「規約」をめぐる二元論とその相対化


2005/10/04(火) 21:26:52 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-141.html

さして主張の中身があるわけではないが、一応書いておいたほうがよいだろう。


論点がクリアになった感を持ったことは嘘ではないが、同時にこれはクリアになりすぎたというか、こうした少し単純すぎる二元論に落とし込んでしまってはいけないな、という思いも抱いた。その感覚は、私自身の今後の課題認識としてである。


何らかの正義を要求することに伴って、それに対応する何らかの責任が発生するという「規約」があり、これに乗るか乗らないかの選択の話だ、と捉えるのは解り易い。その規約に乗れば責任を果たす限りで正義の実現が期待できるし、その期待が果たされなければそこで採用されている正義-責任体系の枠内で批判可能性が保証される。逆に規約に乗らなければ、正義に伴う責任を果たす必要もないと同時に、正義を要求することもできない。実力による拒絶か服従か、の世界に放り出されることになる。まぁ、つまりはこういう二元論だ。


私はとりあえず当面のところは後者の選択、つまり規約に乗らないでもいんじゃん?的議論を展開しているし、していくし、実際応答への応答でもこの二元論に乗った形で応えた。だけれども、繰り返すように、この二元論に乗っている形では有益な議論ができるとは思えないので、今後はこの二元論を相対化していく、あるいは平面化していく形で語れるようにならなくてはいけないな、と思う。


それは要するに、実力による秩序から脱した「議論の土俵」に乗っているはずの人々が信じているもの、つまり正義や責任も結局実力によって裏付けられ支配されているではないか、というような趣旨になっていくだろうか。まだ、はっきりとはわからない。ただ、結局大した違いは無いよ、というか、神話を信じているだけじゃダメだよ、というかな。もちろん、神話性を暴くだけではダメでそれ以上のことを言わなくてはいけないことは当然だ。ともあれ、実力、つまりは「力」を考え論じることで開けてくる可能性をこそ、私は信じているわけだ。


今回は全体に何やらまとまらないままでお送りしているが、そのついでに最後にこう言っておく。きっと私達が述べたいのは、「不正だ」という言葉よりも「嫌だ」という言葉であり、きっと私達が欲しいのは、批判可能性よりも実現可能性や変更可能性である。私はそう思う。その求めに沿うことができるのは、正義からの議論よりも「力」からの議論ではないか。私はそう思う。

TB


責任論ノート―責任など引き受けなくてよい http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20070122/p1