選挙制度と政党


2005/09/09(金) 21:55:30 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-131.html

誰も教授してくださらないようなので、とりあえず書くだけ書いてみる。知識不足は今更言うまい。


 これまで自民党新人は世襲や国会議員系列の地方議員などから起用されることが多く、古い体質を引きずりがちだった。個人後援会などを中心に地元や業界へのサービスを優先することが求められ、「政治とカネ」の悪弊がつきまとっていた。


 落下傘候補英米では「カーペットバガー」と呼ばれる。候補者がカーペットバッグ(絨毯(じゅうたん)の生地で作った旅行カバン)を持って、国内の選挙区を転々とすることに由来する。英保守党のサッチャー元首相も三回目の総選挙で選挙区を変え、初当選した。


 こうした手法が英国で定着したのは、徹底した政党、政策本位の選挙が根付いているためだ。有権者は候補者個人より党や党の政策を投票の基準とする。候補者も地元の縁より、相手候補と議論する力量などが問われる。


産経新聞』 8月18日付「主張」 選挙戦略 利益誘導型は変わるのか


パッと読んで、「候補者個人より党や党の政策を投票の基準とする」のであれば完全比例代表制にすればいいじゃないか、と思うのは多分私だけではなかろう。小選挙区制を廃して比例代表制だけで争うことにすれば、地方と中央の癒着解消はより徹底するはずだし、「徹底した政党、政策本位の選挙」ができるはずだ。そればかりか、死票が極小化されて万々歳ではないか。単純に考えればこうなる。
何故わざわざ小選挙区制を維持する必要があるのか。最大の論拠は多党化による政治の流動化を防ぐというものだろうか。それにしても議席獲得の条件として得票数/率の下限を設けるとかそれなりに策はあろうと思うのだが、確かに国政の場でむやみやたらと政党が多いのは厄介だし非効率であるから、この論拠に一理は認めておこう。


しかし、小選挙区制を併用するメリットが多党化傾向を防ぐという、やや技術的な理由、すなわち制度の現実運用上の考慮に由来しているとすれば、論理上は、多党化傾向が一定程度に抑制できさえすれば比例代表制だけを用いた方がより民主主義の理想に近い、ということにならないか。小選挙区制は、民主主義を現実に適用可能にし安定化させるための次善策でしかないのであろうか。
必ずしもそうではなかろう。全国をいちいち小さな選挙区に分割することにも、何らかの積極的な意味があるはずである。何せ比例代表制にしてもブロックには分けられている。いくつかの地方、地域に分けて各々から議員を選出することには民主主義原理上の意味があるはずである。


さて、先の産経の論説にも見られるように、現在の日本ではいわゆる利益誘導政治というものを古臭い、汚らわしい、国全体の利益に反する、として忌み嫌っておけばオーケーという空気が支配的である。私はどうもこういう振り子の反動的な主張というものは軽薄に思えるのだが、まぁそれなりの論拠に基づいていないことはない。確かに日本国憲法第43条では、国会議員は「全国民を代表する」ものとされており、各地方や選挙区を代表するなんてことは一言も書かれていない。このことは、「代表」とは何か、という極めて重大な論点に関わっており、詳しく考えてみる価値がある。代議制民主政における議員は、自らを選出した有権者の利害を代表して行動するべきか、それとも選出されて以後はあくまで自らの自由意志で行動するべきか、という論点は政治学において伝統的なものである。


ここからは、福田歓一『近代民主主義とその展望』から引用しながら考えていこう。福田は、「代表」と「代理」を区別する。


選挙区の言い分をそのまま持ち込んで、選挙民が頼んだことをそのまま取り次ぐ人間、それが代理人である。これに対して、選挙民を代表して国政に参加する代議士は、国民全体の利害の立場から判断するのであって、選挙民の利害に拘束されない、というわけです。あまりに露骨な利益誘導ばかり見せられていますと、これはたいへん立派なことに見えますが、ただ民主主義という観点から見ますと話は少し違ってきます。つまり民主主義を国民全部が政治の当事者になると考えますと、そんなに議員が威張って、糸の切れた凧のようになってしまったら、選挙権を持ったところでダメじゃないか。そうでなくたって、間接にしか参加できないのに、その糸まで切るというのでは、なにが民主主義だと――いうことになるのが、むしろ当然だろうと思うんです。
(133〜134頁)


私は、イギリスに限らず、実際のところほとんどの代議制民主主義国というのは選挙貴族政の延長線上から抜け出ていないと考えている。別にここでそのことを批判したいわけではないが、ひとまず「代理」に対する「代表」の原理というものが必ずしも民主主義的とは言えないことは確認しておこう。一旦選出されたなら国民全体の為に自らの意志で政治を行う、という「代表」原理は百歩譲って自由民主主義的だとは言い得ても、純粋に民主主義的な考えだとは言えまい。
もちろん福田も、純粋に民主主義的でないからといって「代表」原理を退けることはしない。


 その理由としては、先ほども申しましたように、近代国家の規模を考えると、代表を入れないで民主主義を機構化することはむずかしいという事情がある。同時に、これに関連して、ある意味ではバークがすでに理論化しましたように、近代国家では政治が、いやでも専門性を持たざるを得ない。つまり専門の実技を習得した政治のプロというものが必要になっていて、その意味では素人の手にあまる。素人判断で片付けることが、必ずいい結果を生むという保証はないのであります。それは、リンカーン流に言えば、確かに人民の政治であるかもしれない。しかし、人民のための政治であることもまた必要であって、そのためにはリアリズム、現実的な判断の能力が必要である。そしてすべての人間がプロになれるわけではないとすれば、そのプロの中の誰を信任するかを考えるしかない。それは、あまり民主主義的でないかもしれないけれども、しかし機構としては便利なこともあるというわけであります。
(135〜136頁)


だいたい英国の中産階級は、自分たちの自由を権力に侵されはしないかと非常に警戒しますけれども、権力を行使することはプロに任せて、まあ、なるべく政府は安上がりにすませてくれたら、そのほうがいいという考え方をしたのであります。これは身分制の伝統がそのまま民主主義の機構原理に入り込んだ、典型的な例であります。これとはまさに対照的なのが、もちろんこういう身分制的な遺産というもののない米国の場合であります。アメリカン・デモクラシーには、どうも代表の観念が薄い。議員というものは自分たちのなかから選び出した人間であって、本来は自分が当事者なんだけれども、規模が大きいために不愉快ながら、間接に参加するしか仕方がないから、出しているものにすぎない。だから、議員が自分の言うことを聞いてくれるのは当たり前であって、それにそむくのはたいへんけしからんという、直接民主主義的な気持が強いのであります。彼らが選挙権だけでは満足できないで、人民発案や人民投票やリコールのような制度をやがて導入したところにも、それはうかがえるところであります。
(136〜137頁)


現実的に考えるなら選挙貴族政であってもある程度止むを得ないではないか、という意味だと受け取ってよい。ここでなされているアメリカに対する洞察はそのまま鵜呑みにしてよいものか判りかねるが、それは措いておく。
各選挙区の有権者は、あくまで国政に携わる「貴族」としての国会議員を選ぶものだということ。それが憲法第43条における国民代表の原理が意味しているところなのかもしれない。議員が単なる「代理人」でよいとは、憲法も国民の多くも思っていないのだろう。


しかし、それにしても完全比例代表制ではなく、小選挙区制も用いることの積極的意味についてはまだ解決がつかない。もう少し迂回する。


落下傘候補が一般化することによって地方分権が進むことに繋がる、という議論が見受けられる。国会議員が地元との結びつきが弱まることで国政に専念し、結果、地域の政治家の責任が重くなり自ら努力するようになる、といったような議論だ。
分権化が進むのなら結構なことだが、本来地方分権は派生的にではなくそれ自体として推進しなければならない課題である。その内実も、各地方が身の丈に応じて暮らせというような地域間格差拡大方向での改革ではなく、各地方がその特殊性に対応でき、創意工夫ができるような権限と財源が大幅に移譲される改革でなくてはならない。もちろんナショナルミニマムユニバーサルサービスとのバランスを図ることは重要かつなかなか難しい問題ではある。
それで、こうした抜本的な分権改革がなされないまま落下傘選挙が一般化すればどうなるか。地方はろくな権限も無いまま自分のことは自分でやれと言い捨てられ、他方中央では、巨大な権力を握り締めたままの中央官庁と地方と縁が切れた国会議員、トップダウンで地方支部を協力に統制する全国政党などなどが専ら中央の仕事に携わっておられ、どうやらむしろ中央集権化(あるいは地方切捨て)が進みそうな様相である。
私は落下傘候補を何も否定しない。しかし、それと絡めて分権化を語ることは筋違いであり、それでもあえて語るのなら同時に徹底的な分権化を推進することが不可欠であると言わなければならない。


そもそも、地方分権化が進もうが進むまいが、地方と中央と繋ぐことは国会議員の役割ではないと完全に言い切れるものだろうか。国政を司るためには地方の事情、多様性、要求といったことも考慮する必要があり、そのためにも各地方から少数ずつでも国会議員という代表が必要になる、ということは言えないのか。逆に国政の事情を地方に伝える役割もある。こうした地方と中央を繋ぐ仕事は、国会議員が国民全体の代表として国家全体のためにするべき仕事と言えるのではないか。細かく分けられた選挙区から選ばれた議員が中央にやってきて国政に携わるという形のシステムが一貫して維持されているということは、地方の声を中央に届ける役割の必要が認められている、という単純な事実を示しているだろう。それはどんなに利益誘導政治が嫌われても変わらない。
国会議員が国民の代表であるという建前は変らないが、現実には、国会議員というのは国民全体によって選出されるわけではない。少なくとも現在の日本の選挙制度においては、有権者が手にしている一票というのはあくまで自身が籍をおく選挙区やブロックにおける有権者全体の中の一票であって、全国の有権者全体の中の一票ではない。この事実は、制度運営の都合上止むを得ずそうしているのだ、という消極的な理由に基づくものではない。各地方・地域の多様性というものが考慮され、その選挙区に一議席を割り当てるために、わざわざ選挙区制というものがあるのだ。選挙区にもブロックにも分けない全国比例代表制では全有権者の内の一票になってしまうところを、より多様性が反映されるように選挙区制を採り、各選挙区の内の一票に留めているのだ。


さて、こんなところで小選挙区制の積極的意義については述べ終えた気がする。結論としては、有権者の多様性を多少なりとも議席に反映するという意味で、小選挙区制にも技術的・消極的メリットだけではなく、民主主義原理上の積極的な意味がある、ということである。したがって、基本的に私は現在の選挙制度でよいのではないかと思っている。もちろん一票の格差などは是正する必要があるが。また、地方分権がかなり進めば、参議院を地方代表用としてしまうのも一案だろう。この案は確か憲法改正が必要になるし、地方代表が参議院だけに特化されてしまうと地方の声がより軽んじられるようにならないか多少の疑問もある。まぁ参議院の改革案を述べたいわけでは無いので、本題を進める。


今度は政党組織について考えたい。「候補者個人より党や党の政策を投票の基準とする」ことで、党内の多様性が失われ、国会議員とはただの投票マシーンに成り果てる、という議論も見受けられるので、それに絡む福田の引用から始めよう。


 この関連で次のようなことがしばしば言われます。現代の議会政治では、全部の決定はすでに選挙の結果によって決まっている。その後議会で討論をしたり、説得をしたり、要するに議論をしているのは、全部儀式であり、あるいは茶番であって、多数・少数ははじめから決まっているんだから、最後に議長が声を張り上げて、「これより採決に移ります」とやる手続きなど、結局、既成事実の確認にすぎないというわけであります。
(150頁)


パーラメントという名前が示すように、そこは武器で決着をつけるところではない。言葉で議論をして、ほかの人間と話をつけるところであった。この自由な意見交換があってはじめて多数の意志が、たんなる多数の意志でなしに、全員の合意とみなされるようになるという慣習が定着したのであります。(中略)こうして、議会政治には元来、前提があったのでありまして、それは、正しい決定に到達するためには、討論をすることに非常に積極的な価値があるという確信。自分たちの考え方がはじめから正しいとは限らない。議論を戦わせていれば、もっといい考え方が見出されるものだという信念、それから、いろいろ議論をしているうちにだんだん問題がわかってくると、人々の考えも変化していくもので、説得によって意見分布は変わる可能性があるという信条がそれであります。
(151〜152頁)


 ところが、そういう意味が急激に失われて、議会のやることは既成事実の確認だとまで悪口を言われるようになりました契機には、政党の組織化、組織政党の発達があります。歴史の章で申しましたように政党が組織政党になることは、一人一人の議員に対する党の統制力がそれだけ強くなること、党の組織に頼らないで個人で当選する可能性が非常に小さくなることであります。しかも組織政党はあらかじめ綱領を持っておりますから、議員は個人的意見を拘束される。そうなりますと、議会の内部で討論し、説得するという過程の意味は著しく薄くなっていくのであります。
 それならば、討論と説得との意味はそこで失われたでしょうか。決してそうではありません。政党の統制力が強まって個々の党員をしばるようになりました代わりに、二つのことが出て来ました。第一は、政党内部での討論と説得の過程が大事にされるようになった、いわゆる党内民主主義の要求であります。(中略)党内民主主義が強調されるようになると、それは、議会内部での討論のさらに背景にあった、社会のさまざまのレヴェルにおける討論を強化する作用をいたします。組織化された党の下部組織はびっしりと網の目を広げて、そこでは討論が重要な行事になる。それによって酒場を基点としていた意見の政治の伝統を強化し、吸い上げるからであります。
(152〜153頁)


議会の中で討論と説得の過程を繰り返すことは、それを通じて、なにがいったい問題であり、なにがそこで争われているのかを、国民の前にはっきりさせておくという意味を持つ。それは結果責任を問うことに役立ちますから、そういう気風さえあれば、討論と説得との過程は、依然として責任政治の条件として作用している。そればかりではなく、先ほど申しましたように、社会のあらゆるレヴェルにおいて、討論と説得の習慣が定着することによって、意見の政治を育て、長期的に見て、社会の多数の意見を議会という機構の中の多数に反映し、媒介する方法になるからであります。
(154頁)


私はこの福田の主張は正論の部類に入ると思うが、同時に楽観的に過ぎるとも感じた。なぜ楽観的だと思ったのかと考えれば、要するに日本政治の現状とあまりにかけ離れているからだ。現在の日本では、議会内における討論と説得は十分ではないし、党内における討論と説得もろくに行われていないか不透明である。
議会内においては、特に小泉政権においては首相答弁や党首討論でのやる気のなさが指摘できる。五百歩譲ってそれが組織政党による議会制民主主義ゆえだとする。では党内での討論と説得は活発になされているかといえば、そんなことはない。基本的にどこの政党も党内民主主義を体現しているものといえば党首公選程度のもので、一旦それが済めば討論も説得もあったものではない。もちろん水面下でのそれは活発になされているかもしれないが、公になされていなければ良い意味は無い。党内組織と政策綱領決定過程が不透明なのは、何も共産党の専売特許ではない。一般の有権者から見れば、どの党も大差ない。福田が言うように議会を形骸化させないためには党内民主主義が必要であり、それは党首公選以外の時期でも恒常的に公の党内討論が交わされる必要を指している。国政を動かす政党にはその責任がある。


もう一つ言っておく必要があるのは、政党組織における地方と中央の関係についてである。私は自民党のいくつかの県連幹部の、県連あっての党本部だろう、という声を非常にもっともだと思う。小選挙区制についても述べたように、各地方・地域には多様性が存在し、それが積み上がって全国、中央が出来てくる。党内民主主義にしても、各地方の各党員の討論が積み上がって各議員にもたらされ、各議員の討論が積み上がって党の政策綱領やマニフェストが出来上がってくるものではないか。これは少し理想的過ぎる話だろうか。現実には党本部の「貴族」達が方向性も候補者も全て決めてしまって支部の兵隊達をそれに従わせて動かす、というのが効率的でもあり望ましくもあるのだろうか。しかし民主主義原理がもともとこうした地方からの積み上げ、ボトムアップ型を要請するものである以上、その重要性は変わらない。焦点となるのは、福田も言うように、こうした理想と、機構上の配慮、運営上の配慮とのバランスをいかに巧みにとることができるか、というところであろう。


同じ政党の人が大体同じ政策を訴え、大体同じ志向性を持っている、ということは有権者にとってわかりやすいが、それはトップダウン型に枠をはめられるやり方ではなく、ボトムアップ型で党内の十分な討論を通じて達成されることが望ましいのではないか。まぁこのあたりは意見が分かれるところかもしれない。討論を通じても意見が調整できず、最終的に党が分裂したり公認が見送られたりすることは当然ありうべきことだとは思うが、基本的には一つの政党内にはそれなりの意見の多様性が保たれていることが望ましいと私は思う。


当たり前の話に終始したので、退屈された方も多いかもしれないが、今回の選挙に際してこうしたテーマを総合的に詳しく論じている記事・エントリを見かけることがなく、その割りに重要なテーマなので気になっていた。選挙後に詳しく扱われるかどうか注視したいところだ。
関連記事・エントリのご紹介も含めて、まだまだご教授募集中である。


近代民主主義とその展望 (岩波新書 黄版1)

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コメント

小選挙区制は、地域で分割されていたとしても、地域「代表・代理」の選出のためにあるのではありません。


比例代表をイギリスで推進した初期の人として有名なミルは「政党は地域毎につくられ、地域であぶれたもののみが全国政党をつくる」といっています。 全国一区の比例代表だからと言って、地域の多様性が反映されないわけではないのです。むしろ、地域の多様性「しか」反映されない小選挙区制の方に疑問が残ります。


そもそも、定数が一の選挙制度に多様性、つまり部分の代表の「集団」を期待する方が間違いです。だとすれば、小選挙区制の目的は全体をたった一つの意思で代表すること、つまり最高意思を決定することしかありません。


最高意思は与党の意見とは違います。与党の意見は野党がいなくても作れますが、最高意思は、議会での議決のように与党だけでなく全ての人が関わらなくてはならないからです。


最高意思が確立して、初めて国家は目的を持った活動できます。議会の議決は二者択一なので、多様性が確保されている、つまり小党乱立だと、国家の取りうる全ての選択肢が「否決」され、何もできない場合があります。小選挙区制・大統領選・首相公選などの多数代表は、二者択一を避けることにより、確実に最高意思を決定するためにあるのです。


余談ですが、こう見ると実は議会の議決と小選挙区制の選挙が、最高意思を決めるという全く同じ働きをしていることが分かります。もし議決方法を、現行の二者択一ではなく、多数代表の選挙方法と同じにすれば、議会選挙としての小選挙区制は存在意義を失うと私は思います。
2005/09/14(水) 14:45:54 | URL | A-11 #- [ 編集]


ありがとうございます。仰ること解ります。


ただ、私が言いたかったのは、全国ひとまとめの比例代表制だと「地域の多様性」は全部まとめられた中の一部にならざるをえないけれど、小選挙区制だととりあえず各「地域の多様性」一個につき一議席は割り当てることになるね、ということでした。


もちろんその一議席はその「地域の多様性」の内の多数派が占めることになり、それがたった一つの意思とされる、というのはその通りなのですが。


多様性の反映の仕方にも色々あるということだと思って、私はとりあえず一議席をその地域に割り当てる、ということが一つのメリットとして言えるのではないか、と考えたのです。まぁ、その是非はともかく。
2005/09/14(水) 19:19:35 | URL | きはむ #- [ 編集]


はじめまして。通りすがりのものです。
私も「選挙制度」に関心があって,このブログに逢着しました。


今日の毎日新聞の記事はそれなりに面白いのではないかと思いましたのでご紹介します。


http://www.mainichi-msn.co.jp/seiji/feature/news/20050921k0000m070148000c.html


この記事は今の「小選挙区比例代表制」をやや批判的に書いていますが,私自身は逆によくできた制度だと評価しています。


特に,比例代表制度の部分については,北欧系の「原理主義的比例制」や,ドイツの「優等生的比例制?」に比べ,制度の「すっきりさ」では劣るものの,小選挙区制度本来の面白さを損なわない程度で,そこそこ使い勝手もよい,日本人好みの仕上がりになっていると思っています。


きはむさんは冒頭で「何故わざわざ小選挙区制を維持する必要があるのか。」と問うていらっしゃいますね。私は,端的に,小選挙区のほうが面白いから,だと思います。


勝つか負けるか,優勝劣敗。確かに「死票」は多く生まれるデメリットはあります,「死票」を投じた有権者はまず負けを認めるべきなのです。両者を讃えた上で,勝者に拍手を送るのがまず最初にすべきことなのです。「死票」を減らすことも,もちろん大事です。ただ,比例制度によって「死票」をどうリサイクルするかは,その次に考えるべきことなのだと思います。
今回の選挙でも,同じ小泉改革のマドンナでありながら,世間の注目度は,「関東全域比例名簿1位」の猪口邦子よりも,圧倒的に,「豊島区の戦い」の1候補者である小池百合子に注がれました。もちろん,他の要素もありますが,日本人が質的にも「小選挙区」を主と捉え,「比例制度」を従と捉えていることの証左だと思います。
2005/09/21(水) 13:39:30 | URL | fromage #WASTBg2I [ 編集]


はじめまして。参考になります。


「面白い」というのは、学者や真面目な市民ほど軽視・軽蔑しがちな意見ではありますが、なかなか重要な論点ではありますよね。勝ち負けと言うと、闘技的民主主義などと絡められないかな…。ちょっと微妙か。


私は「従」にせよ比例代表制は残すべきだと思いますが、名簿順位の問題などは有権者の意思がより反映されるように改善できる余地があるだろうとも思います。
2005/09/21(水) 17:30:12 | URL | きはむ #- [ 編集]


小選挙区制度の「面白さ」について,少し補足させていただきたいと思います。


2年前の選挙では民主党が大幅に議席を増やし,政権交代を予感させました。二大政党制の時代が近づいたとみんな感じていました。そして今回は一転,誰もがびっくりするほどの大差で逆転が起こり,戦後政治に例を見ない大与党が誕生しました。しかし,自民党はこれだけ勝ってもなお,緊張感を緩めていないように私には見えます。次はわが身,そんな緊張感が新たに生まれているからではないでしょうか。惨敗した民主党の新党首は,「今回の選挙結果をそれほど悲観的に受け止めていない」と発言しました。決して強がりではないと思います。敗者としてではありましたが,彼らは小選挙区制のドラスティックな実例をまざまざと学習したからです。


すでに10年前にルールは変わりました。「2位当選」「3位当選」等の曖昧な勝者を容認していた中選挙区制は過去のものとなったのです。小選挙区制を「闘技的民主主義」だとネチネチ批判する論者は,いまだそうした過去のルールの名残を引きずっているだけではないでしょうか。そうであれば,あえて反論する価値のない批判だと私は考えます。


わずかの得票差で劇的に勝者と敗者が入れ替わる。これが,誰もが理解できる,多数決ルールの醍醐味です。この極めて現実的な交代可能性があるからこそ,つい2年前に,最大野党の民主党に多くの人材が入党し,そのうち幾人かは選挙に立候補して,都市部を中心に多くの選挙区で接戦を制しました。一方の自民党は,こうして小選挙区制をフル活用して台頭した民主党に対する危機感を強めたはずです。危機感があったからこそ,今回,自民党は大方の予想を超える大胆な手を打ってきました。自ら組織をリストラし,党内政敵だけでなく,総理経験者,衆議院議長経験者等の要人をも放逐しました。民間経営者でもここまでリストラを短期間に断行できるリーダーはいないでしょう。他にも理由はあるでしょうが,こうした危機感・緊張感が自民党幹部を突き上げた主因でしょう。決して,小泉首相個人の思惑だけではないはずです。多くの自民党新人候補者はそれを感じ取り,立候補の決断をして,各地に落下傘部隊として飛び降りました。そして,その後わずか数週間,有権者に対しても想定外の強力な共感を呼び起こしたのでしょう。


私がここで言う「面白さ」とは,批判者が想定するような,劇場にゆったり座って高みの見物する際のような緊張感のない「面白さ」ではありません。職をなげうってでも立候補する人からすれば,是が非でも政権奪取してやるという強い意欲,あるいは逆に,絶対そうさせてはならないという使命感等,彼らにとっては「ワクワクするようなエネルギー」こそが,政治的「面白さ」の本質であろうと思います。
また,この「面白さ」を享受するのは,必ずしも政党や候補者だけとは限りません。有権者がすべて,高みの見物に興じるだけの不道徳なテレビ視聴者ではないのです。候補者が感じたであろうワクワクするようなエネルギーを有権者もまた感じ取って,政党および候補者の将来に一票を投じたという人は決して少なくないと思います。投票行動は,信任行為である以上に,投資行為だと思います。過去の実績の良し悪しを機械的に判別するだけではなく,将来の可能性を予測して委任状を発するのです。これまでも,戦後日本の有権者の良識はとんど大きな失敗を犯していません。批判者が暗黙裡に想定しているように,日本の有権者の良識をわざわざ過小評価する必要はないのです。


私は,現実の政治制度が政党・候補者,ひいては有権者にうした高揚感をもたらすことができるのであれば,端的に,その選挙制度は優れたものと評価するのが自然であろうと思います。もちろん,「死票」を問題視する意見や,優勝劣敗の風潮を危惧する意見は重要です。ただ,それはあくまで小選挙区制度の「行き過ぎ」が懸念される場合に,それを牽制する役割に限って議論されるべきものでしょう。その意味では,私も小選挙区制のバッファーとしての比例制の必要性については,きはむさんと同意見で当面残すべきだと思います。


以上,長くなってすみませんでした...
2005/09/22(木) 02:04:05 | URL | fromage #WASTBg2I [ 編集]


fromageさん、思いがけず興味深いご意見をうかがうことができて嬉しく思います。


闘技的民主主義についてろくな知識も無いのに、思い付きだけで持ち出してしまった自らの軽率さを恥じているところですので、それについては何も言えることはありませんが、「ワクワクするようなエネルギー」という言葉などには、なるほどと頷くところ多くありました。


結局のところ、衆愚政治劇場政治ヒトラーだなんだと言ったところで、それに対置するような形で「ワクワクするようなエネルギー」をリアルに示すことができていない限り、その批判はただの愚痴以上のものとは受け取られないのでしょう。


「弱者が弱者を叩いている」などといった「非合理的」現状の分析を各所で見かけるようになり、実際そうした分析はかなりの程度当たってはいるのでしょうが、ではどう対処するべきかという肝心の問いには、誰も有力な答えを用意できていない気がします。
「合理的」態度への回帰を訴えるとか、責任と良識をひたすら啓蒙し続けるといった選択肢が問題外であることを、私は繰り返し述べているつもりですが、この類の回答は未だに人気が絶えないようです。


「ワクワクするようなエネルギー」によって突き動かされる、あるいは、そうした「エネルギー」に頼らざるを得ないような、「非合理的」な現実状況の中で、いかなる選択肢を示すことができるのか。
もちろん、私自身の回答もはっきりまとまっているわけではありませんから、あまり大きなことは言えませんけどね。まぁ、ぽつぽつと考えていけたらいいかな、とは思います。


fromageさんへのお答えとしては、かなり横道にそれましたこと、申し訳。
2005/09/22(木) 19:39:16 | URL | きはむ #- [ 編集]


横道にそれること,無理はありません。


「なぜ,小選挙区制が維持されなければならないのか」というきはむさんの問いに対する,小選挙区制は「面白いから」維持すべきだという私の立論が,実は相当的外れなものであるということは,一応,自覚しているつもりでおります。(それでも,主張の体裁はある程度構成しえたとも考えていますが...)ともあれ,そんな的外れな主張に耳を傾けていただいたことに素直に感謝しております。


さて,「なぜ,小選挙区制が維持されなければならないのか」という問いが,本当に捜し求めているであろうより高邁な答えに資するかどうかは分かりませんが,WEBで拾った興味深い論文がありましたので,ここでご紹介させていただきたいと思います。


http://appsv.main.teikyo-u.ac.jp/tosho/kokai18.pdf [PDFファイルです]


タイトルは『イギリス選挙制度改革と単記移譲式比例代表制』。帝国大学助教授・甲斐祥子氏の論文です。どんな著者なのか知りませんが,論文はそれなりにしっかりとしたものだと思います。
論文の主旨は,「小選挙区制の国」イギリスで,実は,「比例代表制導入」の動きが19世紀から脈々と存在したいた,ということを指摘し論じているものです。この「比例代表制導入」運動は,結局,今日に至るまで実現はしていないのですが,その時々の政治改革論議の過程では,導入の一歩手前まで至ったことはあったようです。
この論文の面白さの一つは,その時々の政治家(自由党グラッドストンロイド・ジョージ労働党マクドナルドなど)の選挙制度観(主に,比例制度に対する不信)が対比的に描かれていることで,それによってイギリスにおける小選挙区制度の実像を浮かび上がらせることに成功してるのではないかと私は思いました。もちろん,小選挙区制度をはじめたばかりの日本にとっても参考になり得るものだと思います。


なお,タイトルにある「単記移譲式比例代表制(本文中はSTVと略記)」とは,比例代表制の一種ではあるのですが,実際は,有権者がかなり自由に候補者を選べる特徴があり,一般に考えられている「比例制」とは全く別種のものであることに注意して読まれた方がよいかも知れません。実際に,日本の総選挙に導入されるとすると,選択肢が格段に増えるのでかなり面白そうで期待大なのですが,逆に,開票作業はかなり大変になりそうです。少なくとも,メディアの出口調査はかなり困難なはずでしょうから,テレビ各局の「選挙特番」は翌日以降にならざるを得なくなるでしょうね。


以上,ご参考まで。
2005/09/23(金) 00:55:44 | URL | fromage #WASTBg2I [ 編集]


ご紹介ありがとうございます。ざっとではありますが、読ませていただきました。


私も選択肢を増やすことは目指すべき方向だと思いますので、日本でもこうした議論が活発になることを望んでますが、制度の複雑さというのは結構大きな障害になるかもしれませんね。
政治哲学上は複雑さなんて俗っぽい考慮は価値が低いとも言えますし、現実にその制度を運用している国もあるわけですが、実際に複雑さをどこまで許容できるかはわからない。


このあたりはジレンマですかね。まぁ制度が複雑でもそのメリットをわかりやすく伝えることができれば、評価され受け入れられるのかもしれませんが。でも、それもまた複雑なものを単純化して伝えてしまうということにまつわるジレンマが…、って無限ループですね。やめときます。


まぁ、でも今の選挙制度だって、一般の人々にしてみれば十分複雑か。私も細かいところよくわからないし。
2005/09/23(金) 13:34:39 | URL | きはむ #- [ 編集]


こんにちは。
選挙制度について,また別の評論をご紹介させていただきます。


http://www.nikkei.co.jp/neteye5/shimizu2/index.html


この評論の中で,筆者は今の日本の選挙制度が「英国型」と「ドイツ型」との折衷であるとした上で,次のように書いています。


「日本が英国型の完全小選挙区制だったら、今回、自民だけで全議席の7割を超えるさらなる圧勝だった。逆に比例で議席配分を決めるドイツ型だったら、自民は第1党ながら単独過半数に届かない。公明が政権づくりのキャスチングボートを握っていた。並立制は小選挙区で自民を大勝させ、有権者に政権を選択させたうえで、比例で民主や中小政党をある程度救った。意外に巧みなバランスを取ったとも言える。 」


選挙制度のメリット/デメリットを考える上で,たいへん端的な問題提起にもなっているのではないかと思います。


ご参考まで。
2005/10/01(土) 11:40:09 | URL | fromage #WASTBg2I [ 編集]


ありがとうございます。
参考にさせていただきます。
2005/10/01(土) 20:02:42 | URL | きはむ #- [ 編集]


選挙制度に関する私の知識の殆どは
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%B8%E6%8C%99%E6%96%B9%E6%B3%95
に書いてあります(というか、私が殆ど書きました)。


しかし、選挙制度は所詮ただの演算手順であり、使用する場面とそこでの目的に触れずにメリット/デメリットを考えることは、数遊びに過ぎません。


例えば、私は実現可能な政治体制(間接民主制)を直接民主制
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B4%E6%8E%A5%E6%B0%91%E4%B8%BB%E4%B8%BB%E7%BE%A9
に近づけることが民主制の理想だと思っています。すると選挙制度を用いる場面は、議会を構成する時(間接民主制に由来)と、国家の最高意志(政府や法律の構成)を決定する時(直接民主制に由来)の二つになります。議会を構成する時に限って考えると、私の理想では、この時の選挙制度の目的は「出来るだけ小党乱立した議会を構成すること」なので、他に幾らメリットが在ろうと小党に不利な小選挙区制は不適格の烙印を受けます。


最近、固定二大政党制・単独過半数政党に疑問を抱かない方々をよく見かけますが、彼らが持つ民主制の理想はどんなものなのか、そもそも彼らの理想は民主制なのか、私には分かりません。だから、彼らの選挙制度論は単なる数遊びにしか、私には思えないのです。


上記のサイトを見る前に、あなたの民主制の理想をご確認下さい。さもなくば、これらのサイトは数遊びに過ぎなくなるでしょう。
2005/10/04(火) 13:55:22 | URL | A-11 #- [ 編集]


選挙は行政・司法と同時に論じなければならない
原則としての民主主義にも曖昧なところがあり(したがって、憲法にこうかいてある!などと論ずることに意味はない)、と制度として代議制をインプリする仕方に決め手はないとおもいます。選挙制度のみについて論じられておりますが、人々にとって重要なのはもちろん、その人々の日々の生活が恙なくおこなえること。このことに国政や国会議員がどの程度寄与しているのか?わたしは非常に限定的であると思いますし、限定的にスベキです。これは選挙制度のもんだいではなく、行政制度の問題でしょう。つまり、分権の問題(国家は必要か?国会議員は必要か?という問題)。日本でいえば県単位あるいは将来州単位で、議会と行政府が中央政府からほとんど独立しておれば(軍隊などを除き)、論じられている選挙制度は大幅に焦点が移動するはずです。
2007/07/31(火) 09:33:03 | URL | 古井戸 #Odn1FXQk [ 編集]


古井戸さん、はじめまして。


>人々にとって重要なのはもちろん、その人々の日々の生活が恙なくおこなえること。


この点、非常に共感致します。


仰るように、分権の進行によって問題の編成はある程度変化するでしょうが、選挙制度は「何を/いかに代表するのか」という問題に関わっているので、同型の問題は残り続けると思います。様々な制度を複合的に検討する必要があるというのは全く仰る通りだと思います。
2007/07/31(火) 17:08:55 | URL | きはむ #- [ 編集]

TB


代表制にまつわる若干の問題 http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20070114/p1