責任って何かね


2005/11/05(土) 16:26:50 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-153.html

森 あるメディアのシンポジウムで、僕が話をしたあとの質疑応答のとき、NHKのプロデューサーが発言しました。「メディアの責任について、森さんはどう思うか」と。
 このとき彼が言及した責任とは、先ほどのメッキの例のように、抗議がきたときの対応です。ならば僕は、「基本的には責任は取れないと思ったほうがいい」と答えました。少しだけ場はざわつきましたけれど。
 そもそもメディアは、事が起きたときに、「誰が責任を取るんだ」式の対応では追いつかないほどのポテンシャルがあるんです。大量破壊兵器みたいなものです。それだけの影響力があり、場合によってはテロに匹敵するほど危険なジャンルなんです。まずはその意識を持ったほうがいい。「ニューズウィーク」で「コーランをトイレに流した」との数行の記事が載っただけで、アフガンやイラクで暴動が起き、何人もの人が死にました。担当記者が辞めたとしても、それで責任を取りきれるはずがない。
 だからまず、その覚悟をすべきなんです。コーランの記事は、本当かもしれないと僕は思っています。ならばそれを知った以上、メディアは書くべきです。その結果、人が死ぬ。そんな仕事をやっているとの覚悟をすべきなんです。
 もちろんその覚悟をまずはしたうえで、個々の抗議に対応して、場合によってははねつけるか、あるいは訂正するか、発表しないことも含めて、それは個々の判断です。抗議の一つひとつに向き合っていたら、メディアは機能できなくなる。
 でも同時に、抗議の一つひとつを聞き、悩み、対応をしなくてはならない。
 矛盾です。でもそういう仕事なんです。常に心の中では、抗議があることを意識していないといけない。しかし、長くその位置にいればいるほど、意識は麻痺して、その特権というものの上に胡坐をかいてしまう。


『ご臨終メディア』 森達也・森巣博 (集英社新書 2005年) 215〜216頁


私は基本的に、責任なんて知るか、という立場を採っている。今回責任について改めて書くにあたって、参考になるだろうと思って上の引用をさせてもらった。だからといって森達也が私と同じ立場を採るとは思わない。したがって、これは牽強付会な引用だと思って頂いて結構だし、以下の文章についての「責任」はすべて私にある。


森は、メディアは基本的に責任を取れないものだと言う。その論旨を穏当に言い直せば、メディアの影響力の強さがあまりにも大きいために、一般的な方法で責任負担が可能な範囲をはるかに超えている、ということだろう。それゆえメディア人は常に矛盾、葛藤、うしろめたさを抱えていて欲しい、という森の意見に私は激しく頷く者であるし、その警句に傾聴するべきなのはメディア人に限らないとも思う。それが解れば十分という気もしないではないが、今回はもう少し原理的に遡って思考してみよう。では、その「責任を取る」ということはどういうことなのか、そしてそこで言う「責任」とは何か。


伝聞なので正確さは保証しないが、H.L.A.ハート(主著:『法の概念』)は責任概念を4つに分類したそうだ。曰く、負担責任、役割責任、責任能力、因果的責任。しかし、この中で中核的なのは負担責任であり、他の3つも負担責任へとほぼ還元できると考えられるので、ここでは負担責任を「責任」の意味と考えよう。負担責任とは、望ましくない事態において不利益を負担する責任、という意味である。しかし、これでは定義にはなっていない。ここで「負担する責任」と言うのはつまり、「負担する義務」ということであろう。義務とはつまり、その義務の内容を要求する側に、要求する根拠(=権利)があるということである。義務を要求する根拠が法的なものか道徳的なものかによって、義務は、すなわち責任は、法的責任と道徳的責任に分けられる。法的責任はまた民事と刑事に分けられるが、細かいので立ち入らない。そして責任が要請する負担は、すなわち「責任の取り方」は、法的責任においては主に賠償、道徳的責任においては主に非難・叱責を受けること等、である。


法的責任は法や裁判が確定するものであるから、より分かり易い。損害を与えた相手に賠償を行ったり、刑罰に服したりすれば、責任を果たしたことになる。分かり易い分だけ、責任としては本質的でないとも言えるかもしれない。一般論として責任の所在や内容について論じるのであれば、問題となるのは道徳的責任の方であろう。一応「非難・叱責を受けること等」とした、その負担責任の内容も、極めて不明瞭である。


道徳に基づいて相手の責任を問う、という行為、道徳的権利を掲げて相手に義務遂行を求める、という行為は、そもそも不安定性を免れない。J.ベンサムのように、法の裏付けを得ない道徳的権利などは認めない立場からすれば、道徳的責任なども認められないだろう。道徳には、法と違って、確かな強制力も(明示的基準としての)客観性も無い。道徳にあるのは、社会的評価などに関わるようなより緩やかな抑止力と間主観性だけである。もちろん、法的強制力より不安定であるとはいえ、道徳を支えるそうした社会的な力も一般的にはとても強大なものである。したがって、自分の責任を問う力が社会的に優勢であれば、責任を認めて謝罪なり謹慎なりすることが賢明なのである。あるいは、道徳的責任が何らかの能動的行為を要請していると思われる場合も同様である。それをしなければ非難や叱責に遭うであろう場合には、それを行うことが賢明なのである。ここには社会的権力が働いていると言える。


道徳的責任が社会的権力の産物だということは、どういうことか。何らかの責任の存在を認めさせたければ、論理なり感情なり実体的な権力なり何らかの力の裏付けが必要だということである。それは逆に言えば、力の裏付け無しにアプリオリに認められる道徳的責任なるものは存在し得ない、ということも示している。例えば、他人の死への無関心を責めたいのであれば、それが問責されるべきであることだと納得させなければならない。ある道徳に基づく責任を問うには、その道徳を相手と共有しなければならない。その意味で道徳は「規約」と言い得る。しかし、相手を問責する方法は、実はこれだけではない。「規約」は力によって支えられている。問責したい相手がこちらの主張する道徳を共有することを拒んだとしても、帰属する社会共同体の成員の大多数が同じ道徳を共有してくれさえすれば、相手を実効的に問責することは十分可能である。彼がこの道徳を拒むということ自体が彼の社会的評価を下げ、彼の不利に働くのであるから、彼がそのコストに耐え得る資源を有する者でない限り、彼はこの道徳を一応認めて責任を引き受けた方が賢明となる。


倫理も道徳も力によって支えられており、それ自体も力である。ゆえに有力な倫理や道徳に従うことが賢明なのである。有力な道徳が要請する責任を引き受けることが賢明なのである。そこから「責任を取る」ことの意味も見えてくる。それは賢明な処置であり、儀式であり処世術なのである。賠償を行ったり刑罰に服したりすることで責任を取ったとする法的責任の方が、より儀式的性格が見えやすいが、基本的には道徳的責任も同質である。自らの責任を認め、その意思を謝罪や何らかの行動(謹慎、給与返還、散髪等)によって示す。その意思表示によって責任が消化され一応の完結が図られるのであり、それが無ければ批判や非難は止まず、それらの声は正当なものとみなされる。逆に一応の完結を見たはずのところに変わらず批判や非難が寄せられるならば、それらは不当なものとみなされる。儀式を軽んじてはならないのである。


ここで再び森の発言に立ち返ってみるに、責任が取れない、というのはどういう事態だろうか。その場合には、取られるべき責任の規模が、儀式によって消化可能な責任のキャパシティを超えてしまっているのだ。この際には、一通りの謝罪や賠償等では社会(世間?)が収まらない為に、儀式後の批判や非難も不当とはみなされない。むしろ儀式の不十分さを告発する正当な声となる。この時、儀式の失敗が明らかになる。森がメディアについて言っているのは、メディアはその影響力の強大さゆえに、儀式が失敗する蓋然性を非常に多く含んでいる、ということだろう。私には、儀式の失敗について考えることは、儀式によって隠されていた現実を明らかにすることに役立つように思える。


何かあれば責任を取らなければならないものである、という強迫意識は誰にでも植え付けられている。責任とは取るべきもの果たすべきものである、と。そして、そこで想定されている「責任を取る」行為とは、儀式である。しかし、これはあくまで儀式であり、これによって責任を取ったことにしましょう、という取り決めである。そこでは中身は取り残されたまま、形式が合意される。賠償はあくまで賠償であって、過去のそのままの原状を実際に回復するものではない。過去に戻ることもできず、行為/不行為とその結果は常に断絶してしまっている。そこでは「責任(の中身)を取る」ことはできず、儀式(=「責任(の形式)を取る」こと)を行うことで、現在から未来への関係再構築を図る。メディアに限ることはなく、責任とは初めから取れるものではなかったのである。あるいは、そこに何らかの中身を期待するのであれば、それはもはや責任とは異なる何かである、ということになるのかもしれない。


そう考えてくれば、自分が轢き殺した被害者の遺族から「許し」の手紙を受け取ってもなお、毎月遺族に送金し続ける男(「償い」さだまさし)の姿とは、まさしく責任(=形式)に安住せず償い(=中身)を模索し続ける人間の姿だったのかもしれない。


そろそろ結論をまとめよう。責任とは義務であった。道徳的責任とは道徳的義務であった。道徳とは社会的な力によって支えられている。ゆえに責任もまた社会的な力によって支えられており、「規約」の体を取りつつ、それを受け入れない者にも適用される。道徳や責任は力の産物であるという意味で私はそれらを認めない。しかし、認めない私にも道徳や責任はどこまでもまとわりつくものであり、それから逃れることはできない。それは、道徳や責任に正当性を認めるわけではないが、賢明な処世術としてそれらに従う(従わせられる)ことも日常的にあるだろう、ということである。負け惜しみに聞こえるだろうし、実際負け惜しみだ。エゴイズムとは力の論理であるから、力なきものは負けるほかないのである。無邪気に「権利」を主張・要求するアナーキズムリバタリアニズムとは異なる。


さて、同時にまた、責任とは儀式であり形式的な取り決め以上の何物でもないということも明らかになった。もちろん儀式もそれなりに有用ではあろうが、形式以上の何かを求める人々は、責任を語る/問う/取るだけで足れりとしている場合ではないだろう。責任の中身を埋めようとすることは、(「償い」の彼と同様に)限りなく不可能に近い試みであるが、その試み自体に意義があるであろうことは私も認める。そして同時に、「責任を取る」ことの儀式性をしっかりと認識しそれを指示し続けることにもまた、「その先」に必要な何かを探る上で大きな意義があることであろうと、私は思う。


TB


責任論ノート―責任など引き受けなくてよい http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20070122/p1