ポピュリズムと対抗政治


昨日の続き―と言っても、漠然とした問題関心が続いているだけだが―で、以下を再読。


鵜飼健史「ポピュリズムの両義性」『思想』第990号、2006年10月

そして、支配的な価値体系を構成していた全体性の破綻はもとより、この全体性という観念の存在そのものが疑われ始めているのである。同質性という幻想を単位とした政治が文字通り幻想としていったん了解され、それは敵対性を無限に包摂せざるをえなくなった。敵対性の増殖とともに政治的なものの領域は膨張を続け、政治は個々の敵対性に対応できずにいるのである。

(中略)

危機とは、さまざまな敵対性が増殖して既存の政治的範疇から溢れ出て、それらがポピュリズム現象へと節合される日を待っている時間なのである。[59‐60頁、強調引用者]

彼[引用者注:E.ラクロウ]によれば、ポスト冷戦の九〇年代の社会・政治闘争において、普遍主義が時代遅れの全体主義的夢想と見なされる一方で、独自の価値を提起する特殊主義(たとえば多文化主義)の台頭が顕著になった。しかし特殊主義のみでは、いかなる特殊な権利や利益も承認しなければならず、また互いの分離に潜む権力関係(たとえばアパルトヘイト)を解消することができない[引用者注:文献注省略]。そこで新しい普遍性の構築が要請されるのである。ポピュリズムにとって重要なのは、特殊性の連帯が普遍性の地位を獲得することである。[62頁]

これらを総合するならば、既存の共同性が破壊され、または崩壊の危機にあるという背景と認識こそ、ポピュリズムの原基であると言えよう。
 そのためポピュリズムの起動因は、人民の名のもとに、政治社会の全体性を回復させようとする意志にある。ポピュリズムに凝集する多様な敵対性は、このような人民の共同性によってとりこまれ、意味づけられる。

(中略)

つまり、新たな共同性はポピュリズムが描く別世界にではなく、現在進行中の人民への凝集にこそ見出されるのであるポピュリズムには、代表性の危機と言うだけではなく、「人民」による新しい代表の構築という共同的側面が機能している。[66頁、強調引用者]


少し思ったのは、私が若干の違和感を覚えている運動は、対抗的なポピュリズムの一種なのかもしれないということである。権威主義的で主流的なポピュリズムとは別に、多様な空間で表出している敵対性が何とはなしに糾合し、一時的な共同性を生み出していると見做せる事態が在るのではないか。それが「空虚なシニフィアン」の下への凝集であり、ポピュリズムと呼び得るものなのか、確かなことは言えないが、それがもたらす共同性ゆえに運動そのものがカタルシスをもたらすのだろうとは思う(カーニヴァル化)。

今や、ポピュリズムに対抗するためにはポピュリズムしか手段が存在しないのかもしれない。もちろんポピュリズムの担い手は多元的な敵対性が「節合」(元々バラバラなものが組み合わさること)されたものであるから、主流的なポピュリズムと対抗的なポピュリズムの担い手は相互に重なり合う部分が多く、状況によって流動した側に立つのみだろう。直近の政治的勢力配置をポピュリズムの一方から他方への純粋なる流動と見るのは単純化に過ぎるとのそしりを免れないかもしれないが、今後ポピュリスティックでない形で大きな政治的勢力地図の変更を為すことは果たして可能だろうか。

仮に対抗政治もまたポピュリズム的手法に拠らなければならないとすれば、具体的政策の質が犠牲とされてしまう可能性が高い。それを避けるためには、やはりポピュリズム的性格をできる限り薄める必要があるだろう。ひとまずは、多元的な敵対性、すなわち利害関心の所在が的確に把握されると同時に、それらの敵対性を担う人々が何らかの結社・集団として緩やかにでも組織される必要がある*1。そのようにして、バラバラに所在している多様な利益ないし価値を小さくとも各々まとめて公的政治過程にインプットすることが可能になれば、実質的な利害関心から超然とした空虚な「国民代表」=ポピュリストの台頭を防ぐことができるのではないか。

政治は国民全体のためにあるという建前を忘れるべきではないが、それが建前であるということも忘れるべきではない。抽象的な「国民」や「人民」などといった虚辞を弄さず、「誰が、何を」という具体的な利害関心の所在と対立を公の下に顕在化させていく必要がある。それは、しばしば目指されるような差異や対立の自己目的化では決してなく、政治を目的‐手段カテゴリに意識的に還元することへの固執なのである。

*1:労組が非正規労働者を取り込むことも、そうした実践の一種と見做せるだろう。