新自由主義的言説の二重構造


2005/10/01(土) 21:57:01 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-139.html

いちヘルパーの小規模な日常 2005-09-29付エントリのコメント欄より引用。

mojimoji
『沢山ありますが、杉田さんの新刊との関係で言えば、彼らが就職活動で直面する困難一つとっても、個々の学生の資質の問題よりはマクロ経済環境や社会制度の問題であるのに、個々の若者に自己責任を要求する論理などです。学生の資質がどーの言ったところで、バブルの頃なら就職できたでしょうからね。その裏返しとして、我々以上の世代の責任が隠蔽されているわけで、これは怒るべきだろうと。/自己責任倫理を内面化して自己否定的な論理に縛られているのがあるんじゃないですかね。怒りがあってもその怒りに正当性が感じられない、あるいは怒る以前に自己否定に向かってしまう、その中で勝ち抜ける学生は自己責任倫理を再生産する、といった感じに思えます。自己責任倫理を論理として解体することが大事だと思います。』


怒るかどうかはともかく、大変適切な分析と見解だろうと思う。「愚民」論は全く説得的でなかったmojimojiさんであるが、こちらの点ではリーズナブルである。と思った矢先に「人々は必然的に愚民であるか」で随分ぼけたことを仰っているが。


個人の問題を云々する以前に社会の問題がある。社会の問題であるはずのことの責任が個人に帰せられてしまう。個人はと言えば、過去の悪弊からの反動だか何だか知らないが、妙に潔く慎ましくなってしまって、何も求めず全ての責を一人で負うような偉いおサムライさん化している。


こうした状況が進む中で、どのような結果でも引き受ける覚悟を持った上で多様な価値を追求せよ、などという変に求道者ぶったテーゼは要らない、というようなことを私は以前何度か述べている。
負けてもいいんだ、負けても勝ちであり価値じゃないか。多様な価値があるんだし、そもそも君はオンリーワンの存在なのだ。道は険しくとも、君自身の価値を追求していきなさい。…と、まぁこの類の言説を無邪気に支持し、ばら撒いてしまう人々が多数存在するのが現状であり、特に新自由主義的言説に批判的であるはずの左派やリベラルの人々ほど、こうした「オンリーワン」言説に足をとられやすいようである。それは結局、左右問わず、「自己責任倫理」の桎梏から逃れ出ることができていない証でもある。


多様な価値を追求することを奨励する一方で、その結果として待っている可能性が高い厳しい環境を受け入れ、耐え、喜びにすら変えることができるという(ことまで明言することはあまり無いかもしれないが、それに類する)言説というのは結局、新自由主義を裏で支える言説の二重構造に資している。


言説の二重構造というのは、こういうことである。
自由競争がいいんだ、ということで優勝劣敗・弱肉強食の方向に進む世界では、自助努力の自己責任が当然の振舞いとされてくる。自由なのはいいと皆が思うし、活気が出てくるだろうと思って総論で反対する人はあまりいない。特に日本では、過去の利権誘導政治やしがらみだらけの社会構造に嫌気が差している人が多いのでなおさらだ。何か、弱者は醜いとかいう心理もあるとかないとか。しかも、この時点では多くの人は自分が「負ける」なんてことはあんまり考えていないし、「負け」ないようになんとか頑張ろうとするだろう。頑張れば頑張るだけ報われる社会になってきたんじゃないか、という期待がきっとあるのだろう。とりあえず、ここまでのところは新自由主義的言説の一次構造、つまり一般的なそれだ。


実はこの時点で、既に社会構造などによって「負け」に限りなく近い人が多数いるのだろうし、最初から「負け」ている、と言い得る層の人々もいるだろう(ここでは、「負け」の意味はかなり大きくとっておく)。実際、新自由主義的な改革がさらに進行していけば、自分は「負け」ないと思っていた人々なども、弱者層、最弱者層に入っていくことになりそうだ。彼らが宮台真司の言うように「都市型リベラル」になってくれるかどうかはわからないが、少なくとも新自由主義言説の一次構造にとらわれている人々は、まず自らの責任として結果を引き受けることになるのではなかろうか。それはmojimojiさんが言っているように、自己否定に向かってしまうことでもある。当然、はなから自身の「負け」を決め込んでいて、自己否定の甘美さか、ニヒリズムの優越感か知らないが、そうした方向に進んでしまう人々も一定の割合で居るだろう。


一次的言説にとらわれていようがいまいが、社会全体でその影響力が大きくなってくれば、「これは私の責任ではない」と言ってもなかなか通らないし、何も良くなってくれない。だから、新自由主義的言説への支持・不支持とは無関係に、はなからか途中からかわからないが、一定数の人々が自己否定やニヒリズムに陥りそうである。そんな状況で、彼らを救ってくれそうに見えるのが、前述の「オンリーワン」言説のように、多様な価値などを称揚して自己肯定を促す言葉達である。そうした言説の上っ面だけを眺めれば私もそれを容認してしまいそうになるが、その主張には社会構造や制度・政策などを具体的に批判・否定するような部分は含まれていないのであって、社会の問題から生じた個人の困窮については、多様な価値の追求の代償だから止むを得ない犠牲だと言って済ませてしまう。


こうした言説が何故ダメかと言えば、社会の問題を個人の責任に還元してしまう無理を許してしまうからであって、何故そうなりがちかと言えば、結局こうした言説の主張者もまた、「自分の行為の結果は自分で引き受ける」という無駄に潔い自己責任倫理にとらわれ続けているからである。一次的言説と対立的なのだろうか、と一見思われるこうした言説は、意識的にか無意識的にか背後に自己責任倫理を共有しており、一次的言説の末に自己否定に陥った人々を慰撫する優しき母のような役割を果たす。お解りのように、これが新自由主義的言説の二重構造の内、二次的言説の部分である。一般の新自由主義的言説の二階部分、と言うよりは地下一階部分にでも当たりそうなこの言説は、一階部分がもたらす不安分子(=「負け組」、弱者)をフォローし自己肯定に向かわせることで、建築物自体に批判が向かうことを防ぎリスクをヘッジしている。この改革は自由と多様性を認めているんですよ、もちろんその結果は個人の責任ですよ、でも悪い結果が出てもそれはそれであなたの人生ですから素晴らしいじゃないですか、あなたは自分の価値を追求したんだしそのプロセスは喜びだったでしょうし悔いはないはずですよ、といった具合に、具体的なものは何も与えないままで言説全体の安定感を増すことができる。


したがって、新自由主義を批判するときには、批判者も自らの背後に何らかの形で自己責任倫理を負っていないかどうか、よく確認してみる必要がある。社会の問題は社会の問題として、個人の問題は個人の問題として、適切に区別して扱う必要がある。私はここから、個人に過度な要求をするべきではない、社会の問題の為に個人に多くを望むべきではない、というところまで進むのだが、mojimojiさんはその点私とは少し違う。
私達はもっとわがままになってよい。無駄な潔さなどいらない。もちろん、現実戦略的には、わがままを許容する社会というのが従来の「バラマキ」「ブン取り」政治と何が違うのかを、具体的に目に見えるように示す必要も、これはこれとしてあるだろう。

TB


[justice] きはむ氏への応答 http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20051001/p1


祭りのあと―世界に外部は存在しない http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20070121/p1