翻訳とマルクス主義的概念について


ゼミにて。翻訳についてのありがたいお話を聞く。

大要は、元々アルチュセールやプーランツァスに影響を受けたネオマルクス主義者であるスチュアート・ホールを翻訳するなら、最低限そういう構造主義マルクス主義者の翻訳苦闘の歴史を押さえておくべきであり、カルスタな人々はその辺りをスキップしてしまう点で問題あり、とのこと。

なるほど何か出来上がっていたものを後から訳知り顔で使っている人々は、それがどこから出自してきたのか忘却してしまうということか、と深々と頷きながら北田暁大『嗤う日本の「ナショナリズム」』の忘却/忘却の話が頭をよぎったりした。


カルスタな人々の間でどのくらい真剣にマルクスそのものが読まれることがあるのか知らないけれども、とかく思想系の仕事は厄介で、なまじ偉大な諸先輩方がマルクスを使いながら色んな所を「食い荒らし」てしまっているせいで、誰か一人思想家を採り上げて研究するにしても、深めていこうとするとどこかでマルクスないしマルクス主義と向き合わなければならない局面が出てくる。

マルクスそのものに内在的な関心が抱ける人なら何の問題もないのだけれど、そうでない者にとっては結構面倒である。マルクスマルクス主義者に影響を受けていたり、マルクスと同時代人だったりすると、概念一つ、訳語一つとっても、膨大な研究史・学問的文脈が背後に付いて回る。もっと言えば、遡ってヘーゲルまで勉強する必要があったりする。


まぁ思想やる気ならそれぐらい当然でしょ、と言われれば返す言葉は無いが、とりあえず愚痴ってみた。全くマルクスほど厄介な亡霊もいない。シュテイルナーはマルクス自体を相手にはしていないのでヘーゲルだけで済むのだが、日本におけるシュティルナー読みの一方の潮流が廣松渉以下なので、その点が少々面倒である。

それにしても、20数年前は学部ゼミでプーランツァスとか読んでいたと言うんだからなぁ。想像がつかない世界だ。


嗤う日本の「ナショナリズム」 (NHKブックス)

嗤う日本の「ナショナリズム」 (NHKブックス)