ポストモダンを超えるポストモダン


2006/03/31(金) 17:59:40 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-205.html

というわけで、大澤真幸『思想のケミストリー』に収録されている「<ポストモダニスト吉本隆明」を読んでみたところ、非常に勉強になった。まずは純粋に吉本思想について学ばせてもらったわけであるが、それに留まらず、モダンとポストモダンの関係について多くを得た。手元に現物が無いために引用できないのが残念なのだが、お薦めしておく。白状すると私は大澤の著作をほとんど読んでいないため、同テーマ(モダンとポストモダン)についてより詳細に論じたものがあるかもしれないが(最近の『世界』論文などは参考になるかな)。


大澤によれば、普遍的であると思われているものが実はローカルなものであることを次々に暴露していくポストモダニストの態度は、近代精神の突き詰められた形に過ぎない。ひとたび伝統の自明性にヒビが入り、近代的な相対主義が現れてくると、あらゆるものが相対化されてしまうポストモダンへの突入はもとより時間の問題であった。近代とポストモダンは地続きであり、そこに断絶は無い。近代=ポストモダン(「再帰的近代」)において、「絶対普遍」なるものは存在し得ない。しかしながら、不在である「絶対普遍」なるものへの態度においてモダニストとポストモダニストは異なる。前者は不在ながらもそれが「ある」ことを強調し、後者はあくまで「不在」を強調する(いわばポストモダニストは「空席」を強調し、モダニストはそれにもかかわらず「席」があることを強調する?)。しかし、「不在」を強調しながらも、その「到来」を実は待望している点ではポストモダニストモダニストと変わることがなく、両者は表裏の関係にあると大澤は言う(以上、記憶に頼っているため正確性を欠いている恐れあり)。


当の大澤論文からは引用できないが、そこから私が想起した二つの部分を引用しておこう。以下は、宮台真司・北田暁大『限界の思考』における宮台の発言部分である。


 僕はもともと主知主義が嫌いで、最初からアホくさいと思いました。すると、ルーマンが「ハーバーマス的な合意モデルは間違いだ」といってくれている。合意するには合意のルールへの合意が必要だけど、合意のルールに合意するのにも合意が必要だ、という無限背進の論理を使ってね。こうした対立が論争になっているのだと、当初の僕は思っていました。
 ところが、じっくり読むと違う。ハーバーマスが理想的発話状況という場合、とりわけアドルノを踏まえていて、「理想的」という言葉に「不可能」の概念が含まれることがわかってくる。するとハーバーマスは、「話せばわかる」が厳密にはウソでも、「話せばわかる」という前提で進まないと処理できないことがある、と述べていることになります。
 確かにルーマンと論争する前のハーバーマスは素朴だったかもしれないけど、だとしても、論争のなかでのハーバーマスは、ルーマンの無限背進論法による批判を承知のうえ、あえて合意モデルにコミットしています。そしてルーマンもそのことをわかったうえ、無限背進論法による批判の先、つまりウソだとしても「話せばわかる」という前提が必要か否かを論じています。


宮台真司北田暁大『限界の思考』、双風舎、2005年、58‐59頁)


理想が不可能であることを知りつつ、あえてそれを高らかに掲げることは、明らかにモダニストの振舞いであろう。だからこそハーバーマスにとって近代は「未完のプロジェクト」であり、丸山真男にとって民主主義は「永久革命」なのである。そして、それは「来たるべき民主主義」について語るデリダにとっても同じなのかもしれない。実際のところ、今の私にはとても判断がつかないが、少なくともデリダがこう言っていることは確かだ。


 (3)結論。脱構築が起こるのは、正義の脱構築不可能性と法/権利の脱構築可能性とを分かつ両者の間隙においてである。脱構築は、不可能なものの経験として可能である。すなわち、正義は現実存在していないけれども、また現前している/現にそこにある(present)わけでもない――いまだに現前していない、またはこれまで一度も現前したことがない――けれども、それでもやはり正義は存在する(il y a)という場合において、脱構築は可能である。


ジャック・デリダ『法の力』法政大学出版局、1999年、35頁、傍点は省略、強調は引用者)


デリダモダニストであったかどうかは知らない。稲葉振一郎『モダンのクールダウン』東浩紀を介して論じられているように、デリダにも色々あるのかもしれない。たぶん本当はそんなに単純じゃないが、ザックリと分ければ、同書で扱われている「否定神学」への態度の違いが大澤の言うモダニストとポストモダニストの違いに対応しそうだ。不可能な「正義」や「絶対普遍」なるものについて、その不在において語り考えることを積極的に捉えるかどうか。そこが一つの分かれ目である。


しかしながら、その分かれ目は根本的ではない。よりラディカルな分かれ目は、先述のようにモダニストとポストモダニストが共有する前提から距離を置く立場との間に現れる。そして、大澤が吉本を読み解くことで探りを入れているのは、こうした「真のポストモダン」、つまり近代との連続性がより小さいポストモダン思想の可能性である。そして、私が関心があるのもまたその方面である。


最後にもう一つ、吉本とシュティルナーの思想位置の近さについて改めて認識させてもらった。やはり吉本思想をしっかりと押さえることは自分にとって不可欠だという思いを確かにした。時間はかかるだろうが、吉本=シュティルナーの可能性の臨界を探ることができれば、と思う。それが、もう一つのポストモダンの可能性にも繋がると思うから。


思想のケミストリー

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限界の思考 空虚な時代を生き抜くための社会学

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法の力 (叢書・ウニベルシタス)

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モダンのクールダウン (片隅の啓蒙)

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TB


正義の臨界を超えて(1) http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20070123/p1