左翼とリベラル


赤木智弘氏の新著

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2007/10/post_c3f3.html

赤木智弘氏の新著その2〜リベサヨからソーシャルへ

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2007/10/post_2af2.html


赤木さんの本は未だ手に入れていないが、以前紹介したように、日本の左翼運動略史については『論座』2007年11月号で小熊英二が概説しているので、それを読まれるのが手っ取り早いかと。

私も、

ところで赤木さんや後藤さんの主張も、ここ10年20年だけでなくて少なくとも戦後思想に対する評価や戦後に対する歴史観などが併せて示されるようになれば、もう少し射程と尖鋭さを増して一層面白くなるんじゃないかなぁ。


などと書いたことがあるが*1、やっぱり日本の左派の特色を理解しておく必要はあるように思う。

私も左翼とリベラルを区別して考えることには大賛成なのだが、左派がリベラル化してしまったと単純には言えない気がしてて、日本の場合アジアとの絡みがあるために、ゴリゴリの左翼(例えば渡辺治)でも、自国の特定階層の利益だけに関心を持つのはどうなんだということをかなり反省して真剣に考える習慣が形成されてきた(と思う)ので、「リベサヨ」と「ソーシャル」を明確に切り分けることは実際には結構難しいんじゃなかろうか。

しかし左翼とリベラルを区別することはやっぱり重要で、リベラルはあくまで左翼が存在し得ない米国型左派でしかないのだから、根っからソーシャルな左翼とは分けるべきである。この点、私は市野川容孝のリベラリズム批判に潔さを感じて高く評価している。

市野川がなぜ危ういのかと言えば、左翼だから、根っからソーシャルだからこそ危ういのである。リベラルのように中途半端ではないからこそ、もの凄く危うい光を放っているのだ。それはまさに市野川が評価するルソーが全然リベラルでないのと同じように鋭く、危ういのである。

私は危うさを帯びない政治理論など滅べばよいと思っているので、市野川の「民主主義を超える民主主義」論に賛成はしないけれども、温かく見守らせてもらっている。赤木さんもどんどん危うい発言をして欲しいものである。


社会 (思考のフロンティア)

社会 (思考のフロンティア)