自由から自己性へ


2005/10/29(土) 14:56:30 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-157.html

仕事も私生活も経済的にも愛情的にも、一般的に見てどんなに満たされているはずであっても、どこかで満たされない思いが残る、ということはとても普遍的に経験されることだと思う。そうした思いを持つかどうかは、その人の先天的な気質などから生じるものでは決してなくて、偶発の産物であるとも思う。つまり、「気づく」か「気づかない」か、もっと言えば、「それ」が「落ちてくる」か「落ちてこない」かの違いでしかない、ということだ。そして、気づいた人々のなかにも、その思いを抱いたままどうにか生きていく人と、どうしてもその思いを解消しようと考えてしまう人とがいるように思う。この辺りのイメージは、カミュの『ペスト』を読んで頂ければ共有できるだろうか。


ただ、大人であれば顕在/潜在に関わらず大体「気づく」ものであるだろうし(「気づかない」でいられる人は掛け値なしにとても幸福な人だ)、その内の大多数の人は多少なりとも満たされなさや欠落感、喪失感、不全感などを抱きながらも生き続けるものであろうし、語弊を恐れずに言えば、それが普通なのだ。また、それが成熟の意味なのかもしれない。それにもかかわらず、満たされなさを「最終解決」してしまおうとする人々は常に一定数存在しており、彼らは極端な政治的イデオロギーに行くのか極端な宗教的原理主義に行くのかあるいは自我が崩壊するのかわからないけれども、概していわゆるアブナイ方向に行く。こうした人々を何とかケアしたいと思う人もいるのだろうが、再度語弊を恐れず言うと、こうした人々の存在はある程度「仕方ない」ものであってケアの必要があるのかどうか疑問に思うし、もっと言えば私は興味が無い。したがって彼らを社会的に問題化する必要も処方箋を示す必要もほとんど感じない。


私が興味があるのは、おそらく多数派であるはずの、恒常的に満たされなさを抱きつつ日々を普通に送っている人々であり、しかし彼らについても芸術が適度にそれを示してくれ、酒その他の趣味嗜好品が適度にそれを慰めてくれれば、あまり問題は無いと思っているフシがある。つまり、以上の私の話をまとめると、「人生そんなもん」で括ることが可能な、オヤジ臭いとてもつまらない話だということになる。私はそれでいいと思う。現実はつまらないもので、つまらないままで意外と回っていけるものだ。そして日常的なつまらなさを耐えることを非日常的祭りが可能にしてくれる。逆に言えば、祭りという非日常を楽しめるのもつまらないながらも確かな日常という帰る場所があるからだ。つまらない現実を逃れて面白い虚構を求める、という行動傾向は、そのようにある意味でとても強迫的な(=自由でない)ものだ。それなしでは生きていけない、と。


私が言いたいのは、こういうことだ。人は、いつどこでもつまらない。人は、いつどこでも満たされない。人は、いつどこでも虚構を求める。人は、いつどこでも強迫的である。人は、いつどこでも自由でない。そして、人は、いつどこでもこれらを耐えている。普遍性を持ったこの事実を思うと、近代だからとか再帰的近代だからとか70年代だからとか80年代だからとか英米系だからとか独仏系だからとか右翼だからとか左翼だからとか、そうした分類・分析構図自体に疑問を持ってしまう。既にお読みになった方は察せられたことと思う。宮台真司と北田暁大の対談本『限界の思考』の話をしている。


私はこの本の中で宮台が示している自由-強迫の対立軸に興味を持った。宮台は「アイロニズム」を推奨しつつ、アイロニズムにも自由なアイロニズムと強迫的なアイロニズムがあるとして、後者を批判する。前者は「諧謔」であり自分の位置をもズラすことができるが、後者は「韜晦」であり対象の位置しかズラすことができない。よって前者は自在にコミットして自在に退却できる参入離脱自由のアイロニズムであるが、後者は「どうせオレは…」と物事を斜に見て退却へと強迫されることしかできない不自由なアイロニズムである。だから後者はダメで、没入も離脱も自在であり、不安や依存から解放されている、自由=自立の(リベラル・)アイロニズムへと向かわせるほかない、と。


確かにもっともだと思わせる、が、どうだろう。真っ先に思い浮かぶような、参入離脱自由が一般の人々に可能かという疑問は、宮台自身がエリート主義と明言しており大衆には「ベタ」に語りかけると言っているので(つまり万人にそれを求めるわけではないと言っているので)、あまり有効な批判になり得ないかもしれない。よって、ここでは「強迫から自由へ」という方針自体を問題にしてみよう。上述したように、人はいつどこでも強迫されており不自由であるものなのだ。そこにおいて自由を求めることは妥当な振舞いなのだろうか。重要なのは自由ではないのではないか。強迫から逃れることではないのではないか。強迫から逃れ得ない私達にとって重要なのは、強迫がそこにあるという事実認識自体であり、あるいはそこから強迫的であり続けるか自由を求めるかの選択可能な余地を手元に残し続けることであるのではないか。


私はあくまでも一般の人々の振舞いについて考えるので、参入離脱自由なんていう微妙なスタンスを継続的に採り続けることが難しい人々にとって、強迫的でないこと=自由であることを目指せという処方箋が有効かどうかに疑問を持つ。そもそも、多くの人々は自らの行動や立場、コミットや退却が強迫的に行われ選ばれていることに、日常的に気づいているのではないか。そして、自由であり続けることの困難に自覚的であるがゆえに、「あえて」強迫的であることを「選んでいる」のではないか。これは矛盾だが、それにもかかわらず、よりリアルに近く思える。もしそうだとすれば、「強迫から自由へ」というメッセージは、自由で居られないのがわかっているから強迫的であることに留まっているのに、強迫的で居続けることさえ許されないのか、と余計なお世話として受け取られることになるのではないか。


「強迫から自由へ」というメッセージを掲げることも、受け入れることもたやすい。だが、程度の差こそあれ、人はみな強迫的で不自由だ。宮台自身が、参入離脱自由なアイロニストも「メタな強迫」に脅かされていることを認めている。そのことを思えば、宮台のメッセージを受け入れて参入離脱自由を実践していると自認する人々が現れたときに、現実に存在する強迫=不自由に盲目となって、自分達こそは強迫から逃れている自由な存在なんだという錯誤を起こすことが危惧され、私はそちらの方が怖い。自らが強迫的に振舞っていることを自覚している人より、無自覚な人の方が怖い。強迫的なアイロニストよりも、自由で自立している(と錯誤している)アイロニストの方が怖い。したがって、私には「強迫から自由へ」というメッセージは危険なものに思われる。


むしろ必要なのは、私達はいつも強迫的だよね、という大前提を繰り返し共通認識するよう促すことではないか。強迫から自由になれる「最終解決」(ではなく実際には常にズレ続ける方法だが)があるかのような錯誤が生じることを防ぐことではないか。そして、自由であり続けることの困難を知るがゆえに強迫的であり続けることを「選ぶ」賢明な一般大衆に、変わらず強迫的であり続ける自由を認めることだ。もちろん、強迫から逃れようと試みる自由も同時に認める。「あえて」自由を求めるか、「あえて」強迫的でありつづけるかの選択は等価であり、その選択を可能にする余地を残すことこそが重要なのだ。


重要なのは自由ではない、という以上の私の主張が、シュティルナーの自由批判と自己性重視を念頭に置いていることは言うまでもない。以前にも引いたことがあるかもしれないが、少し引いておこう。

 自由と自己性との間には、何という相違があることか! 人はまさに多くのものから免れうるがしかし、すべてのものから免れるわけにはいかない。人は多くのものから自由となるとしても、すべてから自由となるわけにはいかない。人は奴隷の身でも内面的に自由でありうるという。だがそれは、あれこれのものから自由ということではあっても、すべてのものからということではない。まさに人は、奴隷としては、主人の鞭や専横な気まぐれ、等々から自由となるわけにはまいらぬのだ。「自由はただ夢の国にのみ住まう」のだ! これに反し、自己性は、これは私の全存在、全実在であり、それは私自身であるのだ。私は、私が免れてあるところのものから自由であるが、私の力のうちにあり私が力を及ぼしうるところのものの所有人であるのだ。私が自らを所有することをわきまえ、私を他者に投げあたえぬかぎりは、私はいついかなる状況のもとでも、私に固有なるもの[mein Eigen]であるのだ。


『唯一者とその所有』 下巻 10頁 傍点等省略)


私には、以前保留にさせて頂いた問題があるのだが*1、その問題も結局、自由=自立=主体性と自己性の差異を認識することで理解・回答可能なのではないかと思う。「私ではないもの」をこそ志向してしまうというのは、強迫的である。それは逃れられないことであるし、忌むべきことでも憂うべきことでもない。やはり主体性も自己同一性も重要ではないのだ。シュティルナーもそう言う(「移ろいゆく自我」)。重要なのは、そこに強迫があるのだという認識、これであったのだ。要は、酒に飲まれてもいいが、飲まれていることをちゃんとわかっていたい、ということだ。藤井まことも自らの強迫を利用して成長しようと図っていたのだった。自己性とは、強迫へも自由へも行ける可能性の余地である。「強迫から自由へ」ではなく、「自由から自己性へ」。私はこの方向で考えていきたい。


ペスト (新潮文庫)

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限界の思考 空虚な時代を生き抜くための社会学

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唯一者とその所有 上

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唯一者とその所有 (下) (古典文庫 (21))

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