社会科学とは何か


2005/11/20(日) 00:54:02 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-167.html

別に私は社会科学をやっているつもりも、やるつもりも(たぶん)無いけれども、社会科学とは何かということを考えることはある。私の答えは単純で、「社会の問題」を扱う学問だ、ということである。


「社会の問題」には大きく二つあって、個人・個別事象の集合・山積としての問題と、個人・個別事象からは「独立」した問題がそれである。本来、社会は個人や個別事象からの集合・山積に過ぎないものであり、それらから独立しては存在し得ないはずである。しかし、ミクロ要素がひとたび集合・山積した結果としてのマクロは、それ自体が集合・山積に還元し得ない「独立」した存在として現れ出すことが、しばしばある。もちろん本来は集合以上のものでは無いはずであり、個人から真に独立した社会などは幻想に過ぎないという認識は正しい。それにもかかわらず、幻想は実在し、「」付きとはいえ「独立」した存在として現実を左右する。「集合に過ぎない」という認識は一方で正しいが、それに固執しすぎると、もう一方の現実を取り逃がしかねない。「集合に過ぎない、にもかかわらず集合以上で有り得る」という認識が社会認識の常識である。


以前にも書いたことのあるようなことを、何故今更改まって書いているのか自分でもよくわからないが、ついでに以前引いたことのある文章を改まって引こう。


郵便を配達する人だとか、仕分けする人とか、さまざまなものが有機的に組み合わさって総体(ボディ)としての郵便制度を作っている。その郵便制度を前提として始めてハガキに書くということが意味をもってくるんであって、そういうものがなければ、ハガキはただの紙です。ハガキそのものをいくら顕微鏡でみても、ハガキのハガキたるゆえんは解りませんね。紙がハガキになるのはそれが郵便制度の一環――郵便制度というボディの一つの部分――としてある限りです。かりに郵便ストでもつづいて郵便がまひすると、ポストはただの屑かごになりましょう。実際は郵便だって孤立的にあるんじゃない。例えば鉄道がストップすると郵便もストップする。郵便とか鉄道とか新聞とかいったいろいろの Wesen(Body)が分ちがたくからみ合って一つの Wesen(Body)になっている、それが人間の社会であります。


『社会認識の歩み』 内田義彦 30〜32頁)


もう一つ引用する。


有機体的な構成とロボットの構成との決定的な違いは、部品ないし部分という概念の違いにあります。ロポットはスイッチ(エネルギー供給)を切っても、また入れれば動きます。またロポットはいったんバラしたあと、また元通りに組み立てればちゃんと動きます。
■ロボットを叩き壊しても、個々の部品は有用でありえますから、有用な部品を組み合わせて、元のロボット以外に、別の機械を作れるということがありえます。ところが有機体は一度バラして元通りに組み立てる、あるいは別の有機体を組み立てることはできません。
■こうした違いの由来を理解するのに先のようなシステムの概念化が役立ちます。この概念化では、部品すなわち下位システムは、システムの全体性があって初めて同一性を維持できます部品が部品としての同一性を、全体の作動抜きで維持することはありえません
■例えば、私という生物有機体を死ぬと、しばらくは個々の内臓が生きていますが、じきに内臓レベルでも死が訪れます。内臓が死んでも、しばらくは個々の細胞が生きていまがが、じきに細胞レベルでも死が訪れます。かくして全体が壊れると部品もまた壊れます。
■こうした有機体の構成は、先の概念化とは別に「部分と全体の間に存在するループ」としても概念化されます。すなわち、部分が全体を可能にしていると同時に、全体もまた部分を可能にしているということです。よく挙げられるのが細胞膜と細胞全体との関係です。
■細胞膜がなければ、細胞質が流出してしまい、細胞全体は直ちに死滅します。でも細胞膜は、ロボットの装甲板のごとき部品とは違って独立自存する実体ではなく、細胞の全体組織が活動することでようやく同一性を保つことができる、それ自体「生き物」なのです。


宮台真司「連載・社会学入門」第三回:システムとは何か?


宮台が言うような社会学の特徴がどこまで社会学に固有のものなのか、私にはよく分からない。そういえば、経済学にも「合成の誤謬」という言葉があるそうだ。どういう文脈で使うのか詳しくは知らないが。


ともあれ、かのように全体と部分、マクロとミクロ、社会と個人はそれぞれがそれぞれを可能にしている関係にあり、単なる集合と個物の関係にはない。そういう考え方が社会科学の基礎にあるはずだし、あるべきだ。その上で、二点ほど留保を付けたいことがある。一点目は、社会と個人の相互依存関係は十分認識しながらも、それでも最終的な「立脚点」は個人にあると考えるべきである、ということ。二点目は、「社会の問題」を考え語るのはいいが、調子に乗るなよ、ということ。


最終的な「立脚点」と言うのが適当かどうか知らないが、とりあえず社会を分析するにせよ、社会的に「構築」されるにせよ、まず個人が存在しなければ話が始まらないという意味で言っている。社会と個人がどれ程相互に循環し往還するものであろうとも、遡っていけば最終的には個人に行き着くのである。ある言語体系に乗ることで思考や会話が可能になると言おうが、他者との関係の中で自我は形成されていくと言おうが、そうしたすべてはとりあえず個人の存在を前提とした話である。個人が存在を始めた瞬間から社会に拘束されるものであろうが、その相互関係を可能にしている「立脚点」は、社会に拘束されるかされないかのその「瞬間」であり、個人の存在という大前提である。この事実は明らかであり、忘れてはならない。まず個人が存在する、と私は何度でも言おう。


二点目は、多分に感情的な問題かもしれない。しかし、科学者として必要な謙虚さを担保する為の重要な点であるので、よく聞いておけ。「社会の問題」はあくまでも「社会の問題」なので、それを分析してそれのせいで困っている個人を助けるのは素晴らしいことだし、それが社会科学の主な役割の一つであるはずである。しかし、「社会の問題」はあくまでも「社会の問題」なので、それの解決に躍起になってその為に個人に多くを求めることは、ウザイので止めなさい。「社会の問題」は「社会の問題」だが、「社会の問題」を解決しようとする社会科学者達の使命感は彼ら各人の「個人の問題」に過ぎない。社会科学者達の「個人の問題」の為に他の多くの人々の「個人の問題」を左右する積極的な理由は無い。


もし左右しようとするならば、それは価値判断になり政治になる。科学と政治は区別しなければならない。…おぅ、何てことだ、至極当たり前の結論になってしまった。当たり前に思える結論に達することが、思考・論理プロセスの妥当さを証明してくれているのならいいのだが。


念の為言っておくが、科学が価値判断から完全に自由で有り得る、などと主張しているわけではない。


社会認識の歩み (岩波新書)

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