大衆の原像、その後


2006/03/26(日) 00:05:01 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-194.html

私の世代で吉本隆明を読む人がどれくらいいるか知らないし、私も理論書は『共同幻想論』ぐらいしか読んでいない。それでも、私にとっては丸山真男などよりよっぽど重要な思想家に思えるわけである。隙を見て勉強せねば。


 わたしたちが、情況について語るときには、社会的に語ろうとも政治的に語ろうとも、情況にかかわることが、現にわたしたちが存在することにとって不可欠なものであるという前提の下にたっている。たとえ社会の情況がどうあろうとも、政治的な情況がどうであろうとも、さしあたって「わたし」が現に生活し、明日も生活するということだけが重要なので、情況が直接にあるいは間接に「わたし」の生活に影響をおよぼしていようといまいと、それをかんがえる必要もないし、かんがえたとてどうなるものでもないという前提にたてば、情況について語ること自体が意味がないのである。これが、かんがえられるかぎり大衆が存在しているあるがままの原像である。
 この大衆のあるがままの存在の原像は、わたしたちが多少でも知的な存在であろうとするとき思想が離陸してゆくべき最初の対象となる。そして離陸にさいしては、反動として砂塵をまきあげざるをえないように、大衆は政治的に啓蒙さるべき存在にみえ、知識を注ぎこまねばならない無智な存在にみえ、自己の生活にしがみつき、自己利益を追求するだけの亡者にみえてくる。これが現在、知識人とその政治的な集団である前衛の発想のカテゴリーにある知的なあるいは政治的な啓蒙思想のたどる必然的な経路である。しかし、大衆の存在する本質的な様式はなんであろうか?
 大衆は社会の構成を生活の水準によってしかとらえず、決してそこを離陸しようとしないという理由で、きわめて強固な巨大な基盤のうえにたっている。それとともに、情況に着目しようとしないために、現況に対してはきわめて現象的な存在である。最も強固な巨大な生活基盤と、最も微小な幻想のなかに存在するという矛盾が大衆のもっている本質的な存在様式である。


吉本隆明「情況とは何か Ⅰ」『自立の思想的拠点』徳間書店、1966年、102頁)


このあたり、首肯するところ多なのであるが、それではどうしましょう、となると物足りない気もする。


 一般にわたしたちが、どんな憲法のもとにあっても、どんな「制度」や「体制」のもとでも、また「制度」によって規制され、それが与える機会を享受して生活しながらも、それを否認し、その「外」にあるとかんがえ、それから「疎外」されているとみなし、それに「反抗」する自由と権利をもつのは、おおよそ「憲法」や「制度」が、「共同的幻想」を本質としているからである。また、大衆がそれを「意識」しないでも結構それを「享受」しうるのも、「制度」や「憲法」が「共同的幻想」であり、少しも具体的な物質ではないからである。いいかえれば、「憲法」や「制度」は、げんこつや飴玉のように直接に痛かったり甘かったりするものとして人間にとって存在しないからである。
 「僕は少くも政治的判断の世界においては高度のプラグマティストでありたい。」と願うのは丸山真男の自由(恣意)に属している。しかし、これを勝手に拡張して政治過程そのものの本質を「プラクチカルなプロセス」と判断することは、政治理論上の錯誤にしかすぎない。政治過程そのものは「幻想的なプロセス」であり、幻想的な手直しであり、幻想的な革命である。政治過程の処理のために議事堂という建物が実在し、議員と称する男女が実在し、政府という少数の支配者の集団がおり、多数の警察官によって守られ、自衛隊という軍隊によって予備暴力を擁していようとも、政治過程が幻想過程であるという本質の理解をさまたげるものではない。


吉本隆明「情況とはなにか Ⅱ」『自立の思想的拠点』、114‐115頁、傍点を省略)


これなども、重要であり共感するが、「作為」としての「フィクション」に主体的に参与していくことを求めた丸山に対して、参与の対象が「幻想」に過ぎないという批判がどこまで有効であったかは分からない。


 このような見解は、いうまでもなく、個人は市民としてのみ現実的であり、家族の一員としては非現実的で無力な幻想であるとするヘーゲルの<家>理念から当然、帰結される見解である。
 しかし、事実はまさに逆である。人間は<家>において対となった共同性を獲得し、それが人間にとって自然関係であるがゆえに、ただ家において現実的であり、人間的であるにすぎない。市民としての人間という理念は、<最高>の共同性としての国家という理念なくしては成りたたない概念であり、国家の本質をうたがえば、人間の基盤はただ<家>においてだけ実体的なものであるにすぎなくなる。だから、私達は、ただ大衆の原像においてだけ現実的な思想をもちうるにすぎない。


吉本隆明「情況とはなにか Ⅵ」『自立の思想的拠点』、157‐158頁)


これもそうだよな。幻想であること、実体的でないこと、現実的でないことを告発しただけでは十分じゃあない。これはシュティルナーにも繋がる課題だが、それでは「幻想」「精神」を介さずにして、どのような実体的・現実的な思想と政治が可能になるのですか、と。そこを詰めないと、フィクションであり幻想だけど必要だからしょうがないじゃん、で終わってしまう。いや、私は吉本思想の全部をつかんでいるわけじゃないから、これでもって吉本評価に足れりとすることは、もちろんできないけどね。


改訂新版 共同幻想論 (角川ソフィア文庫)

改訂新版 共同幻想論 (角川ソフィア文庫)