自由主義と非人格的権力


2005/12/12(月) 17:57:57 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-178.html

シェルドン・S.ウォーリンによれば、自由主義者達は、その思想の帰結として、非人格的権力の支配を承認する。自由主義が個人を擁護してきたのは、何らかの人格的権力からであって、非人格的・匿名的な社会集団による統制は否定されない。なぜなら、その集団の代表は、自分達の代表であって、その行為は自分達の行為に等しいからである。個々の意思と集団の意思とが符合するとされれば、集団の非人格的な権力行使は、正当化される。


ハンス・ケルゼンは、非人格的権力の肯定を、自由主義ではなくデモクラシーから導き出している。彼によれば、自由概念が転化することで、民主主義が自由主義的理想から解放された結果として、国家権力が肥大化する。ケルゼンの自由主義の捉え方は、ウォーリンのそれとは差異があるかもしれないが、非人格的権力が承認されてくる過程の描き方は、大筋として違わない。


 自由要求の出発点を形成する各個人の意思と、個人に対し他人の意思として対立する国家秩序との間の、避けることのできない相違に直面して、この相違が近似的には最小限度に低減せられたデモクラシーにおいてすら、政治的自由の観念においてはさらに一段の転化が行われる。本質的には不可能な個人の自由は次第に背後に立ち去り、社会的集団の自由が前景にあらわれてくる。自分と同輩のものの支配に対する抗議は、政治的意識において――デモクラシーでも不可避な――支配の主体を推し出してくる。すなわち、匿名の国家人格を構成する。外からみえる人間からではなく、この匿名の人格から、最高権を発せしめる。秘密に満ちた全体意思と、全く神秘的な全体人格とが、各個人の意思と人格から解放せられる。(中略)民主政治においては、国家そのものが支配の主体としてあらわれる。ここに国家人格というベールが、人が人を支配するという民主主義的感情にとってたえがたい事実を隠蔽する。(中略)
 自分と同輩のものが支配する、という観念が一たん除かれると、個人は国家秩序に服従しなければならぬ間は自由ではない、という認識にもはや閉じこもる必要はない。支配の主体の推移とともにまさしく自由の主体も推移する。個人が他の個人と有機的に結合して国家秩序を創造する限りは、まさにこの結合の中において、そしてこの中においてのみ「自由」であるということをますます力強く主張するようになる。
『デモクラシーの本質と価値』、41〜42頁、傍点は省略)


ケルゼンによれば、自由思想は次第にその意義を転化させていく。その転化過程は、アイザイア・バーリンが言うところの「消極的自由」から「積極的自由」への発展過程に等しい。そして、引用部に続く部分で、この転化過程の最終段階においては、「国民はその総括である国家においてのみ自由であるから、必ずしも個々の国民ではなく、国家の人格が自由であるということを要求する」ことになると述べられる。ここに至っては、もはや個人の自由は問題とはされない。まさしくバーリンが懸念した積極的自由の危険性を示してはいないだろうか。ケルゼンによれば、「デモクラシーに関して最も才能ある著述家」は、国家が個人に「自由であることを強制する」ことに、少しも尻込みしなかったのである。この著述家とは、疑いもなくJ.J.ルソーのことである。


さて、自由主義がその発展の帰結として個人の自由を放棄する地点まで到達することは、それ自体興味深い事実だが、今回注目したい点は別にある。重要なのは、人格的権力の支配を嫌う人々も、非人格的権力の支配にはそれ程抵抗を覚えないことである。もちろん、上述の場合には、非人格的権力の権源が自らに由来しているという認識が鍵になっている。また、その権力の支配が、多大な便益をもたらしてくれるかどうかも重要なポイントであろう。しかし、こうした条件を満たしていなくとも、私達は非人格的権力に抵抗を覚えることが少ない。


私達は、人の支配には抵抗したくなるが、人ならぬ者の支配には素直に従う。何故だろうか。「そういうものだ」と思うからだろう。環境管理型権力とは、「そういうものだ」と思わせて統制をかけるものだ。今では有名になったが、マクドナルドの椅子が固いことも、予備知識が無ければ「そういうものだ」と思っていただろう。あるいは、自然の制約や災害も非人格的権力には違いない。自然による暴力に、人間による暴力と同様の反感を覚える人は、あまりいない。


人格的権力に抵抗感を覚えるのは、そこに他人の恣意や悪意、利己心が透けて見えるからである。国家その他の集団の支配は非人格的権力であると言われても抵抗感が拭いきれないのは、一見は非人格的な存在にも、至る所に人格的意思が見え隠れしているからであろう。何も知らなければ「そういうものだ」と思っていた環境管理型権力も、一旦露見して人の作為が感じられれば、何だかいい気持ちはしなくなってくることが多い。非人格的だと感じられたものが、人格的権力であることが分かった時点で、抵抗感の芽が生じてくる。


非人格的権力が「そういうものだ」とすれば、国家その他の集団の権力とは、厳密に言えば非人格的権力ではないことになる。それは、あくまでも集合人格的とでも呼ぶべき権力であり、非人格的・匿名的とするのは擬制であろう。


それにもかかわらず、民主的プロセスに基礎を持つか多大な便益をもたらす限り、集団人格的権力の支配は承認される。ビッグブラザーの支配は承認可能である。ビッグブラザーの支配に本気で抵抗したければ、自由主義やデモクラシーとは別の原理が必要にならざるを得ないように思える。もちろん、そもそも抵抗する必要があるかどうかが、第一の問題になるが。


まとまらず支離滅裂だが、これ以上書けなさそうなので、ここで終わっておく。


西欧政治思想史―政治とヴィジョン

西欧政治思想史―政治とヴィジョン

デモクラシーの本質と価値 (岩波文庫)

デモクラシーの本質と価値 (岩波文庫)