法外なものごとについて


文庫が出ていたので、ようやくと言うか佐藤優国家の罠』を読んだのだが、やっぱりと言うかいささか過剰なぐらい面白いな。佐藤の本は下に掲げたものぐらいしか読んでいないが、その中でも群を抜いている。

で、色々考えさせられたので…一応何か書こうと思うのだが、本の内容とはあまり関係のないことになると思う。あと、憲法を学んだことがある人には新鮮な内容はほとんど無いと思われる。何となくこれを書いておかないと思考がこの先に進まないような気がするので、書いたことのある部分が多くなるだろうけれども書くことにする。


国家の罠―外務省のラスプーチンと呼ばれて (新潮文庫)

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インテリジェンス 武器なき戦争 (幻冬舎新書)

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国家情報戦略 (講談社+α新書)

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国家と神とマルクス―「自由主義的保守主義者」かく語りき

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ええと、憲法の教科書を開くと、一応誰の本にもナシオン主権とプープル主権の違いについての説明がどこかにある。ナシオン主権=国民主権というのは、具体的な誰それと言うよりも抽象的な統一体としての「国民」なるものが主権を持っているということで、プープル主権=人民主権というのは、抽象的な観念なんかじゃなくて具体的にデモ行進したり投票したりできるような人間の集合としての「人民」が主権を持っているということだ。

ふつう私たちがイメージする「国民主権」は、私たち一人一人が主権者であると教えられて育っているので、プープル主権の方に近いと思う。だって、具体的に行動できる人々が実際に政治を変えられる主権を持っているということでなければ、抽象的に、「国民」の皆様には主権があります、なんて言われたって意味が無いことになってしまうじゃないか。

でも、ここには一つ厄介な問題があって、具体的な「人民」が主権者であります、ということにしてしまうと、具体的な政治行動をすることができない人々、つまり物理的にデモや投票が行えない人々とか、そもそも有意味な(判別可能な?)政治的意思を示す能力を備えていない人々などは、「人民」の中からこぼれ落ちてしまうことになってしまう。彼らは主権者の意思形成や主権の行使に携わる能力を欠いているからだ。つまり、プープル主権の立場を採ると、いわゆる国民としてイメージされる人々の中から一部の政治的無能力者の集合が主権者とは見做されなくなるわけ。それは事実上、政治的無能力者の利益は政治において考慮されなくともよい、ということを意味することになるので、多くの人々はここでためらうことになると思う。

他方、ナシオン主権論を採ると、特定の人々を主権者の枠外に押し出す必要は無い。そもそも抽象的な統一体としての「国民」は、必ずしも国籍保持者の集合には限定されず、場合によっては過去の世代のような超歴史的存在すら含み得るもので、その範囲自体が定まっていない。このように曖昧で、あくまで観念上の構成物でしかない「国民」が実際に主権の行使に参加することなどは不可能なので、ナシオン主権下では、「人民」による直接統治を志向するプープル主権とは異なり、統治行為を担当する独立の機関がどうしても必要になる。この機関を「国民代表」と呼ぶ。

国民代表とは、「国民」のために働く代表、という意味だ。この「ために」のところがポイントで、国民代表は統治権力を掌握するわけだから、プープル主権論的な意味での「主権」、つまり統治権とか国権の意味でこの言葉を使うのならば、当然国民代表が主権者であることになる。でも、それじゃ国民主権じゃなくなっちゃう。だから、「主権」の意味が変化しなくてはならなくなる。ナシオン主権下で主権を握るのはあくまでも「国民」である。だが、そこでの「主権」の意味は、統治行為に付与される正統性が引き出される淵源、あるいは、国家の政治の在り方を決定する際の最終的な根拠となる権威、とでも言ったような意味に転化している。したがって、国民代表が統治権力を行使するのは、あくまでも主権者たる「国民」のためである、というわけだ。

それで、ここからがナシオン主権論の問題点になってくるわけだが、それはもう言わずもがなのことで、「主権」の意味がそこまで薄められてしまうと、国民代表にフリーハンドが与えられることになるという一点に尽きる。国民代表はあくまで、「国民」のために、働けばいいわけで、ひとまず(その実際の外延も定かでないような)「国民」に対して漠然とした一般的な責任を負っているという前提が共有されてさえいれば、選挙されているかどうかとか、そんなの関係無い。国民代表の地位と選挙とが必然的な結び付きを持たない以上、独裁者だって国民代表と見做すことは完璧に可能なわけで、ナシオン主権論そのものにこうした論理的帰結を排除するような要素は何も無い。

で、日本国憲法も日本の憲法学も、基本的にはナシオン主権論を支持している。実際、制度上の観点からも、国民代表が行った特定の政治行動に対して具体的な責任を問う制度(例えば命令的委任の制度*1)が整備されているとは言えない。もちろん日本は法治国家で、民主国家で、立法・司法・行政、いずれの国民代表機関にも様々な権力制限がかけられていて全くのフリーハンドを彼らに与えているとは全然言えないんだけれど、理論的には以上長々と述べてきた通りで、しかも現実の私たちは、何だかんだ言っても統治行為は国民代表の連中が適度によきにはからってくれればよいと思っている人の方が多数派だろう(かく言う私もその一人だ)。つーか、正直な話、高度に専門化している現代の行政とか、奇妙な法技術論が発展している司法などに、私たち一般ピープルがおいそれと関われるわけないじゃないか。

そんなわけで、統治は国民代表に任される。いや、任されるべきだ。国民代表は、私たち庶民の平穏な暮らしを守るために、定められた法の範囲で、せいぜい頑張って欲しい。いや、もしかしたら、ちょっとくらい法が定めた境界を踏み越えるぐらいのことまでは許容されるべきかもしれない。だって、現実の政治や外交の中では、杓子定規には行かないこともあるだろう。あまり合法合法とやかましく言っても、かえって私たちの長期的な利益(国益?)を損なうかもしれないんだぜ。だから、まぁ、ちょっとくらいまでならいいよ、危ない橋を渡っても、それが「国民」のためなら、ね。

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プープル主権的な意味での「主権」は、元を辿れば、憲法制定権力(制憲権)のことを意味している。つまり国家の枠組みそのものを作り上げる際の原動力となる力のことで、こうした具体的な力を持てるのは具体的な主体だけである。国家の枠組みは誰かが作らなければならなかったのだから、国家には必ずこうした意味での主権者が存在することになる。

憲法制定権力は法を作り上げるものである以上、法以前のもの、法外なものであり、法によって規定されてはいない。しかし、一旦法が定立されると、憲法制定権力は「凍結」ないし「封印」されると考えられることが多い。法が出来上がった以上その役目は終わり、憲法制定権力は法の内部で制度化され、憲法改正権など、「人民」が具体的に行使し得る諸権利/権力に転化すると言うのだ。

さらに言えば、憲法改正権などある程度の権限を「人民」に留保するとしても、ナシオン主権論を採って統治行為を国民代表に事実上委任せざるを得ない以上、「主権」は自動的に統治行為の正統性淵源として再解釈されなければならなくなるだろう。こうして、国民主権には「権力性の契機」と「正統性の契機」の二つが併存していると言われることになるのである。統治行為には私たちが「人民」として実際に参加可能な局面と、「国民」として正統性の根拠として振舞うほかない局面が両方存在する以上、このように国民主権原理を解することは、ひとまず自然だろう。

すると、国民代表が「国民」のために働く範囲は、法外な意味での主権者が定めた法の範囲内ということになる。この辺りで、では「法外な意味での主権者」とは結局誰なのかについて考える必要が出て来るが、その前に、カール・シュミットの話をしておこう。シュミット的な定義によれば、主権者とは「例外状況において/関して決断を下す者」を意味する。つまり今が緊急事態であるかどうかを決めることができ、さらに緊急事態において最高度の決定権を持っている人間ということだが、この定義で行けば、日本の主権者はふつう首相だろう。これは、プープル主権的な意味で行くと、国民代表が主権者と見做されることになるのと同じ論理であり、つまりシュミット的な意味での「主権」は憲法制定権力と同じ性質のもの、要は最も強大な暴力を動員できるという相対的優位を占めている事実を内容とする概念である。

しかしながら、こういった法外な意味での主権*2が国民代表(の中でも頂点)のところに所在するのは当然のこととして、国民代表は何故その力を手に入れたのかと問う時、とりあえず日本のような法治主義の民主制国家についてだけ考えれば、それは法制度の枠組みがそうした権能の保有を許しているからに過ぎない、と言える。要するにそれはアベやフクダといった個人に属している力ではなく、首相という地位、ひいてはその地位を支えている制度体系に属している力である。なので、少々不思議なことに、法外な力によって定立された法がその内部において法外な力の基盤を形作っている、という論理的位置関係が浮き上がってくる。なんでこんなことになるのだろうか。

そういえば、私たち一般ピーポーは、私たちのシアワセのためなら、国民代表に多少の法の逸脱も止むを得ない部分があるということを何となーく認めていた(あなたも認めているよ、多分)。そうか、法が導き出すこの法外な力は、私たちのために、あるものか。

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でも、法外な力は事実上最も強大な力で、法外である以上何だってできるんだから、それが本当に私たちのために働いてくれる保証は無い。国民代表が掌握する法外な力の矛先が私たちに向けられたら、私たちにはどうしようもないんじゃないかな。うーん、ただ、権力によって用いられる暴力の矛先は人々の同意の多寡によって定まる、なんてことをハンナ・アレントが言っている。すると、例えば首相が法外な力を私たちに向けようとしても、それがあまりに無茶苦茶で実際に暴力行使そのものを担う人々の支持も離れるような行為だとすれば、その法外な力は自己崩壊するのかもしれない。まぁ、これは少し楽観的すぎる見方だとしても、自分自身で強大な力を作り出したのならともかく、法に支えられた地位によって法外な力を得た者が、自らの基盤を裏切ってその基盤に対して法外な力を振るうという事態がどの程度あり得ることなのか、疑ってみる余地はあるだろう。

その法が積極的/消極的、明示的/黙示的に人々の同意によって支えられている面は否定できないから、あまりにも無茶なことをして多数の同意を失うと法制度に基盤を持つ権力は安定を失って暴力の矛先が変わる蓋然性があるという点では、アレントの言は的を外してはいない。すると、少なくとも現代の日本のような国家を前提とする限り、シュミット的意味での主権者は誰なのかと問うた時に、必ずしも首相などと即断することもないのではないかな。「人民」の多数派が潜在的に有している事実的な力というものはそう悲観したものでもなくて、首相と多数派人民と、どちらが法外な意味での主権者なのかは一概には言えない、と、そのぐらいまでは無理な筋道ではなく結論できるのかもしれない。

ま、どうなのかな。そうであるとして、話を少し戻そう。憲法制定権力はその名前から通時的な位置づけをされて、一旦憲法が成立したら後は用済みなものとして処理されがちであるが、論理的には常に「革命」によって新たな憲法を制定することは可能なわけだから、憲法制定権力なるものは常に観念し得る。もちろん多数派「人民」は「革命」を起こさずとも憲法改正をすればよいわけだが、多数派の構成が常に一定なわけでもあるまいし、政治的現実においては常に政変は起き得るし最大の力の所在も流動し得るということを押さえる者ならば、今ある法の下でも憲法制定権力は常に伏在して蠢いていることは忘れるべきではない*3

で…、そういう憲法制定権力を多数派「人民」が握っているとした場合、法を定立するのはこれら「人民」である。国民代表はその法に従う。「国民」のために働く代表が「人民」の作った法に従う、のである。ここには何か緊張があるようだ。それじゃぁ、国民代表が時に法を超えることがあるのは、この緊張関係のせいなのかなぁ…。遵法義務と「国民」への責任とが衝突する時に、法の逸脱が起こるのかなぁ。それは何だか、全然的を外しているわけではないと思うけれども、何だかとても、美化されたものを感じる。

きっと多分、そこで「国民」概念の曖昧さが尖鋭な焦点になってくるのではないか?「国民」が人それぞれに、様々なものに解釈され直されるのかもしれない。あるいは「国民」と「国家」が等置され、すり替えられるのかもしれない。国家は法ではないからなぁ。国民が法でないように。だが、法外な権力を握った「人民」が法の力で国民代表を縛ろうとし、法学的な意味の主権概念に従って「国民」のために働く国民代表が法から逃れて法外な権力を行使しようとするというのは…、何だろうね。法と法外なものが循環していると同時に、法と法外なものが、そして法外なもの同士が対立している。あぁ、もう、全然スッキリしないなぁ。

*1:知らない人は、自分で調べてみよう。

*2:政治学的意味での主権と言い換えてもいい。

*3:憲法学が使う「凍結」とか「封印」といった言葉は、この辺りをごまかしてしまうものだ。