民主主義とは何か・補遺


2007/07/24(火) 18:16:13 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-354.html

民主主義とは何か」には*1、喜ばしいことに若干の反応を頂いた。それらを眺めつつ、民主主義を多数決と必然的な結び付きを持つものと見做す立場は現在の日本では比較的受け入れられ易いのかもしれないと思う一方、当然ながらそれに反対する立場も根強いようだと凡庸な感想を抱いていた。と同時に、多少の違和感も覚えずにはいられなかった。それゆえ若干の補足をしておこう。


まず誤解をして欲しくないのは、私の定義では民主主義は割合一直線に多数決と結び付くことになるが、決して直接に結び付くわけではないということである。つまり民主主義は必然的に多数決と結び付くが、民主主義=多数決ではない。「自己決定権を当該政治的共同体内部でできるだけ多く実現されるべきもの」と考える価値理念としての民主主義は、投票以前に議論を尽くすことや、多数派が少数派の意見に十分耳を傾けることを排除しないし、そうした手段によって実現される自己決定権が一層多く在り得るのであれば、そのプロセスを要請する。


政治主体が有する選好に変容可能性を見出すか否かは政治理論における一つの論争点であるが、少なくとも民主主義理念は選好の変容可能性を排除しない。十分な討論の結果として各主体の選好に変化が生じ、何らかの合意が得られるのであれば、それを歓迎しない理由は無い。ただし、そのように議論を尽くした上でなお合意が得られない場合に、最終的手段として対等なメンバー間における多数決によって決定を下すことを、(自己決定権を実現不可能な少数者を含む)当該政治的共同体における全成員に対して正当化可能であるという信念が、価値理念としての民主主義の中核なのである


それゆえ、議論を尽くすかどうか、多数決をどの段階で実施するかは、事の本質ではない。ある価値理念にとって本質的なのは、それが必然的に否定するものと正当化するものが何であるのか、という一点である。民主主義は政治的不平等、すなわち政治過程における自己決定権の実現可能性の不平等を否定し、人民主権、すなわち当該政治的共同体における統一的な意思であるとして擬制された多数者の意思に単一・至高の政治的決定権を担わせることを正当化する。ここに民主主義と多数決原理との必然的な結び付きを見ないのは、単なる欺瞞である。


私自身、選好の変容可能性を重視しており、政治的決定に先立っては議論を十分に尽くすべきであると考えている。しかし、そのように規範的に考えることと、自然的/社会的現実を把握すべく思考を紡ぐことは厳密に区別されるべきである。自らの規範的立場に従い、議論の共通前提の構築に資さないような形で、「民主主義とは本来こうした姿であるべきだ」という旨の主張を述べることは、実践上は何ら否定されるべき行為ではないとしても、学問的議論の文脈においては生産的な行為ではなく、控えられるべきである。


さて、民主主義に関する私の定義は、筋道だった議論を行うためにはこのように考えた方が良いのではないか、という一つの提案であるために、それに対して「民主主義とはそうしたものであるべきではない」といった形の(純粋に)規範的な批判を浴びせるのは実は失当であって、有効な批判たり得るためには「民主主義をそのように定義するべきではない。なぜならそうした定義では〜といった現実を説明できないからである」といった形式を採る必要があるのだが、まぁそれはよい。以下、私のような民主主義観に批判的であるvox_populiさんの記事に対する若干のコメントを付して締める。


私のエントリへの直接の言及を含まない過去記事である上に「書きかけ」であるようなのでコメントするか迷ったが、読後に過去の自分を省みて少々思うところがあったので、幾らか述べさせてもらう。全般について言えば、ルソーを中心とする政治思想史とデモクラシー理論史、それから憲法学における主権論の文脈を踏まえることをお勧めする。そうすると、ご自身の立場を展開するにあたって、もう少し様々な方面に向かって視界が開けてくるのではないかと思う。


個別には色々ある。まず、民主主義は平等観念を内包するという主張は誤りではないが、ふつうその平等は政治的平等に限られるのであって、その点を区別せずに平等一般の実現という理念を民主主義に背負わせるところには論理の飛躍が見られる。経済的・社会的平等の実現を掲げる社会的デモクラシーなどの考え方にしても、ひとまずこの区別あってのことである。それから、主権者国民が横方向に行使する暴力、ないしは国家という社会的実在が有する存在感に対する感覚が少々鈍く感じられる点。あとは、民主主義は自らの擬制的性格を覆い隠すことによって機能するという洞察は割合鋭いと思うのだけれど、それは実際もの凄く恐ろしいことでも有り得るのではないのか、という有り得べき疑問についての配慮が見受けられない点など。


ただ、最も気にかかったのは主権概念の扱い。従来の主権論の伝統を無視した上で、主権を各人の自己決定権に還元し、人間=主権者であると見做すべきだという立場が一つ有り得るとしても、私はその立場に何らの意義も見出せない。その立場によれば、国家の対外的な独立を体現する意味での主権の観念や、一定領域内における統一的な統治権としての主権の観念は、どのように説明されるのか。憲法学では、主権概念について統治の正統性の源泉や現実の憲法制定権力など複数の解釈があるが、基本的な共通前提として主権は単一・一体であり、決して分有されない。それは、主権が諸個人・諸団体を含む多様な単位・領域にわたって統一的な統治権力を保有・行使するという近代国家の在り様に深く関わっているからであり、故無きことではない。


そもそも主権概念を人権概念と同一水準で理解するのであれば、君主主権や国民主権といった概念は最初から不必要になる。その場合、国民ないし人民が国家の主権を奪取してきたという近代政治史の歴史的文脈とダイナミズムは忘れ去られてしまいそうだが、それで良いのだろうか。規範的主張を為す際にも、自らがそのような主張を述べることが可能な環境はどのように形成されてきて、どのように維持されているのかという点についての認識を欠くべきではないだろう。


思うに、従来の学問的文脈を一応踏まえておくべきであると言われるのは、従来の考え方が内容的に正しいはずであるからではなく、当該テーマについて従来そのように考えられてきたのは何故であるのかという歴史的背景と奥行きを視野に入れておいた方がよいからである。そういった作業をくぐり抜けてみると、視界が開けて、自分が立っている位置もよく解るようになる。従来の考え方と自分の考え方を比較し、距離を測る過程で、自分の立場が当該テーマについての系譜のどこかに位置付けられてくる。それは自分の主張を単なる呟きとか床屋政談レベルで終わらせずに、何らかの形で社会的に有意味な表現にするために凄く重要なことなんだな(と私が思う)。

TB


民主主義について――或る批判についての感想 http://d.hatena.ne.jp/vox_populi/20060103/p1


民主主義とは何か http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20070829/p1