「愚民」でいいから幸せが欲しいニャア

 
2005/09/16(金) 21:10:21 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-136.html

愚民が愚民でなくなる可能性のために
愚民とは、説明を要求しない人のことである


自分の凡庸なアナロジーが若干文脈が違うように思われるところで繰り返し批判にさらされているのを見るのは何とも不可思議な思いもあるが、まぁそれはいい。


私がずっと気になっているのは、有権者は自身の投票行動を合理的に根拠付けできなくてはならず、それを論理的に正しく説明できなければならない、とされている点だ。


何故だろうか。何故、そんなことが要求されねばならないのか。


合理的な理由に基づいて行動をし、その理由に他人が納得するよう論理的に説明を行うことができなければ「良き市民」(≒「愚民」でない人)ではない、と言われるのであれば、私は「良き市民」でありたいとは全く思わないし、「良き市民」である必要も全く無い。


繰り返すように、私は別に「愚民」と呼ばれてもいいし、呼ぶのはご自由だろうと思う。基本的に私は有権者が自らの投票行動とその結果について特別な責任が発生するとは考えていない*1有権者がいちいち合理的な根拠に基づく行動をとる必要も無ければ、合理的な根拠と思われるものが存在したとしてもそれを他人に説明する必要も無い、と確信する。


人間の行動は全て合理的な根拠に基づいているわけではないし、どんなに合理的な行動であっても望ましい結果をもたらすとは限らない。また、合理的かどうかは目的によって異なっており、まず目的が共有されているかが不明である。おまけに、合理性を判断するのは結局個々人であり、論争の軍配がどちらに挙がったかを判断するのも個々人でしかない。他人にはどんなに合理的に思える論理に対しても、いやこれは合理的でない、と決め込んでしまえば終わりであり、合理性の判断を左右するのが非合理的な感情であったりすることは往々にしてあることだろう。
少なくとも有権者と候補者という関係性に限れば評価する側とされる側に他ならないと思うので、何でこの構図をせせ笑っていらっしゃるのかいま一つ不明であるが、まぁそれはともかく、評価の材料は合理的かどうかや言葉で言い表せることであるとは限らないのであって、合理性だけを争っていればいいというレベルの話でないことは自明だろう。それをダメだと言われてもなぁ…、傲慢な合理性至上主義以上のものではないのではないか。


責任論については私はまだ整理された十分確かな議論をする自信が無いのでこれを回避したいが、ある行動には当然ある種の「責任」が伴うことは自明であると考える。しかしながら、その種の「責任」とは、自分の行動によって不利をこうむった他人から非難や攻撃を受けてもそれから逃れてはならない、などといった根拠不明の道徳的お説教を意味しているのではない。自らの行為の意味が否応なしに自らの背中にのしかかっているという単純な事実のみを示す。
私の行動によって生を脅かされたという理由で私に危害を加えようとやって来た者がいたならば、私はその攻撃を甘受しようとは思わず、徹底して回避しようとするだろう。私にとって最も重要なのは責任や正義ではなく、自らの生存と利益であるからだ。重要なのは、私がどうしたいか、どうしたくないか、あるいは、他人がどうしたいか、どうしたくないか、こうした点だけである。


私は最初から、正義に適わないとかいった理由で何かをするべきではないなどと言うことに興味は無い。私は何らかの暴力を私が好まない、望まないといった理由でいつでも批判するし、その暴力批判の足場は常に私自身と私自身の暴力に在る。どんな暴力もその上位から批判が可能であるような足場など、最初から誰にも用意されてはいない。自分にはそうした足場があるとか、自らの正義の弁証によって足場を作り上げているとか考えるのは、欺瞞である。自らの生存と生活と暴力以外に何らかの確かな足場があると本気で思っているなら、あまりにナイーブではないか。


それから私は、「良き市民」が増えなければ世界は良くならない、という論理には付き合いきれない。もちろん、「良き市民」が増えれば確かに世界はより良くなるのかもしれないし、そうした方向での教育やら啓蒙やら説得やらが重要であることを否定しない。しかし、「民主主義の永久革命」や「未完のプロセス」といった言葉が示しているように、そうした運動はいつまでもいつまでも延々と続いていくものであって、ともすれば自己目的化した運動に堕する。もしそうではないと言う方がおられるなら、どのように人々を「良き市民」にすることができ、どのぐらいの期間を要すれば「良き市民」によって有権者の多数派を占めることができるのか、そのプロセス論を示していただきたい。


愚民かどうかはともかく、人間の性質はそれ程簡単に変わるものではないのであって、人を変えれば社会も変わるという論理は基本的にひどく長期のスパンでの話である。よって、全てをその次元の話に還元することはできない。「良き市民」を作り上げていくどうこうの前に、あるいはそれに並行して、この現実の中で何をどうすることによって社会を望ましい方向へ変えていくのかという議論が必要なのである。一般的に、後者の話が不得手である者ほど前者の話に還元して済ませようとする傾向が認められるかもしれない。また、より確かに認められる点として、人を変えれば社会も変わるという論理を多用する者ほど、社会の問題を個人のレベルに還元してしまいがちで、個人が努力すれば問題が解決するかのように語りたがる傾向があるように思う。


もっと摩擦的なことを言えば、そもそも私は「良き市民」が増えなければならないとは思わないし、市民とは責任と公共心を持って政治に参加するべきだ、というような言説を忌み嫌っている。誰かが「良き市民」であることや「良き市民」が増えることは何も悪いと思わないが、「良き市民」たることを規範的に語る者あらば、これを批判して止まない。私やその他多くの一般人にとって重要なのは、自分が「良き市民」になることではなくて自分の利益が実現することであるのだから、「良き市民」であることが何物にも代え難い価値であるかのようにこれを称揚し推奨する声を私は拒絶する。
私達が考える必要があるのは、「良き市民」を前提とした社会構想ではなくて、「良き市民」でない者が「良き市民」でないままで幸せになれる社会構想である。「良き市民」になることなどに価値を認めていない私達が望むべきなのは、無責任でわがままな私達がそのままで幸せになれる社会である。こんなことは明らかであるように私には思われるのだが、真面目で誠実そうに見える人ほどそうは考えないようだ。あー、不真面目で良かった。

コメント

『私達が考える必要があるのは、「良き市民」を前提とした社会構想ではなくて、「良き市民」でない者が「良き市民」でないままで幸せになれる社会構想である。「良き市民」になることなどに価値を認めていない私達が望むべきなのは、無責任でわがままな私達がそのままで幸せになれる社会である。』


これは「社会秩序はいかにして可能か」を考えている(らしい)社会学者の問題関心に近そうですね。そういえば、だからハバーマスよりルーマンだ、とミヤディはいってましたが、どう思われますか?私にはよくわかりませぬが。無責任な質問ですみません。
2005/09/17(土) 02:57:17 | URL | dojin #- [ 編集]


まだ実際に読んでいないので無責任な発言になりますが、伝え聞く限りではハーバーマスの考え方は感心しないものだと思ってます。


ルーマンについては勉強不足で何も言えそうにないです。でも、秩序問題は私の主な関心の一つなので、参考にできたらいいかなとは思います。
2005/09/17(土) 20:35:29 | URL | きはむ #- [ 編集]

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責任論ノート―責任など引き受けなくてよい http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20070122/p1