隠れ布教者の誘惑に抗して


2005/08/28(日) 00:16:46 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-121.html

誘惑@祭りの戦士


何かを手にしようとするなら、何かを失わなければならない


この言葉だけを取り出して語るよりも、この言葉が発せられた文脈から検討したほうが妥当だろう。


文脈からして、この言葉は「まず失う」ことを推奨している。まず自己犠牲が求められた上に、結果は保証されない。保証されないどころか、併せて「結果で評価しない」と語られることで、事実上、結果が得られないであろうことを保証している。しかし、この「祭り」という自己犠牲、すなわち「闘争」、あるいは「賭け」は、それ自体が意味あるものであって、「祭り」が生む意識変革の行く末には資本主義の終焉が待っているがゆえに、資本主義を問題とする人々はすべからくこの「祭り」に参加することが望ましいとされる。
こうした語り方は、つまるところ、現世利益を問題とすることなく、来世か天上世界での幸福を約束する、古式ゆかしい宗教的レトリックの域を出ない。将来における永遠の幸福を約束する代わりに、今生での自己犠牲、供犠がなされなければならない、というこの論理。この論理に従えば、現世利益などを云々するのは既存システムの価値観に囚われている意識ゆえであり、不浄とでもされるのだろう。


社会の承認を失ってまでマイナーな価値を追求して闘争に励むことが推奨されるのは、それが資本主義的価値観を否定して意識を変革し、(実際のところ、いつどのようになされるか全く不明である)資本主義システムの倒壊につながるためである、という論理と、こんなに理不尽で辛苦に満ちている現世で清廉かつ勤勉に生きなければならないのは来世での幸福のためである、という信仰とは、代替的充足感提供・心理的合理化という役割を果たしている点で同質である。
根拠薄弱であるか不明瞭である将来の「約束」を糧に、今の苦しみを耐え抜きましょう、自己を捧げものにしましょう、という阿片。「祭り」に励んでいる人々には、この「祭り」こそが資本主義の倒壊あるいは骨抜きをもたらす(来世での幸福が得られる)という確信に基づいて心理的安定と充足が供給され、彼らは安心して現状のままを生きられる。「祭り」は来世での幸福なんて約束しないなどと言う不信心な輩は、最後の審判によって地獄に落とされるだけだ(資本主義の倒壊あるいは骨抜きの後で資本主義的価値観に囚われたまま途方に暮れるだけだ)。


各人が多様な価値と自己の可能性とを追求し、一元的な価値観を否定して生きることが望ましい、という言説は何度も言う通り新自由主義に適合的である。学ぶだけが価値じゃない、働くだけが価値じゃない、多様な価値と生き方があっていいんだ、という言説はいわゆる「社会的弱者」や下層階級の人々を自己肯定に導き、階級格差を受け入れやすくするだろう。政府なんかがパターナリスティックにいちいち介入するべきじゃなくて、各人が自助努力・自己責任で自らの価値と生き方を追求すれば良いだけのことだ、ということで「制度」は縮小され、「操作」は半ば放棄される。
しかし、本当に多様な価値と生き方を追求できるようにするためには、誰もが好き勝手なことをしても生きていけるような社会にもっていく、あるいはそういう社会を「設計」し「構築」し「操作」する必要があるのではないか。その方法や「制度」の在り方は徹底的に問い直し、ラディカルに変える必要があるが、考えなしにただ「設計」「構築」「操作」を一蹴するだけでよいものだろうか。かつてアナーキストを自称していた私としてはaraikenさんやosakaecoさんの「設計」「操作」嫌いには何ともアンビヴァレントな思いを抱かざるをえないのだが、どのみち「脱構築」するためには「構築」せねばならず、「設計」「構築」「操作」の恣意性と暴力性の「責任」は自ずから発生するものであるから、結局どう言い繕おうがこうした「責任」を回避しようとするのは甘ったれの逃げ口上でしかない(もちろん私はこうした「甘ったれ」が嫌いではないが、それは自身の「甘ったれ」に開き直る限りでのことだ)。


多様な価値を追求せよと語りながら、追求が可能になる基盤について語らず、自己犠牲を推奨しながら、その見返りとして結果が得られるべきだとは考えない。こうした振舞いというのは、私には新自由主義ポリシーの補完の役割を果たしているようにしか見えない。新自由主義という巨大な教会組織からいつの間にか反対陣営に送り込まれた僧侶が、あたかも新自由主義に反対し逆の教義を教えているような振りをしながらも、実は着々と布教を成功させているのではないのか、という私の疑心暗鬼はますます深まるばかりだ。
はっきり言って、私にはaraikenさん達の考え方は60年代から大して成長していないように見える。ああした考え方が通用するのはおおまけにまけて90年代前半ぐらいまでではないか。もちろん、araikenさんは安保世代でも全共闘世代でもないし、思想の評価は古いからといって下がるものではないのであって、あくまでも乱暴な印象の話だ。それにしても、私にはaraikenさん達が散々酷評している浅田彰の「逃走論」や「スキゾ・キッズ」という考え方の方が(完全ではないが)より開き直りに近いぶんだけまだマシではないかとさえ思う。


以前も書いたように、私は阿片を阿片として認識しながらそれを服用し続けることは何の問題ともしない。しかし、阿片をまるで特効薬であるかのように装い、他人にも服用を勧めるという所業は許すべくもない。あくまでも自己目的化した運動であり、自己実現と自己充足が主眼の運動であると自覚した上でそれを追求することは自由になされるべきだ。しかし、この運動は現実に社会を変えられるんです、しっかりとした具体的ビジョンに基づいているんです、などと明確な証左もなしに公言することは阿片を特効薬として勧めることに等しく、責められてしかるべきである。


冒頭の引用句が、それ自体として一定の妥当性を有していることは否定できない。しかし、この言葉は今の私達に必要な言葉ではない。私達は、これからますます、「まず失う」ことを勧める言説に疑いの眼差しを向ける必要がある。その入手・獲得には、本当に喪失が、犠牲が必要なのかどうか。失わずに得る方法は本当に無いのか。なぜ失わなければならないのか。失うとしてもなぜ先に失わなければならないのか。失った後に得られる保証はどこにあるのか。


誰かに迫られるまでもなく、意を決するまでもなく、私達は何かを失っていく。いつの間にか、だんだんと、あるいはあっという間に、失っていく。それは避けられないことだ。わざわざ先に犠牲を払うまでもなく、何かを得れば得ただけ、何かを失っていくものだ。何かを選び取るということは、何かを選び取らないということだ。この現実の中では、「何かを失わなければ…」などという強迫観念は無用である。もちろん私達は何かを失っていくよ、それがどうした。それでも私達は何かを欲しがるし、何かを失わないでいようとするだろう。手に入れられるものは全て手に入れ、失わないでいられるものは全て失わないでいようとするだろう。私達はわがままでいたい。私達に必要なのは、わがままが通る社会だ。そこには、わざわざ言うまでもない喪失と犠牲を迫る僧侶はいらない。




sailing day / BUMP OF CHICKEN

TB


祭りのあと―世界に外部は存在しない http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20070121/p1