平和主義との訣別


2006/03/20(月) 21:22:08 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-200.html

私の今の研究課題は、エゴイズムと利害関係理論の構築である。大学に入学した頃は、こんな研究をするとは考えもしなかったし、そもそも大学院にまで進むと予想もしなかった。思えば、ここまで到達するのには、そこそこの変遷があった。


学問とは程遠い中高生の頃から、私の関心はずっと平和の問題、暴力と生死の問題に注がれてきたように思う。個人主義的な思考傾向は、一貫してあった。私にとって許し難い暴力の主体は国家、軍隊を持って国内外で暴れる国家であり、内部の多様性に対応しきれない国家であった。私の頭の中にあった図式は常に、国家対個人だった。かつてグローバリゼーションや「ガヴァナンス」論に飛びついたのも、国家を相対化する議論に魅力を感じてのことだと思う。やがて暴力の絶対的な主体としての国家を拒否する思想こそ、すなわちアナーキズムこそ自分に相応しかったのではないか、と考えるようになって多少足を突っ込んではみたが、結局それも違うと気づいた。それは、暴力という問題に対して、より自覚的になった、視野を広げた、ということだったのだろう。基本的に国家だけを問題とする思想ではダメだと、考えるようになった。そのとき私は狭義のアナーキズムを捨てたのである。


「狭義のアナーキズム」とは何か。私は、様々な違いはあれ、国家の廃絶を目指す思想がそれだと考えている。これに対して、「広義のアナーキズム」とは、名の原義通り「無・支配主義」=「無・権力主義」であって、権力の廃絶を目指す思想のことであると考える。私は、自分は狭義のアナーキズムは捨てたけれど、広義のそれにはまだコミットしていると考えていたが、ある時期からはそれも違うと思っているので、この際に、そのあたりをはっきり書いておきたい。


ところで、アナーキズムと似ているものがある。それは、平和主義である。平和主義はふつう、平和を愛好する思想、といったふうに緩く使われているが、厳密に考えれば違うはずだ。学者などは、それを絶対平和主義と相対平和主義の二つに分ける。前者は、戦争や軍隊の保持をいかなる条件においても許容せず、その廃絶を目指す思想であり、後者は、戦争や軍隊の保持という選択肢を排除しないが、それに制限をかけようとするものである。私が思うに、後者は平和主義の名に値しない。国家の廃絶を目指さないが、それに制限をかけようとする思想を「相対アナーキズム」とは言わないだろう。したがって、絶対平和主義が平和主義に等しいと理解してよい。


さらに平和主義の定義について考えてみよう。ふつう言う「平和」とは戦争が無い状態としての「平和」である。したがって、この定義に基づく「平和主義」は、戦争とその手段および原因になり得る軍隊の廃絶を目指す。しかし、ヨハン・ガルトゥングはそうした従来の「平和」概念は「消極的平和」であるとして、戦争に限らない暴力の欠如=「積極的平和」こそが真の目標であると説く。このように暴力の欠如が「平和」であると定義し直すと、「平和主義」の意味自体も変わる。ガルトゥングによれば、平和を妨げているのは戦争などの「直接的暴力」だけでなく、あらゆる不自由や不平等を生み出すような体制、状況を含む「構造的暴力」もまた、平和に対立する暴力の一種である。ガルトゥングの理論には、「平和」の意味範囲を無際限に広げすぎるなどの批判もあるが、とにかくもこうした考え方があることを視野に入れると、平和主義にも二種類あることがわかる。すなわち、戦争および軍隊の廃絶を目指す「狭義の平和主義」と、構造的暴力も含んだ暴力すべての廃絶を目指す「広義の平和主義」である。そして、後者は広義のアナーキズムと重なることがわかるだろう。


さて、では私はアナーキズムと平和主義をそれぞれ二種類に分けて、何を言おうとしているのか。それはとても単純なことで、今や私はアナーキストでないように、平和主義者でもない、と言いたいだけだ。そのためにあらかじめ、広義の平和主義=広義のアナーキズム=無・権力主義という等式を置いておきたいと思う。私は既に狭義のアナーキズムの放棄については何度か語っているので、狭義の平和主義と無・権力主義の放棄について語ればいいことになる。そのために、さらに迂回をしよう。次なる論点は、理想を語るか現実を語るか、である。


ものを考えるのに、クールでドライな現実認識を基礎にするのは当然であり、最低限の条件の一つだ。しかし、それと理想を語ることは両立する。全き理想を提示し語ることによって、目的意識が明確になるとともに、現実との距離が実感され、その距離をいかにして詰めるかというプロセス論へ駆り立てられる。だから、理想を語ること、理想を掲げることは、現実的にも十分意味がある。そう、私は考えてきた。理想を最初から排除することは、安易な諦観に陥りやすいし、目的意識が希薄になりやすい。だから、理想を語らなければならない、と。


しかし、自らを振り返って考えてみると、ある時期から考えが変わってきているようだ。現在の私は、むしろ安易に理想を語ることに批判的であるようだ。その理由には、理想を語ることのデメリット、ユートピアを指し示すことによって陥りやすくなる陥穽の方が、大きな存在として目に入るようになった、ということがある。端的に言って不可能か、それに限りなく近い理想を語ること自体が、クールな現実認識を曇らせやすい、という典型的な理想主義批判が一つ。次に、理想として掲げられるユートピア自体が、欺瞞を含んだ擬似ユートピアである危険性が高く、仮にそれが実現されても理想の実現とは言い難い、という点。三つ目に、掲げられ語られる「理想」自体が恣意的に設定されることの避けられなさ、という点がある。


一つ目の点は説明不要だろう。もっとも、理想を語らずとも現実認識が曇る危険性は常に誰にでも有り得るので、この点はあまり重要でない。二点目については、狭義の平和主義と絡めて述べよう。狭義の平和主義にとって、戦争と軍隊の廃絶された世界が理想でありユートピアである。しかし、実際には軍隊が廃絶されたからといって、真に問題であるはずの暴力が廃絶されるわけではない。軍隊の廃絶された世界でも法が存在し、警察が存在するだろう。軍隊が無い代わりに、超強力な警察と国境警備隊が整備されるとすれば、狭義の平和主義の意味はよくわからない。この点は、国家の廃絶にばかり気を払って、非国家的アクターの暴力を軽視するアナーキズムと共通する問題である。


戦争を本当に無くそうと思ったら世界政府をつくる必要があるが、その際、世界警察は非常に強力な暴力を保持しなければならないだろう。それは、狭義の平和を守るために必要とされる暴力だ。別に世界政府でなくとも、国連の集団安全保障体制がこの暴力に対応する。戦争を無くそうとするのが、人死にを、暴力を無くそうという目的に基づいているとすれば、戦争が無くなりさえすればユートピアの実現だと言うのは、他の暴力を無視した欺瞞でしかない。軍隊の廃絶ばかりにこだわるのは、フェティシズムでしかない。狭義の平和主義が目指す理想は、きわめて限定的な暴力撤廃でしかなく、とても真の理想と言えるものではない。このように私は考えて、狭義の平和主義にコミットしないし、理想語りへの懐疑もつのらせる。掲げられているユートピアは、本当に理想的なものだろうか、と。


三点目に移ろう。「理想」の恣意的設定の避けられなさとは、それが誰にとっての「理想」であり、どこまでの範囲に及んで、どの程度の水準を目指すものなのか、ということが暗黙の内に、誰かによって恣意的に定められることが避け難い、ということである。例えば、暴力の廃絶を理想に掲げるとしよう(と言うより、真に「理想」に掲げ得る理念は暴力の廃絶以外にないと私は思う)。しかし、暴力廃絶すべし、との規範的命令の範囲はどこまでか。多くの人々は、暗黙の内にそれを人間相互に限定してしまうが、その根拠はよくわからない。なぜ他の動物への、植物への、その他の物質への暴力行使は許されるのか。また、「暴力」とはどこまでを指すのか。物理的暴力だけを指すとすれば、あまりにも狭い。身体だけでなく、その内面にまで干渉・介入してくる行為は、紛れもなく暴力的であろう。しかし、そうすると私達は暴力から逃れられなくなる。教育も暴力的であるし、会話自体も暴力的であるし、現代思想の水準からすると、そもそも私達が必ずその内部に生まれてくる言語そのものが、他者を代替可能な次元に還元してしまうという意味で常に暴力的なのである。


こんなことを言ってしまうと身も蓋もないと反発する向きもあるだろうが、間違いなく私達は暴力の内部で生まれ育ち、その外部には出られないのである。ここにおいて「暴力の廃絶」という「理想」が、どういう状況を指しているのか、私は想像もできない。それにもかかわらず、私達が何らかの「理想」として「暴力の廃絶」を設定できるということは、極めて恣意的にその意味範囲と目標程度を限定している、ということを意味する。そして、そうであるとすれば、その限定、「理想」「暴力」「廃絶」の定義という行為こそが、紛れもなく暴力的ではなかろうか。少なくとも、限定された目標範囲から外された存在にとってはそうであろう。残念なことに、「暴力の廃絶」という理想を掲げること自体が、何処かの誰か/何かに対しての暴力行使に違いないのである


そうであるとすれば、私にはもはや、最初に「理想」を設定するアプローチはとれない。何らかの遠い目標を置くこと自体を批判しているのではない。「全き理想」というものを設定することが不可能である、と言っているのだ。「全き理想」(とは「暴力の廃絶」以外有り得ないが)のつもりで設定したものでも必ず既に何かの限定=暴力を含んでいる、という事実をひとたび認識した上で仮に何らかの「理想」(目標)を設定しようとすれば、その基礎に暴力行使があることを引き受けざるを得ない。すると、「理想」の前には必ず、かき消せない暴力という現実認識が先行することとなり、理想先行型アプローチはとろうとしてもとれないことになる。したがって、私は安易な理想語りを批判する。「全き理想」=「暴力の廃絶」を語ることが不可能である限り、厳密な意味での「理想」「ユートピア」は想定することもできず、限定的な意味での「理想」しか語ることができない以上、そこには暴力の引き受けという現実認識が先行せざるを得ない。この現実認識を持たない理想語りは、ナイーブであるか欺瞞であるかのどちらかである。理想を語るためには、現実の引き受けが必要不可欠なのだ


さて、狭義の平和主義は既に批判した。同時に、暴力から逃れられないと述べ、全き理想としての暴力の廃絶は想像もできないと述べたことで、無・権力主義への私の立場も既に明らかであるように思う。広義のアナーキズムにせよ、広義の平和主義にせよ、無・権力主義は権力=暴力の廃絶を目指す。しかし、想像もできないものを、どうして目指すことができようか。暴力の廃絶は、端的に不可能である。不可能なものへのコミットを選び取る人もいるだろうが、私はそうではない。私は、可能な現実の中でよりよく生きたいのだ。


暴力は無くならない。その現実の中でよりよく生きたい。私は、国家や法、軍隊や警察、戦争や裁判を、それが暴力だという理由で厳しく批判するし、いかなる理由によっても決して正当化しない。しかし、私は自分がよりよく生きるために、これらの暴力を利用する。これらの暴力を自らの「力」として、自らの利益の保護・拡大のために役立てる。したがって、私はこうした暴力を決して正当化しないし、反吐が出るほど汚らしい存在だと思うが、全否定はしない。それが、自分にとって役に立つからだ。


もちろん、仮に国家や軍隊が私の役に立たないとしても、現実にこれらの暴力に対抗できるだけの力を持たなければ、それを廃絶することはできない。国家は単なる抽象物ではなく、実力を持った抽象物であるから。しかし、そうであるがゆえに、先人達は国家をできるだけ抑制しコントロールして、自分達の役に立つようにしようと努力してきたのである。そのおかげで、私にとって国家は、ただ自分を抑圧する力ではなく、自分が多少なりとも利用することができる力として現れるようになったのである。暴力が無くならない以上、私達にできることは、それに制約と改善を加え、自らの利益に資するよう再編成することである自分はどうしたいのかどのように暴力を用い、どのように暴力を制限したいのかそうした意志と行動を示すことだけが、私達に可能な全てだ


私は平和主義にコミットしない、それを放棄する、と言うことで勘違いする向きもあるかもしれない。念の為に言っておくと、私はいかなる戦争も正当だと思わないし、反対である。日本国憲法第九条を改正する必要は感じないし、個人的には自衛隊が無くなっても構わない。だけれども、だ。繰り返しになるが、戦争だけを特別扱いすることはできない。私が無関心や不作為によって近くの人々、遠くの人々を間接的に殺すことと、戦争による大量殺人は、本質的には何も違わない。数の問題は、全体として見れば重要でないことはないが、殺される本人にしてみれば全く重要でない。それに、生命は奪わない程の暴力が生命を奪う暴力と比べて「きれい」である、ということもない。暴力は暴力だ。私は暴力を振るって生きている。そのことを決して忘れたくないし、ごまかしたくない。だから無・権力や暴力の廃絶という不可能な「理想」を掲げることも目指すことも、できない。平和主義者を名乗る以上は、こうした全き理想を真に目指していなければ何の意味もないと思うから、私は平和主義にはコミットしないと言うのだ。私が掲げるのはエゴイズム以外に要らないし、名乗るのはエゴイストで十分なのである。


最後に、平和に関する過去のエントリを挙げておく。今とは考えの違う点もいくつかあるが、基本軸としてはさほど変わっていないようにも思う。


核抑止システムの虚構性
森達也とか外交とか
安心担保装置としての九条
それは絶対平和主義だけの問題なのか
軍隊への幻想あるいはリアリズムをめぐって
失敗、責任、反省、改良


でも、やはり違うかな。いや、変化を強調するのも一貫性を強調するのも適切でない気がする。3、4年前の私なら、このエントリをどのような思いで読むのだろうか。


それから、私はあくまでも手前勝手な定義によって、手前勝手にismを取捨選択しているので、私の定義が不当だと考える人々も多数いるだろう(特に「支配」を「権力」にすり替えたあたり―アナーキズムの原義については、参照>田中ひかる「反グローバル化運動におけるアナーキズム」『現代思想』第32巻第6号、2004年5月)。アナーキズムや平和主義について詳しくない方も、この定義はちょっと違うのではないか、と思ったかもしれない。そういう方は、アナーキズムに関してなら例えば、田中ひかるさんが運営されているページの「参考資料」や、「アナキズムFAQ」などにあたるとよいだろう。私とは違う定義の可能性のヒントになるかもしれない。平和主義の定義はあまり見ないのだが…、まぁ平和学の文献でもあたっていただきたい。


構造的暴力と平和 (中央大学現代政治学双書)

構造的暴力と平和 (中央大学現代政治学双書)

コメント

ちょっと圧倒されちゃいました。
たまたま目を通していた,おおや先生の論考にも通ずるのかなと,なんとなく思ったのでした。


大屋雄裕「他者は我々の暴力的な配慮によって存在する:自由・主体・他者 をめぐる問題系」 - 別冊「本」『RATIO 01』講談社


今後の展開に期待しとります。


p.s.どうやら出身高校同じようで。ガッコで顔合わせてたのかもしれませんね。どうでもいいですが。
2006/03/21(火) 20:00:47 | URL | rory #dXngx1UA [ 編集]


roryさん、どうも。大屋さんの論考は私も興味深く読みました。まぁ、大屋さんの取り組んでいる問題系を把握するには私あまりにも勉強不足なのですが、結構通じるとは思います。


高校の件、顔合わせはわかりませんが、どっちにせよ私が2、3年下ですよね。rory先輩、一つこれからもよろしくお願いします。
2006/03/22(水) 16:47:39 | URL | きはむ #- [ 編集]

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平和論ノート(1)平和を諦める http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20070117/p1