イデオロギッシュにニートを撃て


2005/12/02(金) 23:48:21 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-175.html

ウェブ上でタダで読める文章をまとめた本を、逡巡しつつも結局買ってしまう私は、やはり旧世代の人間ですか。


『知に働けば蔵が建つ』 内田樹


内田さんの本は、『寝ながら学べる構造主義』しか読んだことがないが、ブログは一応読んでいて、ケチをつけたこともある。本屋で見かけてパラパラとめくってみると、私が気になっていたようなエントリはほぼ網羅されているのではないかと思えたので、購入した。多少加筆もされているようだ。


それで、今回は少し、本の冒頭にある、「資本主義の黄昏」「オーバーアチーブの原理」という二つの文章を軽く検討してみたい。その文章の元になっているブログでのエントリは以下のものだ。


資本主義の黄昏
サラリーマンの研究


それで、いきなり何だが、これらの文章で主張されている、「オーバーアチーブメント」やら「自己を供物に捧げる」ことやらが、人間の本質である、などという「戯言」はどうでもよい。人間以外の動物も、それらの行為に「義務感」や「達成感」を覚えることは無いとしても、行為そのものとしては大差無い事をしていると思うからである。そもそも、本当に「オーバーアチーブ」なのかどうかも疑う余地があるだろうが、私には判断する材料が乏しいので、その点はよい。ともあれ、これらの主張は、内田さんの本を読んで説教やスピーチのネタにするオジサン達のための主張であって、それ程真剣に検討する対象ではない。


検討が必要なのは、「資本主義の黄昏」で、こうした主張の後に展開されるニート論である。著書の方では、このニート論に加筆がなされていて、多少補強されている。内田流ニート論から一部引用をしよう。最初のものは、ブログ上でも読める部分、二番目のものは、加筆部分である。


おおかたの人は誤解しているが、NEETは資本主義社会から「脱落」している人々ではない。
資本主義社会を「追い越して」しまった人々なのである。
あらゆる人間関係を商取引の語法で理解し、「金で買えないものはない」という原理主義思考を幼児期から叩き込まれた人々のうちでさらに「私には別に欲しいものがない」というたいへん正直な人たちが資本主義の名において、論理の経済に従って「何かを金で買うための迂回としての学びと労働」を拒絶するに至ったのである。
だから、NEETの諸君にどれほど資本主義的な経済合理性を論拠に学習することや労働することの肝要であることを説いても、得るところはないだろう。


 ニート問題について、「机上の空論はやめろ。現実を語れ」と声を荒立てる人が言うことは、最終的にはいつも「だから、金が要るんだよ」という結論に落ち着く。そして、彼らの政策構想は「では、どうやってその金を工面するか?」というたいへん実際的な方向に進んでゆくことになる。
「金がない」のが人間の不幸の主因で、とりあえず「金さえあれば」問題は解決(ないしは先送りできる)という考え方を多数の人々が自明のこととしている。
 だが、むしろ「こういう考え方そのもの」が現在の危機的状況を生み出したのではないか。
(34頁)


「こういう考え方そのもの」とは、「金さえあれば」式の功利的な考えで方のことである。内田さんは、そうした語り方とは「違うことばで学びと労働の人間的意味を語ること」こそが、喫緊の課題だと認識する。ついでに言えば、内田さんは、功利的考え方をニートにさせているのは社会であるから、「私はニートたちを責める権利が自分にあるとは思わない」と付け加えている(35頁)。


内田さんのニート論への批判は、端的に言えば、「矛盾しています」の一言で済むように思う。それは、内田さんは、「金さえあれば」式の功利的思考法こそが「現在の危機的状況」をもたらしたと言うのであるが、この「現在の危機的状況」の意味を文脈に求めようとすると、どうしてもご自身が言う「金さえあれば万事解決」するようなタイプの問題をしか指していないように思えるからである。つまり、功利的思考法こそが問題を生み出したのだ、と言っている前提の「問題」こそが、功利的思考法に基づいて設定されているということだ。


こうした「矛盾」は、内田さん自身、とっくにご承知のことかもしれない。そうした空気を無意識下に感じたこともあって、過去の私はこうした主張を「プロパガンダ」だと考えたのだろう。「矛盾」だと知りつつ、「プロパガンダ」あるいは「イデオロギー」としてこうした主張をするということは、どういうことだろうか。


とりあえず現在の社会に生きようとする限り、「金が要る」のは当たり前のことである。そして、そうである限り、決して「金さえあれば」式の考え方から真に脱することはできない。それは、内田さん自身も例外ではない。しかし、そうした功利的思考法に基づいて経済合理的な判断を徹底すると、ニートなる若者層が膨張してきてしまう。若者が親に寄生して働かないと、なんか色々あって日本経済はまずいようだ。そうした「危機的状況」は、功利的に言って、何としてでも避けなければならない。危機を避けるためには若者を働かせねばならず、そのためには彼らを功利的思考法から脱却させる必要がある。すなわち、「オーバーアチーブメント」や「自己を供物として捧げる」ことの「人間的意味」を教えてやらなければならない。


だから、内田さんは自己撞着にもかかわらずプロパガンダを打つのであり、この「ニート問題」は、ブログ版にあるように、「教育的課題」なのである。「現在の危機的状況」は、内田さんその他にとっての問題であって、ニートにとっての問題ではない。なぜなら、ニートは親の金によって、「問題を先送りできている」からである。適切には、「先送り」と言うよりも、親の金で生活できている以上、問題は未発生である。ニート自身の問題は、親の金を食いつぶした時に生じるもので、その際には、(内田さんに倣って非常に単純に考えれば)彼らは持ち前の経済合理性を発揮して労働にいそしむだろう。そして、ニート自身が問題に直面したときに働くことができるためには、「金さえあれば」式の考え方でもって、就業可能な環境を整えておかねばなるまい。


だから、内田さんがニートたちを責める権利が自分にあると考えないのは、当然である。むしろ本来は、逆に責められることを心配するべきである。「金があれば問題を先送りできる」という「知恵」を彼らに授けたと認めておいて、自らはそうした「知恵」に基づいて「危機的状況」を発見しながら、その「危機的状況」を解決するために、今度は彼らから「知恵」を奪って新たな「人間的意味」を教え込もうと企んでいる。非常に悪質である。内田さんには、こうした自らのイデオロギッシュな立場を隠蔽しようとする癖が見受けられる。宮台真司のようにすべて開陳せよとは言わないが、自らの「ずるさ」みたいなものを多少はほのめかしておく方が、誠実な書き手だとは思う。


「悪質」だ「隠蔽」だという批判の仕方をすると、どうもaraikenさんの内田批判に漸近しているようで参るな。以後、書けそうだったら内田さんの格差社会論批判も検討してみます。


知に働けば蔵が建つ

知に働けば蔵が建つ

寝ながら学べる構造主義 ((文春新書))

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