賢愚の問題として靖国を考える


2005/10/18(火) 20:31:55 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-150.html

靖国問題について少し書く。


まず、「内政」として首相以下の国家枢要の地位にある人間が一個の民間宗教法人に参拝に出向くという行為には、政教分離規定上の疑義がある。私はあまり厳格な政教分離には反対だが、なぜ靖国でなければならないのか、公共的利益の基準に照らして国民の大多数が納得のいく説明がなされていない以上、首相の公務としての靖国参拝に正当性は無いだろう。何故千鳥ヶ淵ではいけないのか、何故新たな国立追悼施設をつくらないのか。その説明が無い。ただし、A級戦犯分祀せよ、という主張は、国家が民間の一宗教法人に過度に介入するものであるので、私は支持しない。合祀・分祀などは靖国神社戦没者遺族間での問題であろう。


問題は私的行動としての、個人の心身の自由に基づく行動としての参拝である。私は、他人がこれを禁じ、やめさせることはできないし、するべきでもないと思う。それは確かに個人の自由だ。一応述べておくと、私は公私の分離という論理にほとんど説得性を感じないし、実際公的参拝だろうが私的参拝だろうが、「日本国内閣総理大臣を職業とする小泉純一郎」という一個人の行動とその意味は現実に変わるわけではない。ただ、近代社会においては一応建前として通用する部分もあるので、上手く使い分ければ気休めぐらいにはなる可能性はある。それがいくら私的参拝をアピールしても気休めにさえならないのは、完全に公私が分離せず、曖昧な「かなり公的っぽい私的参拝」に留まっているからだ。新たな国立追悼施設をつくって公的参拝の場とすれば、たとえ靖国にも参拝したとしても私的参拝というロジックが気休めぐらいには働く可能性が高くなる。


以上の私の主張を簡単にまとめておけば、とりあえず新しい国立追悼施設をつくって公的参拝の場としなさい、ということだ。そうしたとしても依然首相の靖国参拝の可能性は残るわけだが、確固たる公的参拝の場が別にあることで、靖国参拝の意味合いも変わってくることが期待できる。


で、ここまでが一応の議論の前提の確認であって、こんな当たり前の話は今回どうでもいい。今回考えたいのは、「心の問題」なんだから干渉するべきでない、というロジックについてである。いかにもまっとうに聞こえる。しかし、どうだろうか、現実に行われていることの意味は、そのロジックに基づいた行動が、もう一つの、あるいは他の無数の「心の問題」への「干渉」をもたらしている、ということではないか。


詳しく説明せずともわかるだろう。首相の「心の問題」に基づく行動によって、確実に傷つき悲しむ人々が存在しているということだ。最近の日本では、首相が靖国に参拝するとパブロフの犬のように激怒する人々、というような記号的イメージばかりが流通して、その度確実に傷つき悲しんでいるはずの人々の存在があまり実感を持って語られることが無いように思う。


さて、一方の「心の問題」が他方の「心の問題」への「干渉」を行っているにもかかわらず、それを知ってか知らずか、こちらの「心の問題」には干渉するなと言う。これは如何なものか。そもそも干渉とは何か。「干渉」されている側が干渉するなと言う側に対して行っていることは、あくまで「懇願」や「説得」あるいは「抗議」ではないのか。それらは広く言えば干渉に含まれるかもしれないが、何か強制力があるわけでも実際に妨害・侵害を行っているわけでもない懇願・説得・抗議が、普通それ自体として不当だと考えられることはないはずである。言論の自由表現の自由、経済活動の自由のことを考えてみても、そうだろう。直接的な侵害・妨害でない範囲の干渉は、一般に許されるのではないか。


翻って、干渉するなと言う側が行っている「干渉」についてはどうだろうか。どうも精神的苦痛を与えているように見え、あまり直接的でも広範囲でもないとしても、より侵害に近い種類の「干渉」であるように思える。そうであるならば、「心の問題」だから云々と言い得るのは、現実とは逆に、実は「干渉」されている側の人々であることになる。


ここで、こう言うこともできるかもしれない。「干渉」される側は首相の靖国参拝に「勝手に」ダメージを受けているのであって、それはその人たちの心の中に問題があるので、必ずしも他人がいちいち配慮しなくてはならない性質の問題ではない、と。この主張の意図がよくつかめない方はこちらをお読みいただきたい。「精神的苦痛の本質的自己還元」と私が名づけたこのロジックは、確かに通ることは通る。しかし、私自身が書いていたように、理論的には通っても、現実的には反発にあうだろうし、このケースでそれを用いれば、じゃあその精神的苦痛を「感じてしまう」素地を元々つくったのは誰だ、日本じゃないか、ということになるだろう(もちろん理論的には、いやさらにその素地がつくられる素地は…、と無限遡及は可能)。それは結局無益であり不毛であり、賢明でない。


そう、賢明でないのだ。結局はこの点に尽きる。現実に首相の「心の問題」ゆえの行動によって、自らの「心の問題」に「干渉」され傷つく人々が存在する。そうした人々の苦痛は所詮彼ら自身の問題に過ぎないと切り捨てることも、彼らによる首相への干渉を許さないことも、全く賢明でないのである。もちろん私は「首相への干渉」という部分では、あくまで懇願・説得・抗議の類を想定しているのであって、それ以上の侵害・妨害行為が許されると言っているのではない。繰り返すように、それは個人の自由だ。第一それは個人の自由であり異なる国家内の問題であることもあって、「首相への干渉」に懇願・説得・抗議以上のものが含まれる余地は、はじめから無いではないか。そうであるならば、「心の問題」だから干渉するべきでない、というロジックはつまり懇願・説得・抗議さえも封じ込めようとする全く不当なものに思えてくる。


自らの行為が何を意味し、何を引き起こすのかが分からない。そして自らが引き起こした結果に対処することもできない。そうだとすれば、これは結局「善悪よりも賢愚の問題であ」ることは明らかであり、「しかるべく対処が出来なければ馬鹿と思われるだけ」なのだ*1

コメント

http://www.asahi.com/politics/update/1025/006.html


神社に参拝しといて非宗教目的って何だ。


それはバカにしているということだから、靖国宮司が怒るのも無理ないかも。
2005/10/25(火) 21:17:32 | URL | きはむ #- [ 編集]

TB


責任論ノート―責任など引き受けなくてよい http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20070122/p1