その現実を全身で感じ、それでいて単純に自らを否定したりしない。その態度は、安易に「他者」に近づこうとしたり、「人様を心地よく生き」させてやろうとしたりする人々とは明白に違う。外ばかり気にして、前のめりになって、いつしか足が地面から離れがちになる人々とは違う。もちろん、足を離さないのではなく、離すことができないといったほうが正確かもしれない。まさしく、それが割り切れなさでもある。私はその割り切れない態度を圧倒的に「正しい」と思う。その意味で、さだの歌をよくできた反戦平和ソングとして持ち上げるのも、逆にはっきりとした反戦平和ソングになりきれていないとして批判するのも、私は違うと思う。


私は、割り切った態度というものを責める気はない。しかし、それが無自覚であったり、地に足が着いていなかったりするならば、批判を惜しまない。逆方向へのそれぞれの割り切りも、割り切れないままの態度も、それ自体として責め得るものではない。私はまさに利己心にこそ拠っており、利己心をこそ尊重している。無関心はあるレベルにおいて「責めることはできない」し、全体を通して「責められるべきでない」。私は利己心によって「他者」を排除したり死に追いやることもまた、それ自体「責められるべきでない」と思う。このことを責める人々はある倫理を前提として持ち込んでおり、それは一つの態度であり一般的な態度でもあるとは思うが、私はその倫理を必ずしも信頼しない。
私が誰かを傷つけるという前提で生きている限り、わざわざ他人に言われるまでもなく、私は「責任」を負っている。そういう意味での「責任」なら最初から最後までいつもどこでだって負っている。しかし、それは一方的に責められたり断罪されることとは違う。世界は利己心とそれを実現する力の闘争で成り立っており、誰かが心地よく生きることができるような倫理や制度をつくろうとする行為もまた、何らかの力を動員することであり、利己心に突き動かされている。それを忘れてはならない。


私のこの見方自体が一つの割り切りかもしれないが、ともかく私は自分が誰かを傷つけなくては生きていけないという割り切れない思いをしか出発点に選べないし、割り切れないながらの暴力が伴う「責任」はとてもフラットであり、すべてを貫いていると思っている。
割り切れない思いを抱いて進む。「責任」なんて当たり前すぎて言うまでもないことだ。少なくとも無自覚なレベルで責めてくる言葉を意に介す必要はない。無関心が人を傷つける、それがどうした。無関心は責められるべき対象ではなく、説得すべき対象だ。あなたがあなたの利己心ゆえに、あなたの力を以て働きかける対象である。暴力の存在を指示し意識化することは必要だが、それをそのまま問責の対象とすることはよろしくない。言うまでもないことだが、何らかの倫理や制度をもって暴力を抑え込むこともまた暴力である。
重要なのは「どうすべきか」などという形式の論理ではない。「どうしたいか」だ。それこそが、割り切れない世界で私達が進むことができるほとんど唯一の原動力だと、私は信じている。

コメント

きはむ氏の言うことには基本的に共感します。しかし、仮想敵を矮小化している感じがします。


『この態度をとる者は往々にして足が宙に浮きやすいことにおいてである。自らの足場を見失うことには様々な形があるだろう。自らを超越的な断罪者に擬してしまったり、自己否定の深い穴に落ち込んでしまったり、「他者」を聖化してしまったり、などなど。いずれも甘美な罠だ。自らが誰かを傷つけねば生きていけないことや、ある「人様」もまた別の「人様」を傷つけ心地よく生きさせないようにしてしまっていることなどを、忘れてしまう。』


甘美な罠、という文学的表現は正しいでしょうか。『自己否定の深い穴』が、『自らが誰かを傷つけねば生きていけないことや、ある「人様」もまた別の「人様」を傷つけ心地よく生きさせないようにしてしまっていること』を『忘れてしまう』というのはあきらかにおかしい。むしろ、そのことを考えすぎて煮詰まってしまうことこそが、『自己否定の深い穴』でしょう。それのどこがどう甘美なのでしょうか?


『私はまさに利己心にこそ拠っており、利己心をこそ尊重している。無関心はあるレベルにおいて「責めることはできない」し、全体を通して「責められるべきでない」。私は利己心によって「他者」を排除したり死に追いやることもまた、それ自体「責められるべきでない」と思う。このことを責める人々はある倫理を前提として持ち込んでおり、それは一つの態度であり一般的な態度でもあるとは思うが、私はその倫理を必ずしも信頼しない。』


まさにこの文章が、「利己心の肯定」という倫理を前提としていることを自覚すべきです。結局、「割り切り」という自己否定を退けて「割り切れなさ」という自己肯定を採用する根拠は何ですか?その根拠が、我々はそのようにしか生きられないという事実性だというのならば、きはむ氏の議論は、事実性を規範性に移し変えてしまっているのであって「責めてもどうしようもない」という事実性の根拠にはなっても「責められるべきではない」という規範性の根拠にはなりえないのではないでしょうか?
2005/08/25(木) 23:01:40 | URL | dojin #- [ 編集]


煮詰まってしまえること自体甘美だと思いますが。とかく自己否定というのは甘美なものです。


私の態度は利己心を倫理としているわけではないと思っていますし、どちらかといえば事実性の話をしているというのはそうだと思いますので、そちらにだけ答えます。


私の主張は何度も言う通り消極的なものですね。「責める」人々からその倫理的・道徳的優越を剥ぎ取ろうとするもの、その問責の無根拠性・不適切性を指摘しようとするものでした。ですからより弱い言葉で言えば、「責められるべきだ」とは言えないんじゃない?、程度のものだったかもしれません。
「責められるべきではない」と言うのは積極的な規範性を主張していたわけではなかったと自分で思いますし、この言葉が気に入らないあるいは不正確だと言われれば、上記の程度にまで後退しても私は構いません。


どのみち「責められるべきだ」と言う人々はある倫理を動員しなくてはならず、それを周囲に受け入れさせねばならないということは変らないわけです。それに対して私はその倫理を必ずしも信頼しない。だから私は、この人々に自分達の主張の恣意性と相対性と暴力性を自覚してもらえれば、とりあえずいいんです。そんなことはみんな解っているよ、と言われれば、それは良かったですと言うだけで。
2005/08/26(金) 16:54:13 | URL | きはむ #- [ 編集]

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責任論ノート―責任など引き受けなくてよい http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20070122/p1