私は私の文章から疎外されている


2005/12/15(木) 13:27:49 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-182.html

私が書いた文章は、私から疎外している。文章は私から疎外されているし、私は文章から疎外されている。両者はそれぞれ独立して相対する。


私が書いた文章は、私から生まれたものだ。


私は、文章を書くにあたって、頭の中に浮かんでいるいくつかのアイディアや言い回しを整理しながら、序列づけ、結びつけて、文章に編み込む。使えるだろうと意識的/無意識的に想定していたアイディアや言い回しは、決定稿からはしばしば除外されている。使われなかったアイディアや言い回しは、未発の可能性に留まる。


できあがった決定稿は、私のその時点での考えの結晶として姿を現す。決定稿が一度立ち上がると、次第に私は、その姿を通して自分自身の考えをたどり、思い返し、整理するようになる。決定稿の中には、同じ時点に存在したはずの未発の可能性としてのアイディアなどは、含まれていない。もちろん、私は執筆当時の自分の考えを思い返すことができるが、現前する文章とその背後にあったはずのアイディアとでは、私に訴えかける力の差があまりに大きい。


さまざまな未発の可能性にもかかわらず、決定稿は私の考えを規定するようになるだろう。それは、私から生まれたものであり、私が考えていたはずのこと、私が考えているはずのことであるから。多かれ少なかれ、私は私から生まれた文章によって、自らの考えを狭められ、色づけられることがある。


私が書いた文章は、私から生まれたものだ。それにもかかわらず、文章は私を規定するようになる。文章は、私とは異なる独立した存在だ。


私が書いた文章に対して、最も大きい利害関係を負っているのは、ほとんどの場合私だ。したがって、私の文章に対する責任は私が負うだろう、と私以外の人が期待することは、非合理な振舞いではない。非合理な振舞いではないがしかし、その期待は必ず叶えられるべき期待ではない。私と私の文章とは異なる存在であり、私もまた私の文章に脅かされるのであるから。


もちろん、私は私の文章に対して全く無力であるわけではない。私は文章を訂正することができるし、放棄することもできる。したがって、私と私の文章との関係を、あまりニヒリスティックに捉える必要もない。ただし、私が私の文章に対して無力ではないからといって、私が私の文章に規定されるという事実がなくなるわけでもない。楽観にも悲観にも陥らない、注意深い思慮が不可欠なのである。


以上、私と私が書いた文章との関係について述べてきた。私は、上記の見解を、民主政における有権者と政府との関係に応用することができる。民主政の場合は、文章の場合と比べて、より単純な側面もより複雑な側面も発見できることだろう。例えば、文章の場合と異なり、私と政府の関係は一対一の関係ではない。この事実は、より複雑な側面を意味していると言える。


さて、有権者と政府との関係を、楽観にも悲観にも陥らない注意深い思慮を以て考察すると、いかなる結論が得られるのであろうか。非常に興味深いテーマである。