市民権と社会権の共通性


2005/09/30(金) 00:49:49 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-138.html

流行り物には乗っておけ、というわけではないが、ようやく読んだので、『「資本」論』稲葉振一郎


と言っても、ある程度確かな引っ掛かりを感じるような箇所もあまり無く、殊更に述べたいことがあるわけではない。それでも、dojinさんの「『「資本」論』に対する素朴な疑問」を改めて読んで多少思うところもあるので、一応書いておこうか。


dojinさんが書いているのは、社会権を市民権に引き付けて考えたり、社会権に市民権的な根拠付けを施したりすることにより生じる困難である。そして、そうした困難に突き当たる必然性など始めから無いのであって、社会権の根拠など共同性感覚だけで十分ではないか、と述べておられる。


言いたいことは解る。まぁ私なんかは、「福祉の無条件性」を支える唯一の条件=共同体のメンバーシップ、という構図を採る限り、その共同体の根拠やら共同性実感の内実やらこそが最大の「原理的な困難」になるほかないだろうな、とそっちの方が気になってしまうわけだが、そこは言わずもがななのかもしれない。


ということで、以下は専ら社会権と市民権の関係やらその周辺の問題に限って考えることにしよう。また、その際、コメント欄で稲葉さんが述べているところの個人主義的アプローチと共同体主義的アプローチの云々については(理解度に自信が無いこともあり、)考えの外に措いておこう。


要は、dojinさんのエントリでは草稿から引用されている最初の部分(本では240頁)の市民権の解釈にそのまま首肯するかどうか、ということだ。
自由権や財産権など(=市民権)は「その主体の側に実体的に既に存在し、存在している権利の保証」であり、「国家はそれを尊重し介入しない」だけであるが、社会権は「国家に対して何ごとかを要求することができる、という約束」であるから「実態としては恩恵に近」い、という対照的構図をそのまま受け入れてよいかどうか。まず、そこで留まった方がよい。


つまり、自由権や財産権と社会権はそれ程異なる性質を持っているかどうか、という疑いである。もちろん、自由権や財産権は個人が国家に介入されない権利という消極的な意味合いを持つものであるのに対して、社会権は個人が国家に積極的な役割を期待するものである、という解釈は明らかに正しく、疑いようがない。しかし、その差異が本質的な違いであると言い得る程であるかどうかについては、疑う余地がある。私は、そうした表面的な差異を裏打ちしている共通性が存在すると考える。


まず、国家が保障する以前から自由権や財産権の実体がある程度存在していた、ということは言える。もちろん、その時点での権利は慣習的な意味合いが大きく、保障が無いだけ確度が低いものには違いない。確度が低いだけ侵犯されることも多く、侵犯を罰する能力もかなり限定的であるだろう。そうした慣習的権利を国家が保障し、国家自身が介入を制限し侵犯を罰することで、権利としての確度が増すことになる。この点重要なのは、一定の実体はあるもののなお不確実性が高い権利に国家保障を付与することで、その権利が確実性と権利としての実体を増すことが可能になる、というプロセスである。


次に、社会権についても同様の考察を働かせよう。dojinさんが言うようにそれが「社会権の本質」であるかはともかく、「社会権の起源には「共同体における相互扶助・助け合い」という側面があった」という事実は明らかである。同じ共同体のメンバーであれば助け合う、という慣習的実体があり、そこで助けを得ることが「権利」とまで言うことは(相互扶助の性質上、また傲慢さを避けようとして)はばかられるにせよ、助けを求めることはもっともだという感情に共同体内で普遍性があるならば、この時点で社会権が「実体的に既に存在し、成立している権利」であると言うことには、特に無理は無いように思われる。
そして、この慣習的権利としての社会権をより確かに十分なものにするために、これに国家保障を付与することで権利としての実体を増し、内容を充実させる、というプロセスが採られる。そして、このプロセスは自由権や財産権が辿ったプロセスとかなり近似しているように思える。


以上で主に述べたかったことは、国家の保障以前に権利としての実体がそれなりに存在したということは自由権や財産権と同様、社会権についてもかなりの程度言えるのではないか、ということであるが、同時に「恩恵」という論点についても回答が引き出せる。以下、それについて考えよう。


社会権の方がより明示的な要求、あるいは実物的な要求を国家につきつけるものであるから、社会権の「恩恵」的側面ばかりが目に付きがちであるが、実のところは、自由権や財産権と比べて社会権がとびきり「恩恵」的であるわけではない。逆の言い方をすれば、社会権が「恩恵」的であるのとそれほどかけ離れていない程度には、自由権や財産権も「恩恵」的である。
社会権自由権や財産権同様に国家の保障以前から一定の実体があることは、既に上で述べた。そこから引き出せる考えは、いずれの権利もゼロから出発しているわけではない以上、全くの「恩恵」ではなく、それと同時に、既に実体があった以上の保障や確度を得ている部分は国家の「恩恵」以外の何物でもない、ということだ。このことは自由権や財産権のように「自然法的普遍性」が錯覚できてしまう類の権利についても例外ではない。


自由権であろうが、財産権であろうが、それがどこまで認められ、どこまで正当であるかは、国家によって制限がかかっている。それは、「恩恵」をどこまで与えるか、ということでもある。自由権・財産権と社会権では国家の役割のベクトルが真逆であるように見えるが、得られるかどうか不確定なものを国家が保証し、その保証の範囲も国家が決める、という「恩恵」的な態度に関しては同型であろう。国家に保障される限りでの「権利」という概念自体が、「恩恵」的側面を免れることは不可能であり、その点で自由権・財産権も社会権も大差ないだろうと、私には思われる。もちろん、このあたりは程度の差こそあれ周知のことであるかも知れず、要は強調点をどこに置くかの違いに還元できるのかもしれないが。


いまや国家に個人が直接対峙せざるを得なくなってきているような現状において、個人の持つ力に付いて離れない「恩恵」的な性質をできるだけ小さくしていこうという方向を採るべきだ、という考えを私は持っている。稲葉さんの「労働力=人的資本」論による社会権の「恩恵」的性質の乗り越え戦略は、私の考えと一瞬交わる様でもあるが、結局遠く離れてしまうように思う。「権利」概念自体に「恩恵」的性質を見るがために自由「権」や財産「権」、あるいは時に社会権に向けても冷たい視線を送る私に対して、稲葉さんは「剥き出しの生」を警戒してあくまでも財産権の主体としての人間、あるいは「拠点としての所有」といったものに執着を見せるがゆえである。
「剥き出しの生」という言葉は私みたいな考えの持ち主に対する批判の矢になりそうでもあるのだが、まだちょっとよくわからない。出所が示されているだけで特にはっきりとした解説も無いことであるし。


さて、まぁ、見る人が見ればあまりに乱暴でちゃんちゃらおかしいかもしれないが、それは今更のこと。今日はこんなところで。


「資本」論―取引する身体/取引される身体 (ちくま新書)

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コメント

私の知り合い情報では、東大の憲法学の長谷部恭男が、そういう議論(財産権と生存権を厳密に区別する議論を相対化する議論)をしているみたいです。俺もヒマみつけてチェックしてみます。
2005/10/02(日) 11:36:52 | URL | dojin #- [ 編集]


なるほど、やはりあるもんですね。
勉強したいとこです。
2005/10/02(日) 17:17:23 | URL | きはむ #- [ 編集]


とりあえず検索して見つけたものを適当に貼っておきます。法思想史やら人権やら憲法やら勉強しないといけないな、と思う今日この頃。


http://www.ipc.shizuoka.ac.jp/~ebhsasa/hayasi-iken.pdf (PDF)


http://www.shugiin.go.jp/itdb_kenpou.nsf/html/kenpou/shukenshi031.pdf/$File/shukenshi031.pdf (PDF)


http://www.geocities.jp/stkyjdkt/staatsrecht0.htm


http://www5a.biglobe.ne.jp/~kaisunao/seminar/403seikatu-hogo.htm


http://www.tezukayama-u.ac.jp/tlr/watanabe/watanabe6_j.htm#no3-1


2005/10/02(日) 18:47:07 | URL | きはむ #- [ 編集]


2005/10/04(火) 16:14:47 | URL | nakanishi #- [ 編集]
興味深い資料をいろいろどうも。最近、知り合いの生活保護ケースワーカーの話を聞いて、生活保護ってのはいろんな意味でややこしい領域だと改めて実感。
2005/10/04(火) 21:18:22 | URL | dojin #- [ 編集]