アナーキズムと民主主義


2005/10/16(日) 16:32:22 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-149.html

アナーキズム解説書の古典、G.ウドコックの『アナキズム』を読む。まだ途中だが、とりあえずプロローグから引用しておきたい。


アナキズムを民主主義の極端な形態とみなすほど、アナキズムの概念で真実から遠いものはない。民主主義は、人民の主権を擁護する。アナキズムは、個人の主権を擁護する。これは、自動的に、アナキストたちが民主主義の形式と見解の多くを否定することを意味する。議会制度は、個人が彼の主権を代表者に手渡すことによって主権を捨てるということを意味するがゆえに、拒否される。一度個人が捨ててしまえば、多くの決定は彼の名においてなされ、もはや彼は、それについていかなる統制も持たない。だからこそアナキストたちは、象徴的にも現実的にも、投票は自由を裏切る行動であるとみなす。?普通選挙反革命である?と、プルドンは叫び、彼の後継者たちは、誰も彼に反駁しなかった。
(32〜33頁)


ウドコックはこう言うが、「当事者」の中にはこんなことを言う人もいる。


大部分のアナキストにとって、自由合意(これは「自主管理」としても知られている)に政治的に対応するものは、自由な協同組織の中で政策決定をする際に行われる直接民主主義投票である。 (中略) 集会に集まった人々は協同組織の規則を集団的に制定し、個人としてその規則に拘束される。しかし、その規則はいつでも変更したり廃止したりできる、という意味で、個人は規則よりも上位なのである。集団として、提携した「市民」は政治「権力」となる。しかし、この「権力」は、個人間の水平的関係に基づくものであり、個人とエリートの間での垂直的関係ではないため、この「権力」は非ヒエラルキーなのである (中略) だが、これまで述べてきた直接民主主義の概念は、多数決原理の概念と必ずしも結びついてはいない。特定の投票で少数派になった場合、少数派は、投票結果に拘束力があると認めることに同意するか、拒否するかの選択に直面する。少数派に判断や選択を行使する機会を与えないのは、自律性を侵害し、自由合意に基づかない義務を負わせることである。多数派の意志に強制的に従わせるのは、引責義務という理念に反し、従って、直接民主主義と自由提携の理念にも反する。 (中略) 少数派には、行動・抗議・アピールを行う権利があるのと同様、組織を脱退する権利もあるのだから、多数決が原理として強いられているわけではない。むしろ、多数決は純粋に意志決定の手段に過ぎない。少数派が自分の意志を多数派に強制しないように保証しながら、少数派が反対し意見を表明する(そして自分の意見に従って行動する)ことができるようにしているのである。つまり、多数決は少数派に対する拘束力を持っていないのである。
アナキズムFAQ A.2.11 何故、大部分のアナキストが直接民主主義を支持するのか?


いくつかのねじれがあるように思う。まずFAQにある直接民主主義を支持するという部分だけを読むと、ウドコックの理解と齟齬があるのかと考えてしまう。ウドコックは特に議会制度について述べているので、そうかウドコックがアナーキズムによって否定されているとしているのは間接民主主義だ、と思うかもしれない。その可能性は無くは無いかもしれないが、低い。なぜなら、ウドコックは個人の主権と人民の主権の対立を述べており、投票によって個人の主権が放棄されてしまうと述べているのであって、この点は直接間接に関わらず民主主義に共通である。投票は直接民主主義においても行われるのであって、その点を理解していなかったとしたらウドコックの民主主義理解は随分貧しいものだが、それは考えにくい。ねじれて見えるのは、やはりFAQのせいだろう。


民主主義の主な要素(「民主政の要件」ではない)は、端的に言って政治的平等と人民主権である。ここからウドコックのアナーキズム理解はすんなりと受け入れやすい。人民主権の意味がほぼ共有されており、すなわち民主主義の意味も明らかであるからだ。他方でとんちんかん(死語)にさえ思えるのはFAQの民主主義観である。普通に考えて、「少数派は、投票結果に拘束力があると認めることに同意するか、拒否するかの選択」ができるものではない。いや、確かに拒否もできるが、その後には強制権力が来る。それが人民主権と民主主義の意味だ。「多数派の意志に強制的に従わせるのは」、「(直接)民主主義」の精神に反する、という見解はどこから引っ張り出したのだろうか。そうした理想社会を掲げるのはいいが、そうした非人民主権的システムに誤って民主主義の名札を掛けようとするのはあまり感心しない。天下のアナーキストさんとあろう方々が、そこいらの三文文士・三流学者よろしく民主主義の看板争奪戦に与するもんじゃない。胸を張って「民主主義反対」と叫んで欲しいものだ。


まぁ、そこまで腰が据わらないからこそアナーキストだ、という言い方も可能かもしれない。そもそもウドコックの理解に返って見てみても、「アナキズムは、個人の主権を擁護する」ものかどうか、私ははなはだ疑問である。彼らが個人の何かを擁護するとしても、それは少なくとも「主権」ではないだろう。まぁあまり詳しく立ち入るつもりも余裕もないが、とりあえず私はこう思う。「アナーキズム個人主義の極端な形態とみなすほど、アナーキズムの概念で真実から遠いものはない」。


当然の帰結として私はアナーキストではない。多分シュティルナーもそうだったのではないかな、と私は思うのだが、どうだろうか。


アナキズム〈1〉思想篇

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アナキズム〈2〉運動篇

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