「出口」が無いなら住んでみる


2005/11/15(火) 19:56:19 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-165.html

本日2限の社会学史Ⅱは、批判理論の回だった。私のフランクフルト学派に関する知識といえば、二次的・三次的な拙いものでしかないのだけれど、その拙い情報を頭の中で繋ぎ合わせながら聞いていた。


ハーバーマスの主著に関しては近い将来に読まなければならないと以前から決めていたが、アドルノとホルクハイマーの『啓蒙の弁証法』も、かなり先になってもいいから読んでおくべきかなぁと思った。もちろん今までもその重要性はそれなりに認識していたつもりだが、読む必要までは感じていなかった。だけども、直接的な必要は無くとも読むに値する書であることは間違いないと確信を覚えたので、心に留めておく。


それで今日は、講義を聞きながら考えていた、目的-手段関係と「出口」についての考えを書きとめておこうと思う。簡単にまとめると、あくまで「出口」を示そうとするハーバーマスより、あくまで「出口」なき迷路でもがき続ける第一世代(アドルノ、ホルクハイマー)に共感する、ということだ。『限界の思考』の中で宮台真司が、ハーバーマスもすべて解っている上でああいうことを言っているのだ、というようなことを述べていたこともあり、まぁそんな単純じゃないんだろうな、とは思いつつ、軽く書いておく。


目的-手段関係(=「道具的理性」)から逃れることは不可能に近い。各個人の主観があらゆるものを客体化し、自らの目的達成の手段として利用する、という構造は変えられないし、無理に変えようとするべきでもない。手段をそれ自体目的として「享受」することには一定の価値があることは認めるし、その価値を重視する人々が個別に「享受」する分には問題が無い。しかし、手段の目的化、プロセスの自己目的化という「享受」あるいは「活動」(ハンナ・アレント)を、人間の一般的価値として拡張し、一種の「倫理」として推奨したり半ば押付けようとしたりすることは、決して認められない。


なぜなら、プロセスの自己目的的「享受」や「活動」を唱道することで、各個人に目的-手段関係的志向性を放棄させようとすることは、そのことによってより大きな目的(例えばファシズムの予防?)を達成する手段として各個人をみなすことであり、それ自体が大規模な目的-手段関係的プロジェクトの一環であるからだ。企画者の主観的目的に過ぎないこうしたプロジェクトを、そこに動員される各個人の主観的目的よりも優先する妥当な理由は無い。各々の主観的目的が等価である限り、すなわち究極的に優先される目的が存在しない限り、こうした目的-手段関係の並立状況を乗り越えることはできない。この点が、古典的理性と近代の道具的理性との違いでもある。道具的理性の支配に「出口」は無いのである。


しかし、それにもかかわらず「出口」を模索し、何とかしてそれを示そうとする人々がいる。「享受」や「活動」、あるいは「対話的理性」とは、そうした試みの例である。「出口」なき迷路において「出口」の存在を唱道する行為は、その言説内容が幻想にすぎず麻薬的役割を持つものであることが明示/暗示してあった上で自由選択に委ねられるならば特に問題は無いが、そうした分別なくして現実に「出口」の存在を錯覚させるようであれば、有害と言うほかない。上述したように、目的-手段関係に「出口」は無く、安易に「出口」を求めたり、その存在を強調したり仮構したりすることは、現実認識に錯誤をもたらし、盲目を生じさせかねない。


私達に必要であるのは、出発点と歩行法ぐらいであり、「出口」を示す必要は無い。エゴイズムも「出口」を示すというよりは、きっと出発点を模索するものだ。ポストモダニストの内で賢明な者がトータルな代替ビジョンを示すことに慎重であるのは、安易に「出口」を示すことの危険性を十分認識しているからであり、そしてそのことは、具体的なテーマに関して適宜実現可能な代替策を考案・提示していくことと、何ら矛盾しない。逆に、かなり漠然としたビジョンをあたかも確かな「出口」であるかのように強弁しておいて、そこに行き着くプロセス構想や直近の死活的課題に関する具体的提案を行うことを拒む態度は、もっとも避けるべきものである。


ただ、アドルノ=ホルクハイマーや仲正昌樹などの哲学者以外の人間は、大前提としての「出口」の不存在を理解しておきさえすれば、それ程慎重になりすぎることもないとも思う。「最終解決」としての「出口」などどこにも無いのだということを本当に解った上で、積極的に様々な代替案を提出していくことは、決して不実な態度ではないだろう。もちろん、ここで言っている積極的行動とは、ハーバーマス宮台真司のように、ある種の虚構として「出口」を造ってしまおうとすることではない(両者を並列にしてよいものかはわからない)。私は、虚構としての「出口」も要らないと思っている。事実性だけでいいと思っている。仲正は本音(=現実)なんてどうせつまらないのだから建前(=虚構)を馬鹿にしたものでもないと言っているが、私はとりあえずはつまらない本音でいいと思っている。その辺りが違いになってくるのだろう。


何だかまた終盤ごちゃごちゃになってしまい、申し訳。


啓蒙の弁証法―哲学的断想 (岩波文庫)

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限界の思考 空虚な時代を生き抜くための社会学

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