闘争・想像力・事実性


2006/03/22(水) 18:12:13 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-195.html

少々昔の議論を蒸し返すようで申し訳ないが、以下の引用部に触発されて考えたことについてまとめておきたい。


 ある人の生存を無条件に認めないならば、誰の生存も無条件に認められたものではありえない。Aがなければ生きられない人α氏がいる。Aを行うかどうかが「財政的に可能かどうか」という条件が付される場合、α氏の生は条件を付されたのである。生きていてよいかどうか、誰かが勝手に決めてもよい存在とされたのである。


 このことが意味することは、次のどちらかである。(1)このような社会に住む誰がα氏のように扱われても構わないことを認めている。あるいは、(2)このような社会が標榜する「正義」は、普遍化可能性を満たしていない。(2)はあまりに馬鹿げている。とすれば(1)である。このような社会においては、誰であれ、α氏の位置に代入される可能性がある。生きているという最低限のことさえ、当然の権利ではないのだから、誰が誰から何を奪うとしても、それを禁止するはずの正義はそこにはない。それは、生きるための(あるいはそれとは関係のない)暴力を社会に呼び込むのと同じである。


留保のない生を肯定するか、さもなければモジモジ君の日記。みたいな。


 財政云々をまず第一の論点にすることは、「何はともあれ先立つもの」に目を向ける現実主義を装うことが多いが、実のところ、中身は単なる不誠実である。本当に財源が足りないのであれば、「障害者福祉は切り捨てる。そうしなければ我々は生き残れないからだ」と堂々と主張すればいい。そして、その上で、「障害者がどんな暴力を振るおうとも、我々は全力で迎え撃つ」とだけ言えばいいのだ。この障害者のところに、何を代入してもよい。とにかく、その生を保障することなく放逐するのであれば、互いの生存をかけた根源的な対立状況にあることを、率直に認めればいい。


いつかどこかで見たような手口モジモジ君の日記。みたいな。


現実はそれ程単純には割り切れず、人はそれ程正直にはなってくれない。人は、自らの命が脅かされかねないような極限的対立状況でなくとも他人を見捨てるだろう。例えば、稀有な正直者はこう言うかもしれない。別に「彼」を乗せても船は沈まないけど、狭くなるから乗せたくない、と。人は、「彼」は切り捨てないと生き残れないような極限的対立状況になくても、往々にして「彼」を切り捨ててしまう。それはもちろん、自分達の(生存ではなく)生活や快のために。


ここでは、それこそ「道徳的には<何でもあり>」の闘争状態にある。「私」は自らの生活のために、「彼」の生存を脅かすからだ。生存レベルの対立状況などには位置していないのだから、対立状況下にあることの論証など無理だ。しかし、ここでの「私」は、「彼」が生きる価値や権利を持たないとは必ずしも思っていないだろう。助けられるものなら助けてやりたいと思うだろう(実際助けられる――自らの生活への多少の影響を許容できさえすれば)。「私」は自分と「彼」が観念的・抽象的には何ら異なる立場にないことを知っている。自分がいつかどこかで今の「彼」と同じ立場になるかもしれないことも知っている。しかし同時に、現実的・具体的には両者が決定的に違うことも知っている。ここに横たわっているのは、私達がどこまでも事実性に立脚して生きているがゆえに築かれる障壁である。


ここで言う事実性とは、「私」と「彼」が今現在異なる立場に立っている異なる存在であるという端的な事実を指す。確かに論理的には「私」と「彼」は入れ替え可能であるが、事実は違う。現実を生きる人々はあくまで事実性の上に立って物事を判断するので、自らの生活のためには非対立状況下での暴力行使をも排除しない。「私」の生活のために「彼」の生存を脅かす。人々は倫理的である前に政治的である。この議論が示す本質は、非対立状況下での暴力行使が「生き残るための「万人の万人に対する闘争」の扉を開いた」どころの問題ではない。重要なのは、私達が常に「より快適に生きるための「万人の万人に対する闘争」」を行っている、という認識である。


それ自体政治的に動かされている国家や法の存在が闘争状態を無くすわけがない。様々な法や正義は闘争状態を見えにくく、複雑に、あるいはマイルドに、小規模にすることはできても、無にすることはできない。なぜなら私達は「われわれの共同体」にどこかで境界線を引く(という暴力を行使する)のだから。法や正義自体が闘争の担い手であり、拳を振り上げているのだから。今回の議論に限らず、私達は闘争状態の外には出られない、という前提が広く共有される必要がある。その上で、各自が闘争状態をお好みの枠組みと形状に管理・抑制する努力を行えばよいだろう。各自が信じる「正義」(という恣意)を実現に近づけるために、各自の「闘争」に尽力すればよいだろう。


ついでながら、稲葉さんが提出する処方箋に対して、それが、立場可換性の想定(「このような社会においては、誰であれ、α氏の位置に代入される可能性がある」)を事実性が阻害してしまうというアポリアに行き着きうる危険性を提起しておきたい。「道徳的には<何でもあり>」であるような「極限状況をできるだけ予防し回避」するよう努めるべし、という稲葉的指針はさしあたって支持可能なものである。ただ、ぶつけておきたいのは、そのような「プラクティカル」な戦略の遂行こそが「幸福」という事実性の土台を広範に構築するがゆえに、結果的に立場可換への想像力を働かせるのが困難な環境を生んでしまうのではないか、という疑問である。安易な例を出すと、経済成長によってそれなりの生活水準を維持可能な層が分厚くなってくると、一貫して存在する(そしていつ自分もそうなるか分からない)低所得層には盲目になりやすくなりそうだ。一般に、「幸福」という事実は「不幸」への反実仮想を困難にするものであろうから。 それとも、この疑問そのものが安易な思い付きだろうか。


さておき、ここからは元の文脈から少し離れて、さらに事実性について考察を深めてみたい。大澤真幸は、個人の偶有性と単独性が相補的関係にあると指摘している。私は私でしかない。しかし、同時に私は誰のようでも有り得た。それにもかかわらず私は私である。私は偶然である、が、事実である。代替可能で必然性を持たない、存在の偶有性こそが、それにもかかわらず事実である自己の単独性を強く意識させる。他面、唯一単独である自己の存在が偶然的なものでしかないという認識は、私と交換可能な他者への想像力を醸成する(東浩紀大澤真幸自由を考える』、NHKブックス、2003年、75−77頁)。


私は、卒業論文で、上野千鶴子らの「当事者主権」論を批判した(中西正司・上野千鶴子『当事者主権』、岩波書店、2003年)。その批判は、「当事者」という語が「部外者」という語を意識させるために二元論をもたらしやすく、「主権」という語が強い排他的性格を持つがゆえに、「部外者」とされた人々が決定的に排除されてしまいかねない、というものだった。


「当事者主権」という発想の基礎にあるのは、近代的な自己決定論であり、それを支える権利概念である。「当事者」には権利(主権)があり、「部外者」には権利がない。権利という概念は、権力という実在する事実性ではなく、規範的な妥当性を指し示す観念である。事実的な権力を持たない者にも分与されるべきであると考えられる、間接的な権力である。分与される「べき」妥当性である以上、それは事実性に屈してはならない。ある権利を認められた存在すべてに、この間接的権力の分与が必要な時に行き渡らなければならない。規範的妥当性である権利の意義は、立場可換性と強く結びついている。なぜなら権利は、事実的状況にかかわらず、認められた条件において常に期待し要請することができる権力であり、偶有的な現実に対応してくれるからである。私は今現在事実として「幸福」だが、いつ「不幸」になるともしれない。事実としての権力は状況が変わって失われれば終わりである。しかし、規範としての権利は残る。たとえ「不幸」になったとしても権利は助けてくれる。ゆえに安心して生活を送ることができる。ここにはすでに想像力が働いている。「幸福」な私と「不幸」な私とはいつでも交換可能だが、その際「不幸」でも最低限の生活はできるようにしたい。このような想像的な立場可換を用いて規範的妥当性である権利を認めさせようとするのが、J.ロールズ『正義論』のモチーフであった。ロールズに限らず、権利の概念が依拠しているのは立場可換性であり、想像力である。当事者主権に戻れば、当事者に主権を要求することによって、いつ当事者になっても安心できるようにしたい、と考えられている。当事者主権論の説得力は、私も当事者であったかもしれない、当事者になるかもしれない、という想像力に依存している。


ところが、前半で指摘したように、人々はすぐに想像力を減衰させる。それを失いはしないまでも、大きくせり出した事実性の方へもたれかかりやすい。事実性がかなり強く認識されていると想像力はうまく働かないし、しばしば事実性への居直りが偶有性を乗り越えてしまう。ここで「大きな物語」の喪失(に加えて「虚構としての大きな物語」の喪失)を想起してもよい。理想としても虚構としても「大きな物語」が失われたあとでは、リアリスティックな、あるいはニヒリスティックな、あるいはシニカルな事実認識が主流を成す。社会契約説的な国家擁護や普遍的人権というロジックは、あくまで虚構に過ぎないと看破されてはいるものの、さしあたっての必要性からその存続と正統性僭称を許されている。しかし前述の「闘争状態」が現実である以上、権利という虚構の地位もきわめて不安定である。ここに至って、すなわち偶有性の認識が事実性の肥大に脅かされ、立場可換性への想像力が減衰していく状況で、私達は如何なる方針を打ち出すべきなのだろうか。


想像力がうまく働かない状況で当事者主権を叫んでも、あまり意義はない。私も当事者であったかもしれない、当事者になるかもしれない、という立場可換を想定できないからだ。それは、当事者としての自己認識がある人々の動員と結束には役立つかもしれないが、対外的には二項対立状況を尖鋭化させるだけだろう(それが狙いかもしれないが)。このことは権利概念一般についてあてはまる。「大きな物語」を想像できない人々は、普遍的な人権を想像できない。あるのは事実的な生か死か、快適な生活か悲惨な生活か、それだけだ。このような状況下にあっても、権利というフィクションが全く無益なものになると言うつもりはない。それは、十分ではないにせよ、依然として広範かつ強力な効力を持って機能するだろう。しかし、状況に対応するためには、従来の権利概念を再強調するだけでは不十分である。想像力が働かない状況で保持される権利は、もはや単なる不当な既得権益としか見なされなくなる。権利は、その外に位置する人々、「当事者」の外に位置する「部外者」たちにとって、実態以上に暴力的なものとして見えてくるのである。


想像力の減衰という危機状況は、「島宇宙化」によって社会の共通前提が失われ、「動物化」によって一般認識への志向性や人間的反省能力が失われた、と叫ばれる分析に対応している。人々は細分化され、即自的になり、社会一般や普遍性への想像力を放棄して、事実性の上に胡坐をかいて居直るようになった。元来、豊かな想像力が保持されているということ自体が、単なる事実でしかなかった。想像力が保持されている事実があれば理想的である。しかし、残念ながら、現在は事実性が全面化しつつあり、想像力は減殺されていくばかりだ。


私は、率直に言って、事実性が偶有性を乗り越えがちな時流を押し戻すことは難しいと考える。そして、時計の針を無理に戻そうとするやり方は、望ましくないと感じている。現下の状況において、安易な想像力回復論者たちが繰り返す「動物」たちへの強迫的言説に対して、私は批判的である。彼らは「想像せよ」と言う。しかし、その諭しは無駄で有害だ。「動物」と呼ばれる人々も、実は想像ぐらいできる。その程度には未だ彼らは「人間」的だ。だけれども、彼らは問い返す。「想像して、それでどうなるの」、「それ、私達に何かメリットあるの」。こうして開き直れる人々はまだいい。反問できるほど開き直れない「動物」たちは、自らの現実とあまりに乖離した規範的命令の前に、ただ押し黙り、苦悩し、追い詰められていくのである。それゆえに私は、想像力回復論者たちの言説が「強迫的」であり「有害だ」と言うのである。漠然とした危機感の下に若者や大衆の非「人間」性などを指弾したり啓蒙したりしようとすることは、何ら生産的ではなく、指弾者・啓蒙者側のマスターベーションでしかない。


ただ「想像せよ」と語るだけではだめだ。想像した結果、現実にどのようなフィードバックがあり、どのようなメリットが得られるのか。それを、実感的に語らなければならない。直近の事実性に呑み込まれないぐらいの実感を持たせられるよう、想像へのインセンティブを提供しなくてはならない。そして、想像へのインセンティブとは、それ自体まさに事実性であり、事実性の約束なのである。想像力に期待するにも、事実性に基づくか事実性に結び付けなければ、有効でない。では、事実性とは結局何のことなのか。露骨に言えば、先に出てきたように、それはメリットであり、実利である。美しく言葉を彩りたければ、幸せと言ってもよい。私達は、他者への想像を働かせることも、利害を、それも見えやすく遠すぎない利害を経由しなければできないのである。この事実を無視したお説教は無益な暴力でしかなく、控えられることが望まれる。


以上のような、事実から想像、想像から事実への経路を魅力的にプレゼンする(あるいは、騙し、なだめすかす?)方法は、私としては少し穏健すぎる選択肢かもしれない。そもそも、近代的な権利言説や社会契約説は利己的な個人が社会秩序を形成するための仕組みであって、そこで必要とされる想像力は当然最初から個人の利害という事実性と結びついている。つまり、上で私が言っていることは当然のことを繰り返しているだけであり、ただ想像力と事実性の距離をより近くして語れと言っているだけだ。それはそれとして必要だと思うから主張したのではあるが、あんまり根本的解決にはなっていないかもしれない(「根本的」解決を望むのが間違いだという反論は有り得るし、同意するが、ここでは言葉のあや)。そこで、もっとラディカルに、事実性のみで行こう、という方針に従うのが利害関係理論なのであるが、それはまた別の話。


自由を考える―9・11以降の現代思想 (NHKブックス)

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当事者主権 (岩波新書 新赤版 (860))

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コメント

勉強になりました。「現在は事実性が全面化しつつあり、想像力は減殺されていくばかりだ」という時代診断がどれほど妥当かは慎重な経験的検証が必要だと私は思いますが、思想の営みとして事実性のみでいこう、というのは面白いかも。


だけど、事実性のみでいかなる規範的な言明(権利とか当事者主権とか)を生み出すことができるのでしょうか?それともそういうものは望んではいけないのでしょうか?また事実性のみでは自分の望む規範的な言明が導き出せない場合には、どうしたらいいのでしょうか?最小限の想像力と最大限の事実性でガンバルべきなのでしょうか?


うーん。そうだ、卒論送って下さい!ここでいいんで>mahalakshmi@hotmail.co.jp 
2006/03/22(水) 19:31:07 | URL | dojin #- [ 編集]


>「現在は事実性が全面化しつつあり、想像力は減殺されていくばかりだ」という時代診断がどれほど妥当かは慎重な経験的検証が必要だ


dojinさん、これはまさしくその通りで、書いている段階でも多少迷った点です。「想像力は減殺されていくばかり」と断定してしまうことで、安易な若者バッシングとか大衆批判みたいな言説を力づける結果を生む危険性も無視できないでしょう。ただ、私としては当面こういった大雑把な状況認識に基づいて考えていきたいと思っています。こういった認識を適宜補完・修正してくれるような、地道な実証研究などが多く現れることを期待しつつ。


事実性についての疑問に対して、現時点で満足に答えられる自信はありませんが、とりあえず卒論はお送りします。「事実性のみ」とは言っても、想像力ゼロで可能か、というところはまだ微妙なんですよね。権利とも対立するよりは共存を考えていますし。ま、ま、課題は山積です。
2006/03/23(木) 17:14:09 | URL | きはむ #- [ 編集]


や、5月まで卒論の公開を待つ方々(いるのか?)に対してこれで終わっては不親切でしょうから、少し補足的にお答えしておきましょう。


まず、事実性というのは、幸福や経済的充足だけでなく、不幸や貧困も含みますよね。貧しいのも事実、食べ物が足りないのも事実です。


そして、規範は力です。ここで力と言うのは、規範的言明が人の「良心」や「理性」に訴えかける影響力という意味と、規範を具現化するために必要な強制力という意味、いずれも含みます。力、権力というのは、疑いもなく事実ですよね。つまり、規範もまた事実性である、と言い得るわけです。


そうであれば、<事実>金をたくさん持っている人と、<事実>飢えに苦しんでいる人がそれぞれいて、間にいる<事実>強制力を持っている人(機関)が前者から金を奪って後者に与えることは単なる事実であって、そのやり方が支持を得るかどうかもまた事実の推移に過ぎません(「事実」ばっかでご免なさい)。上でも言っているように、権利とはつまるところ権力=事実性なのです。


現在は権利という想像力を動員するタイプの規範が支配的な事実状況にありますが、その安定が揺らぐか、もしくはそもそも権利では不十分な点が多すぎると考えるのであれば、別の規範が支持を得るような事実が出現してもいいわけです。規範と想像力の結びつきは必然的ではない、とまで言えるかどうか未だわかりませんが。ともあれ、じゃあ(権利だけじゃ不満だから)利害関係という事実性に直接訴えかけることで、極力想像力に頼らないで政治的・経済的な要求や関与に「正当性」(と言ってまずければ「根拠」)を供給することはできないか。私の問題意識はこんな感じです。


そうそう、だから、ご質問二点目の「事実性のみでは自分の望む規範的な言明が導き出せない」という状況は、定義上有り得ません。現在の事実性、規範が気に入らなければ、自分の望む規範的な言明に事実としての支持と力がつくように、しこしこ努力すればいいだけです。


うーん、喋り過ぎかな…。よし、利害関係のもっと別の可能性については黙っとこう。フフン。
2006/03/23(木) 18:48:11 | URL | きはむ #- [ 編集]