民主主義者の傲慢


2005/09/10(土) 14:57:44 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-134.html

投票に行かない、という人たちへ
および、その中身の「個人的選択と社会的選択
モジモジ君の日記。みたいな。


どっちにトラックバックするべきか迷う。


それにしても、まるで私に向けられているかのような内容のエントリではないか。「行動の結果を見通して自らの行為を決定すること」は民主社会においてはナンセンスという主張といい。
もちろん、以前書いたように*1、私は投票に行かないとも行くなとも言わないオールオッケーの立場であるし、全然民主主義者でもないので痛くも痒くも無いというところはあるが、そんな身も蓋も無いことばかり言っていても生産的でないので、ちょっと食いついてみる。


まず前提からして誤っている可能性。選挙に行かないという人々は、「自分たちの行動によって実際に変わるか変わらないか」という一見合理的な行動基準を採用しているという洞察がなされているが、これは必ずしも当たっていないのではないか。彼らとて「結果」とはさまざまな相互関係の中で決まってくるもので自分の決定だけで動かせるものではないということは十分承知しているだろう。その上で、「世界の変化の可能性に開いている」選択肢はあるかということを考慮した上で選挙に行かないという選択を行っている人々は、選挙に行かない人の全てではなくとも少なくはない割合を占めるであろう。つまり、彼らだって「ナンセンス」な行動基準ではなく「世界の変化の可能性に開いている」かどうかという行動基準を持っており採用している面は十分存在するのではないか、ということ。


しかし、それにもかかわらず、結果として彼らが選挙に行かないことを選択するのは、結局「世界の変化の可能性に開いている」選択肢が投票所のどこにも見当たらないからではないのか。であるならば、彼らが選挙に行かないのは、「世界の変化の可能性」をどこにも示すことができない側、選択肢を提示する側に問題があるためだと言える。誰もがターニング・ポイントを待っている限りターニング・ポイントは永久にやってこない、と言われても、現実に変化が望めないならば動く気がしないのが人間だ。したがって、努力が求められるのは、今ここがターニング・ポイントであると見せかけられるかどうかであり、それを演出する側である。今ここがターニング・ポイントであり、現実に我々には変化の可能性があるのだ、と説得的に示すことができるプレゼン能力こそが必要なのである。それなのに、なぜお前らは現実に変化が望めないと、ターニング・ポイントにならないと動かないのだ、と苛立つのはプレゼンに失敗した者の負け惜しみか単なる怠慢に過ぎない。


mojimojiさんがもしここまで読んでいらっしゃるのなら、これは的外れだと思われるかもしれない。なぜならmojimojiさんが民主社会において有意味な行動基準だとして採用を主張しているのは、「自らの行為が(実際には世界を変えないとしても)どのような方向に向かって世界の変化の可能性に開いているかという基準」である。そこにおいては変化の可能性を示す選択肢があるかどうかではなく、今ある選択肢の中で少しでもより良い変化の可能性を選び取ることが重要なのであり、自らがどのような方向の変化を望むのか示し行動することが肝要なのである、という反論がなされるかもしれない。


私も今ある選択肢の中でより良いものを選んでいこうという考え方には同意する。しかし、行動の結果を見通して自らの行為を決定することはナンセンスであり、結果ではなく変化の可能性の方向によって判断せよ、というようなことを聞かされると、それは結局民主主義者の傲慢に過ぎないなと思う。結果ではなく変化の可能性の方向によって判断することが民主社会において唯一有意味であるとか、そうすることが民主主義の成熟のためにも望ましいとか(いうことまではmojimojiさんは言っていないが)、そういった言説は結局「社会の論理」でしかない。
有権者のほとんどは、別に民主社会の為を思って投票したりしなかったりするわけではないのだ。自分達の生存や生活の為を思って行動するのであって、「個人の論理」で動くはずである。彼らが気にかけるのは民主社会の行く末ではなく、先々の結果として望んだものが得られるのか否かということだろう。


それは民主主義じゃない、なんて言われると人々はとても弱いし、だから必死になって反駁したりするが、別に民主主義にこだわる必要はないのだ。私が欲しいのは私の利益にかなって私を幸福にしてくれる思想であり、多分他の多くの人もそうだろう。その思想が民主主義と相容れないのなら、私は民主主義を捨てるだけのことだ。民主主義や民主政を疑うことなく前提とするのではなく、個人が「個人の論理」のままで幸せになることができる考え方をするべきだと、私は思う。結果を見通して行為を決定することがナンセンスだと言うなら、それがナンセンスにならないように社会のほうを変えてくれよ。私が欲しいのは結果なんだから。


照らしてほしいのは
そんな遠くばかりじゃなくて
目の前の本当の世界だけ


少年/GRAPEVINE

TB


責任論ノート―責任など引き受けなくてよい http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20070122/p1