刑法についての試論


2005/12/11(日) 21:39:28 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-179.html

刑法について書いてみたいと思う。法学部でもなく、刑法の入門書すら読んだこともなく、刑法の学部講義ですら受講したこともない私には、全く以て無謀な試みと言うほかないが、物は試し。


とりあえず、このエントリの素材になったのは、主に以下の文献である。この程度の付け焼刃だとご理解された上で読んで欲しい。


『刑法三十九条は削除せよ! 是か非か』呉智英・佐藤幹夫[共編著]
「刑罰から損害賠償へ」橋本祐子(『同志社法学』第52巻第6号、2001年3月、370〜392頁)
リバタリアニズムの刑罰理論」森村進『人間の尊厳と現代法理論』三島淑臣ほか編、435〜453頁)
リバタリアニズムと犯罪被害者救済」森村進(『一橋法学』第1巻第2号、2002年6月、207〜221頁)


まずは刑法が想定している人間像の話から入ろう。刑法が想定している人間像とは、自由意思を持ち、合理的判断ができる人間である。刑法は、理性や自由意思が無ければ、責任能力が無いと考える。したがって、「心神喪失者」や「心身耗弱者」は、第三十九条によって、その刑が免ぜられるか減軽される。


ところで、合理的人間像を想定しているのは刑法の専売特許ではない。経済学もまた、この合理的人間モデルを基礎においている。完全市場における利己的経済人は、自らの効用を最大化するべく、全ての行動を合理的判断に基づいて行う。これは仮定だが、そのまま現実に適用してもよいと考えだすと、新自由主義などと呼ばれる考え方に近くなる。あらゆる情報と条件を勘案して、自己利益を最大化する行動を合理的に選択しているのであるから、その結果については各個人にのみ責任が帰せられる。こうして新自由主義においては、自由放任経済における自己責任が、現実に適用されるべき方針として肯定的に捉えられる。しかし、現実の市場は不完全であり、現実の人間が不合理かつ誤り得る存在であることを知っている人々は、新自由主義に反対して、何らかのセーフティネットの設置を主張する。


経済における合理的人間像を参考にして考えると、刑法が合理的人間像を想定しているということは、合理的判断によって犯罪行為を選択した人間は、結果として刑罰を受けることが自己責任であるとされることになる。犯罪行為の責任として刑罰を受けることは、至極当然であるように思われるし、実際ほとんどの人が賛成するだろう。しかし、「合理的判断によって」とか「自己責任」という言葉に抵抗を覚えた人もいるはずだ。市場における合理的人間像に批判的な人々は、果たして法学分野では合理的人間像を肯定できるのだろうか。


当然ながら、現実の人間は常に合理的ではないので、犯罪行為者も、合理的判断に基づいて犯罪行為をするとは限らない。また、知的障害者精神病者認知症患者、低年齢者その他は想定の外に出てしまう(ゆえに刑法三十九条などがある)。さらに、自己責任論との絡みで言えば、犯罪行為者になる可能性は、かなりの部分を所得水準や教育程度などの社会的格差や偶発的条件によって、左右されると考えられる。こうしたことを考え合わせると、法に触れたから即刑罰を受けるべきだという考え方には問題が無いと言えるだろうか。市場における敗者がそうであるように、犯罪行為者にも「セーフティネット」が必要となるのではないか。


刑法が合理的人間像を想定していることを批判することは、三十九条を削除して精神病者にも刑罰を与えようと結論づけるよりもむしろ、精神病者など以外にも犯罪行為者を対象とした「セーフティネット」を広げることを要請する。もちろん、精神病者知的障害者に対する現在の「セーフティネット」も、十分整備されているわけではないだろう。その整備と併せて、貧困や教育程度の低さから犯罪行為者となった人々にも、ある種の「セーフティネット」が構築されるべきである。受け入れやすい言葉を使えば、罪を犯してもやり直せる社会をつくろう、ということでもある。


こうした犯罪行為者を対象とする「セーフティネット」は、具体的には、教育や職業訓練などを施して、社会に復帰させていくことを目指すことになるだろう。刑務所と同形の施設には収容されるかもしれないが、そこで犯罪行為者に課されるのは、刑罰とは言い難くなる。従来の刑罰観からすると、受刑者の更生を刑の本質とする教育刑観を徹底させた形と言えるかもしれない。そこには、罪の報いを与えるのが刑の本質だと考える応報刑観の色合いは失われる。


もちろん、この刑事司法における「セーフティネット」構想には問題がある。犯罪被害者のことを置き去りにしている点が、その第一にして最大の問題だろう。近代刑法が抱える欠陥は、合理的人間像ともう一つ、犯罪を全て国家に対する犯罪であると捉える点である。この点は、以前にも書いたことがある。


つまり、刑法は国家の権力濫用を防止するためにつくられており、犯罪者とその人権の味方である、という事実がある。そこでは裁判・処罰・更生の過程は国家と犯罪者の2者関係であって、被害者はこの構図の中に組み込まれていない。
国家は犯罪者だけでなく、その被害者にも強制力を及ぼしている。すなわち、いわゆる自力救済(復讐その他)など、個人や社会に本来備わっている問題解決能力のかなりの部分を取り上げているのである。
(「犯罪被害者保護に一考」)

*1


私も、犯罪被害者を置き去りにするべきではないと思う。国家による刑罰ではない形で、加害者および被害者自身による自主解決的制度が刑事司法の中心に据えられることを望む。現行の刑事司法制度に代わる当事者主体の制度として考えられる案の一つが、R.バーネットが主張する、損害賠償一元化論である。


 最近リバタリアニズムの法学者ランディ・バーネットは、刑罰制度を廃止して純粋な損害賠償の制度に一元化すべきことを精力的に説いている。彼の基本的な発想は単純明快である。「[損害賠償の観念は]犯罪を、ある個人が別の個人に対して行った違法な行為として見る。被害者は損害を蒙った。正義は、有責な違法行為者が自らのもたらした損害を償うということにある。……われわれがかつて社会に対する違法行為を見たところで、われわれはいまや被害者個人に対する違法行為を見る。……強盗は社会から奪ったのではない。犠牲者から奪ったのである
 そしてバーネットは、有罪を宣告された違法な行為者が損害賠償ができず、そして信用が置けないならば、この人物を雇用プロジェクトに拘束することを提案する。それによると、違法行為者は(家族が望むならば)その施設の中で家族と暮らすこともできる。雇用プロジェクトへの拘束は刑罰ではなくて、損害賠償を取りたてるための手段にすぎないからである。この人物の賃金からは居住費や食費が差し引かれて、残りは被害者と政府のものになる。というのは、この人物は自分の逮捕や裁判の費用も負担しなければならないからである。違法な行為者が解放されるのは、自分のもたらした損害をすべて賠償してからである。損害賠償の額は、現実の損害と費用に厳格に限られる。意図とか道徳的性格とかいった、行為者の内面に関する要素は無関係である。(むろん被害者は現実の損害以下の賠償や金銭賠償以外の賠償方法に同意することもできる。結局損害賠償請求権は被害者に属しているのである。)
(前掲「リバタリアニズムの刑罰理論」、437〜438頁、強調は原文、一部括弧内を省略)


このバーネットの構想には、様々な問題があるのだが、基本線としては魅力的であると思う。バーネットや森村は多分賛成しないだろうが、私としては、損害賠償と「セーフティネット」を組み合わせることで、対象としての合理的人間像の想定と、構図としての国家対加害者の想定という、刑法の二大欠陥を埋め合わせることができるのではないかと考えている。具体的にどう組み合わせるのか、「セーフティネット」が上述のように教育や職業訓練だけをその内容とするのかなどは、まだ明瞭でない。無責任なことを言えば、他の人が考えて下さると嬉しい。


ただし、犯罪被害者の救済と加害者の更生・社会復帰にはこれだけでは十分とは言えない。さらに、修復的司法の助けも必要とするだろう。修復的司法について詳述する余裕も知識も無いが、とりあえず以下を参照して欲しい。


 修復的司法は、応報的司法の対抗軸として登場しました。すなわち、応報的司法は、犯罪を、刑罰法規の違反と把握し、刑事司法を、国と加害者との勝ち負けにおいて刑罰を決定するシステムであるのに対して、修復的司法は、犯罪を、人々およびその関係の侵害と把握し、被害者、加害者、地域社会が関与して、それぞれの修復・回復をめざすシステムを探求するものです。(中略)


 修復的司法は、被害者・加害者・地域社会の3者によって犯罪を解決するのが純粋型といえますが、「犯罪によって生じた害を修復することによって司法の実現を目指す一切の活動である」と広く解することができると思います。したがって、被害者の支援、加害者の援助、地域社会の再生なども、修復的司法の考え方に基づくものです。
http://www.asahi.com/ad/clients/waseda/opinion/opinion116.html


最後に刑罰観について触れておこう。バーネットは、損害賠償一元化論を唱えることで、応報刑と抑止刑を退けた。応報刑観については、私は積極的にこれを採用する動機が得られない。単純に非生産的であると思う。捜査・訴追・拘禁コストまで犯罪行為者に課す損害賠償一元化論では、指摘されるほど犯罪コストは小さくない気がするので、特に抑止刑を付加しなくてもそれなりに犯罪抑止効果はあると考える。また、「セーフティネット」が有効に機能して、再犯率を低下させることができれば、結果として抑止効果を持ち得るとも思う。


そして、残る問題は、この「セーフティネット」構想が持つ教育刑観である。森村は、個人の内心にできるだけ立ち入らないリバタリアニズムは、教育刑と調和しないと言う。「セーフティネット」は確かに、ある程度個人の内面への介入かもしれない。しかし、無理やり人格を矯正するわけではなく、被害者との接触や地域社会との交流を通して再教育を図るものである。教育が規律訓練権力の行使であり、一種の内心介入であることを否定しないが、だからといってそれが要らなくなるわけではない。精神病者知的障害者などの取り扱いについては、また微妙に別種の問題をはらむが、基本的には、教育刑であることが「セーフティネット」構想を完全に捨てるべき理由にはならないだろう。


刑法三九条は削除せよ!是か非か (新書y)

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人間の尊厳と現代法理論―ホセ・ヨンパルト教授古稀祝賀

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TB


司法論ノート―利害関係者司法に向けて http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20070115/p1