「祭り」とは権力の不可視化であるか


2005/10/23(日) 22:53:02 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-154.html

araikenさんが久々に私の言説を料理して下さった。内容としては過去の議論以上のものは無いと思ったし、後半は私への批判としては全く的外れに思えたが、いい機会なので、以前なされた私との「論争」以後にaraikenさんが行っている主張をいくつかまとめて、少し検討してみたい。


素材は、今回のエントリ他、TAROの訣別操作する権力は逸脱を敵視する、の二つを参照する。


まず、全体として「操作する権力は逸脱を敵視する」ものだ、という主張については、そうだろうと思う。「操作」する為、あるいは「権力」を握る為という視点からは、一般の人々はあくまで「対象」として「手段」としてみなされる、と言うのもそうだろう。そこでは人々はそのままで「目的」としてはみなされないし、「今この瞬間に」多様性が許されることは無いだろう。


さて、araikenさんは「上ー下の権力関係」を否定して、横の関係としての「交流」を対置することで、反体制的な運動の中でも支配/服従や管理、「操作」などを回避しようと構想する。しかし、これはタテがダメだからヨコにしよう、という随分単純な考えであり、これで本当に問題無しと言えるのだろうか。こうした構図はあくまで便宜的に物事の一面を強調したに過ぎないのであって、araikenさんもその不完全性は十分承知である、という可能性は当然十分に留保した上で、テキスト上からうかがえる範囲での「権力」観を批判しよう。


第一に、権力関係が現れるのはタテに限られるものではない。ヨコの関係においても権力は無数に生じるのであって、ときに関係すらなくとも、それは現れる。「交流」の中には権力は現れないと想定するとしたら、あまりに楽観的に過ぎる。もちろん、権力が現れないのが「交流」である、という定義を成せば実在可能性を犠牲にすることでその価値を守ることは可能であるし、権力が生じる関係はヨコに見えていたとしても実はタテであっただけなのだ、と論じることも全く不可能ではないだろう(この場合、「関係なき権力」を説明不能だが)。


我々は、対等な関係においても、常に互いに何らかの権力を行使しているのであって、互いに支配したり支配されたりしている。強制が無いからといって、上下関係が無いからといって、そこに権力性が付着していないなどと考えるのは、全くもってナイーブな考えである。私達は常に権力を、暴力を行使することで生きている。その主語が国家であろうと資本であろうと「逸脱」する者であろうと多様性を追求する者であろうとaraikenさんであろうと私であろうと、全て同じ性質の権力・暴力である。善い権力/悪い権力があるわけでもない。国家が無くなったとしても、「交流」が実現しているとしても、権力・暴力がそこから消えてしまうわけではない。当然のことではあるが、このことは明確に確認しておかなければならない。


聞けば、「権力」の視点、「操作」の視点に立った者は、他人を「対象」「手段」としてしか考えない、と言う。多様な人が「今この瞬間に」多様なままで肯定されない、つまり「目的」として扱われない、と言う。これらは社会変革を夢見る者や社会を「操作」する立場にある者を念頭に置いている話だが、もう少し広く考えて日常的な人間関係なども念頭に置いておこう。他人を「手段」として扱うな、とはとても立派な主張だが、非現実的で実現不可能な、つまり過剰に倫理的な主張であることがわかる。我々は誰しも誰かを「手段」として扱わない限り、およそ生きていくことは不可能であるからだ。必ずしもそういう主張をするべきでないと言いたいわけではない。ただ、その不可能性が自己に跳ね返ってくることを自覚しない限り、あまりに愚かすぎる。すなわち、他人の「手段」化=「権力」行使、という論理を採用するのなら、他人を常にそれ自体「目的」として扱うことの不可能性は、自らがありとあらゆる場面で「権力」の視点に立ち、それを行使していることを指し示す。必然的に、あるいは少なくとも蓋然的に、我々は「権力」を呼び込むわけだ。


そんなことはわかっている、と言われるかもしれない。「権力」や「操作」が最終的には避けられないものだとしても、一旦カッコに入れるのだ、と。しかし、カッコに入れるとは何か。それこそ「今この瞬間に」存在する権力を不可視化してしまう愚を犯しているのではないか。もう「手段」にはなりたくないと言いながら、実は隣人を「手段」にしていないか。また、隣人に「手段」にされていないか。本当にそこには多様性があるのか。「権力」の暴虐にさらされる以前の、「現実的に多様性が生い茂っている土壌」なんて状態をスタート地点に想定することは妥当なのか。そんな時点が実在するのか。そうした想定に基づいて「単一の権力に統合されないかたち」の闘争を目指すと言うのならば、それは結局、自らは無権力状態に身を浸すことができるというナイーブな妄想にすがりつくことで、現状を追認しているに過ぎないのではないか。自らが「手段」化されることを嫌って「統合」を拒む人々は、「今この瞬間に」多様性を肯定されたことになっているのだろうか。私は多様性を追求しているから満足だ、という心理的合理化で解決と言えるのなら、最初から問題は存在していないはずなのだが。


これでも抑制しているつもりなのだが、少し筆が走りすぎたかもしれない。以前の議論の焼き直しになることは避けよう。以上で言いたかったことは、いついかなる時にも(すなわち「交流」に際しても)権力は存在しているのだということ、そのことに無自覚であってはならないという半ば自明の警告である。


第二に問題としたいのは、批判対象としての「権力」を一元的な存在として捉えることの限界である。敵は「単一なる価値=権力」によって貫かれている、という想定は今現在どこまで有効なのか。「監視国家」ではなく「監視社会」が問題とされる現代である。国家権力であるとか、資本であるとか、あるいは生産主義的な価値観であるとか、批判対象が何か統一的な基盤を有しているという考えに基づいた批判がどこまで通用するのか、疑問符を付けざるを得ない。いくらフレキシブルで多様な姿で現れても最終的にはどこかで通底しているのだ、単一の根源的排除があるのだ、という見方は確かに一定の説得力はある。その従来型の考えで突破可能な地平も未だ十分に残されているだろう。ただ、それが全面的に有効なわけではないという限界も認識しておいた方が賢明だろう。


しかし、この点については、私自身の考察がまだ十分でないようだ。あまり明確に「限界」を示すことができそうにない。問題の所在をほのめかす程度で断念しておく。振り返って第一点についても、「関係なき権力」の説明がなされていないなど、不十分な点が目に付く。全体として相変わらず混乱が見られるかもしれないが、araikenさんの「権力」批判の前提があまりにナイーブで無自覚なものなのではないか、という疑念をひとまずまとめて提起しておきたかった。的外れであれば笑っていただければよい。今回araikenさんが私に向けた批判(の後半)と同様、名指された相手にとっては的外れでも、一般論としてはそれなりに有用で有り得るであろうから。