言説を紡ぐ/に対する態度


2007/07/30(月) 18:13:07 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-355.html

別件でisedの議論を再読していたら、以前ソースを示さずに言及したことがある箇所を見つけたので、以下に引いておく。いつか消えるかもしれないし、過去に私が書いた幾つかのエントリにおける問題意識の大きな部分を形成した議論であるので、省略せずに載せる。


高木浩光(以下、高木):
 そこでちょっと話をずらしたいと思いますけどね。さきほど鈴木さんのご講演を伺っていて、ネット上の集合行動的現象について視点が欠けていたと思ったのは、「専門家からの話や指摘がどう波及していくのか」という観点なんです。それはどういうことか。結局人々は自分の知識のなかでものを考えているわけで、分野によると思いますけれども、知っている人と知らない人という差が明らかにあるはずです。そして、知らないがゆえに違う考え方をしてしまうということがある。まさに、セキュリティを専門とする関係でプライバシーについて言いたいことがいっぱいある私としては、いまそのような状況の真っ只中にいるので、こうした問題を強く感じるんです。


 たとえば、自分が経験して思うのは、結局誰にでもわかる話しか2ちゃんねるでは盛り上がらないんですよ。本当にちょっとでも難しいと、もう全然盛り上がらない。3秒で答えられないとダメだ、という話*1がありますけれども、そういう状況です。そうしたなか、blogがようやく流行ってきた中に、「やっぱり2ちゃんねるでは無理だ」という思いを溜めてきた人々が、たとえば、著作権に関する色々な活動が――著作権審議会にパブリックコメントを出そうというような運動*2ですね――出てきているという経緯があるのではないか。


鈴木謙介(以下、鈴木謙):
 ドイツの社会学ウルリッヒ・ベックが「サブ政治」という概念*3を出しています。これは専門家と市民とのいままでの民主的プロセスにはなかった共振的議論形態というものが描かれているんですが、そういった「サブ政治」が2ちゃんねるではうまく軌道に乗らなかったのが、blogでは可能になってきているということですね。たしかに著作権の問題についても、おっしゃられたようにパブコメ提出運動とか、あるいはCCCD反対運動というものはたしかにある。


 しかし実際、そのような運動のなかで動員される、つまりパブリックコメントを出そうとかイベントに行こうという人々の内実もやはり、「3秒ルール」ではないか、と自分は疑念的ですが、思うんです。たとえば、とあるCCCD反対イベントに行った時も、主催者に向かって参加者のひとりが「闘いはこれからですから!」と高らかに叫んでいて、自分などは「いや著作権の話はそういう話じゃないだろう……」などと冷静に思うんですが、ここでの図式はやはりある種の単純化された善悪図式のようなものになってしまっている。すなわち「著作権の保護を強める悪い奴がいて、そこから自由を守るために俺たちは闘うんだといった「3秒ルール」的な図式に落とし込まれているわけですね。


 そこでは、著作権の理念は何なのかとか、どういう水準での政策議論にすればいいのかとか、あるいは、著作権の問題ではなくて著作隣接権の問題じゃないか、といったような具体的な水準にまで遡ったような話が出てきようがないという気がするんですよ。2ちゃんねるからblogへという流れのなかでサブ政治が可能になってきたように見えるといえど、単に外見が真面目になった、ということなんじゃないかともいえると思うんです。


東:
 白田さんが提出された疑問に差し戻すと、なぜさきほどまで2ちゃんねるの話が続いていたかというと、それは決して脇道の余談というわけではなくて、やはりここには本質的な問題があったからだと思うんですね。いま僕たちが話していたのは、2ちゃんねるに特殊な問題というより、ポストモダン社会におけるポピュリズムの問題についてだと思うんです。


 鈴木さんがおっしゃったように、ウルリッヒ・ベックが言う「サブ政治」や「サブ公共性」がインターネット上に多数出現することは可能であるし、まさに実際高木さんがやられているように、専門家がblogを書いて良識ある市民たちがそこに結集していく……という動きはいま実現している。


 しかしここに重要な区別をつける必要があります。それはあくまで「啓蒙」の段階での話であって、「運動」の段階になった瞬間に、全然違うロジックでいかざるをえない。運動の段階になると、それこそ、ローレンス・レッシグの著作が『CODE』から『コモンズ』、そして『Free Culture』へどんどん議論がわかりやすくなっていく*4のが示しているように(笑)、もう「3秒ルール」の世界にならざるをえない。つまり、大衆動員を目的とすると、さきほどまで話題になっていたような、2ちゃんねる的でネタ的なコミュニケーションに突然直面せざるをえなくなる。そういう逆説というかジレンマがあると思うんですね。創発的な情報発信とサイバーカスケードはここでも表裏一体なわけです。


 たとえば、高木さんのはてなダイアリー(id:HiromitsuTakagi)*5はたいへん啓蒙的で役立つので、僕もしょっちゅう読ませていただいているんですが、それを運動化しようと思えば、肝心のその議論が役立たなくなるところまで話を圧縮せざるをえないという問題があると思うんです。


高木:
 そこでですね、さきほど鈴木さんが提出された3つの立場を整理した図式がありましたが、私の立場は実は「保守主義」なのかな、と思うんです。結局、ある程度の世論を味方につけて、そこそこまでもっていったところで、役所の人の理解を得てですね、そこからルールをつくっていくという発想にとらわれているのかもしれないな、と思いますし、ただそれが現状では効率がよいかな、と思っています。むしろここで一歩間違って、住基ネット騒動の時のように、「何かよくわからないけれども番号がつく。気持ち悪い」という反対運動になってしまった時点で、良識ある人たちはそっぽを向いてしまったと思うんですね。そういう風になってしまってはいけないとは常々思うのですが、今後似たような問題を、どういう風にやっていったらいいのか、本当に難しいな、と思っているところですね。


北田暁大(以下、北田):
 それはつまり運動化せずに啓蒙を続けられるかどうか、ということですよね?


東:
 そういう立場もありますね。それは、運動をやめてしまおうということですか?


北田:
 運動をやめざるをえない臨界点もある、というニュアンスです。たとえば「ゲーム脳の恐怖」(森昭雄 著、生活人新書、2002年)と呼ばれる新書がありましたが、その内容が持つトンデモ科学性を暴くムーブメントというのが、ゲームを支持する世代を中心にネットで起こりましたよね。精神分析医の斎藤環氏による脳科学的にきっちり批判した文章*6というのがネット上にあって、これに皆でリンクを張ることで、検索エンジンの検索結果で当の本の紹介ページよりも上位に来るようにしようという運動*7で、みんな盛り上がって参加していました。しかし、たぶんあそこに参加した人の99%は、批判の内実をわかっていないと思うんですよ、それはつまり非常に専門的なことなので、相当に勉強した人じゃないとわからない。もちろん僕だってわかりません。だけれども、とにかく善悪図式だけが存在し、わかりやすいキャラクターがいて、敵もはっきりしている。こうして運動だけが自律化していくということは、逆に、内容が専門的になればなるほどにありうることだと思うんです。


鈴木謙:
 いま、先端的な科学であるとか、それこそ辻さんがご専門にされている統計技術であるといったものが、まさにそういうものとして使われているのではないか。さきほどの報告で倫理という話をしたひとつのきっかけが、今年の佐世保の事件のあと、「子どもがキレるのが危ない」ということで、新生児から5歳ぐらいまでの子どもの脳を全部スキャンして、キレる子どもの脳の特徴を見ようというプロジェクトを文部科学省が進めているんですね*8。そして僕は共同通信の記事でも痛烈に批判記事を書いたんですが、つまり、我々の社会は「科学的」な根拠にもとづいて主張を突きつけられた時に、いったいその技術と科学にもとづいて何をしているのか、すぐに忘れてしまう傾向にあるのではないかということなんですよ。


 たとえば、ちょっと普通に考えてみてほしいんですよ。脳の傾向を調べる云々ではなくて、毎年毎年新生児の脳をスキャンしているという光景をお前らはどう思うんだ、ということを誰も考えない。こういうことが起こってしまう。そうした時に、技術といったものを技術的に脱臼するという方向はありえます。しかしたとえば、バリー・グラスナーという社会学者がそうであるように――彼は『ボウリング・フォー・コロンバイン 』の元ネタになった本である『アメリカは恐怖に踊る』*9(松本薫 訳、草思社、2004年)の著者ですけれども――統計に対して逆統計を投げて、それが正しいか正しくないかという水準よりも、より「説得的」であれば多少メッセージなどが歪んでいてもいい、といった「科学をめぐる情報戦」になってしまうんですね。そして、そうした情報戦に勝った方が、結局銃規制で勝つんじゃないの、みたいな話になってしまう。たしかに運動であるのならば、別に科学の内容自体ではなくて、わかりやすさとか、伝わりやすさとか、面白さといったような「3秒ルール」でいいのでは、ということになってしまう。しかしそれも何か違うのではないか。


北田:
 そこでぜひ、『反社会学講座』(パオロ・マッツァリーノ 著、イースト・プレス、2004年)帯の執筆者の辻さんにお話をしていただきたいんですね*10。というのもあの本がうけている理由も、いまおっしゃったことと無関係ではないと思うんですよ。啓蒙的でいい本だとは思うんですが、「科学をめぐる情報戦」に巻き込まれている感じもしなくはない。


辻大介
 まさに『反社会学講座』の一般読者層での受容のされ方というのが、「これまでマスコミが流してきた統計の使い方はやっぱり嘘っぱちだったんだ、ヤッター!」で終わりなんですよね。そこから先の議論、では少年犯罪が減ってないとすれば本当にこれは安心していいのか、どういう風に考えていけばいいのか、という議論がまったくそこから出てきていないんです。そういう点でたしかに北田さんもおっしゃったように、専門知を持ったオーソリティーというのが運動の「旗印」にだけ使われて、旗を振っている人自身は旗の中身がわかっているのか、ただ旗を振っているだけ、という形の危険性が十分にあるんじゃないかと思うんですね。つまり、オーソリティーが「啓蒙」の旗を掲げることが、逆に「啓蒙」に結びついていかずに、「権威」のみが取り出され、内実がブラックボックスのまま不問に付された錦の御旗化してしまう。


(『ised@glocom:情報社会の倫理と設計についての学際的研究』議事録‐倫理研第1回(2004年10月30日):共同討議第2部(1)「啓蒙から運動にこぼれるとき――サブ政治とポピュリズム」より。なお、注を省略した。)


以上の議論は、以下のエントリを書く際、私の念頭に置かれていたものだったと思う。


正しさは社会を良くするか
無様なのはアンタだ
「ニセモノ」ラベリングの意義と限界
「俗流若者論」批判は切れすぎる刀か


別に改めて誰かを批判したりしたいわけではない。必ずしもひと括りにできると思っているわけでもない。ただ私の問題意識は奈辺にあったのかということについて改めて明らかにしておくことが、多少のフォローとして役立つかもしれないと思ったに過ぎない。楽しそうに踊ってしまっているのは誰かということを追及することよりも、そのような事態に陥らないためにはどうしたらいいのかということについて考える方が重要である。同時に、自分自身がそういった振舞いを演じていないかと反省してみることも必要である。


あくまで推測だが、仲正昌樹『デリダの遺言』(双風舎、2006年)を肯定的に読んだ人々の中でも、仲正の「生き生き」批判を自分にも当てはまり得る問題として真剣に受け止めた人は意外と少ないのかもしれない。たとえ無意識にでも、宗教やマルクス主義、左翼・右翼などを、自分とは無関係な・自分は陥りようがないものとして、格好のスケープゴートにしてしまっていはいないか。思考の型や過程が問題であるはずのところで、内容の「真偽」のレベルに問題がすり替えられ、安易な批判や切り捨てが行われるとすれば忍びない。


私の問題意識は結局そのようなところにあった。こうして振り返ってみれば、上に引いた議論と仲正の議論に乗っかっていただけのことで、その問題提起に独自性はほとんど無かったと言える。ただ、これらの議論を知っていても同じ罠に陥ることはあるから、何度注意を喚起してもよいことだったろう。あと、「トンデモ」批判などをネタに「生き生き」とした議論が繰り広げられているのを眺める都度、「何でそんなに楽しそうなのかな」と思ってしまい、いまひとつついて行けないという個人的事情が関わっているかもしれない(僻み?)。


最近何となく考えさせられたのだが、自己を批判的に捉えるということはそんなに難しいことなのだろうか。学問にせよ、批評にせよ、ジャーナリズムにせよ、それが前提としているところの批判的に捉え・考えるという態度は、当然常に自分自身にも向けられるはずのものなのだが、そのことを常に気にかけている人は案外少ないのかもしれない。まぁ実際、他人から批判・指摘を受ける度に「そうだったろうか、私は間違っていたのかなぁ…」といちいち振り返って考えてみるのは結構疲れるからなぁ。自分の議論によっぽど自信が有れば、そんなことをしなくてもいいのかもしれないが、そんなに自信が余っているなら分けて欲しいものだ。


デリダの遺言―「生き生き」とした思想を語る死者へ

デリダの遺言―「生き生き」とした思想を語る死者へ

コメント

えっ
 はじめまして、よくのぞいていますがちょっとびっくりしたので書き込みを。


>仲正昌樹デリダの遺言』(双風舎、2006年
 私はこの本の否定肯定の前の最大の評価ポイントは仲正さんが余りに「生き生き」と書いていることだと思っていました。そのような前提は既にある程度共有されているというのは私の脳内にしかなかったようですね。ちょっと自信がなくなりますね…。
2007/07/31(火) 15:07:37 | URL | N・B #AtY2tiKE [ 編集]


はじめまして。確かに仲正の書き振り自体が「生き生き」しているという見方はできると思います。ただ、そのことをどう捉えたらいいのか、私自身あまり明確な答えを持っていません。


①「生き生き」としていても楽しそうでなければいいのか。実際、仲正の左翼批判は「生き生き」しているにしても楽しそうであるより、うんざりとした愁いを帯びたものですね。しかし、何かをネタに「生き生き」と楽しそうに語ること一般が好ましくないと言うのは無理がある気がしますから、②生の・真の・本来の・本質的な何かに辿りつくことができるなどといった意識・無意識が介在していなければいいのか。あるいは、③「生き生き」批判でさえも「生き生き」とせざるを得ないんだ、という隘路を見出して「生き生き」の自覚化が重要なんだと悟ればいいのか。


まぁ②なのかな…という気はしますが、③なのかもしれません。いずれにしても「私は生き生きしていない」と断言するのは難しそうです。あるいは①②③のいずれでもない答えかもしれませんので、そのうち読み直してみます。
2007/07/31(火) 17:29:19 | URL | きはむ #- [ 編集]


どうもちょっと乱暴でした
 だいぶ乱暴に書き込んですいません。私の書き込みの動機はきはむさんの「運動への嫌悪」のあまりよくない形での露出が私には感じ取れたからです。ネットの運動には反運動という傾きがかなりありますから。


 仲正さんが自身では「運動」にかなり参加してるのはご存知だと思います、そのようにできるということと「生き生き」とした「生き生き」批判は密接に関係していると思えます。だとすれば、これは私がまさにそうなのですが、ネットで書くレベルならある程度「運動」好きだけど、実際には「運動」をしない人は仲正さんと立場が違うわけです。その意味で私ときはむさんの方に近いわけです。ここで①の「うんざりとした愁い」というところは重要だと思います。仲正さんがうんざりしている原因と我々(失礼)がうんざりしている原因は違うわけです。この短絡化こそすり替えができる秘密であるわけです。そして、それを許すのは図式化された音声中心主義批判だと。


 今読み直してみると紹介されたエントリーの全てで議論が紛糾してますが、特に、名指しされた「運動」当事者(いなばさん、菊池さん、安原さん)が、各人で私のその人のコメントや運動への評価は違いますが、ある程度は「うんざりしながら」反論しているのが目を引きます。この「うんざり」は不本意な二分法にさらされたときに起こるものでもあると思います。仲正さんの「うんざり」とそれはやはり共通していると思います。そのような共通点があるから仲正さんの「生き生き」や「暴走」(に思える)と理論との矛盾が積極的に注目しえるのではないでしょうか。


 寄り道しましたが、きはむさんのレスについてコメントすると、②や③に進むには、①の「うんざり」の理由が常に忘れられて一般化されることに個別に気をつけるというのが前提だと。ただ、こういうと楽しむのはいけないに近づいてしまうのでそれもいやですが。まあ、正直答えがわかるわけもないのでえらく優等生的ですいませんが…。
2007/08/01(水) 04:52:16 | URL | N・B #AtY2tiKE [ 編集]


ふむふむ、なるほど。非常に参考になりますね、ありがとうございます。特に「仲正の「うんざり」に安易に自らを重ねるな、お前とは立場が違う」というのは重要なご指摘だと思います(「図式化された音声中心主義批判」というのも)。


ただ細かいところでは、「運動」の定義とか、仲正と他の方々との「うんざり」の質が本当に(どの程度?)共通なのかどうかとか、気になるところもあります。あと、仲正自身が本当に「生き生き」しているのかどうかも、なお議論の余地があるとは思います(個別の論点では確かに「暴走」も多いと思いますが)。


まぁ仲正自身が安易に「答え」を提出することを拒む人ですし、スッパリ「これが答えだ」と言って「生き生き」するよりは、程よくグダグダな感じにしておく方が良いのかもしれません。ご指摘に従って私自身自戒すべきところが多そうですが、個人的には色んな立場がお互いを意識し合いながら(「うんざり」だと思いながら?)言説を紡いでいくことで、全体のバランスが丁度良くなればいいかな、と最近思うので、自分の言説内容にしても何かまぁ排他的な形にならなければいいかなという気がします。いや、もちろん反省しないという意味ではありませんが。
2007/08/02(木) 18:39:07 | URL | きはむ #- [ 編集]


柘植明さんのコメントへの返信
> 【思考の型や過程が問題であるはずのところで、内容の「真偽」のレベルに問題がすり替えられ】


これとはちょうど逆に


【内容の「真偽」が問題であるはずのところで、思考の型や過程のレベルに問題がすり替えられ】


というのも見受けられるような気がします。両方とも気になりますね
2007/08/21(火) 21:44:58 | URL | ふまたん #- [ 編集]


そうですね、それもあるでしょう。具体的に何が、とは分かりませんが。
いずれにしても、まず議論の共通前提を築く努力が為されれば何よりなのですが、そう上手く事が運ぶことは少ないようです。ネットでもそれ以外でも。
2007/08/23(木) 16:58:26 | URL | きはむ #- [ 編集]


共通前提
共通前提が常に必要か、どうかは分かりませんが、議論を重ねていくには、相手に「自分の前提」を示すこと、及び、自分が「相手の前提」を知ることは必要でしょうね。
2007/08/23(木) 20:04:36 | URL | ふまたん #- [ 編集]