自己目的性の追求が非人間性を呼び込むことについて


2006/04/02(日) 23:29:25 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-199.html

以下、東浩紀・大澤真幸『自由を考える』(NHKブックス、2003年)より引用。


 今、2ちゃんねるの例が出ました。それはコミュニケーションの一種なんだけれど、ほとんど内容のないコミュニケーションに陥っていて、会話の自動生成プログラムとのやりとりとほとんど同じことになっている、というわけですね。つまり、それは、もはや、コミュニケーーションとは言えない水準にまで落ちている。しかし、コミュニケーション、言語的なコミュニケーションこそ、もっとも人間的なことだと、普通考えられていますね。その2ちゃんねるの内容のないコミュニケーションというのは、コミュニケーションをそれ自身として享受していると解釈することもできるわけです。そうだとすると、2ちゃんねるのコミュニケーションの例は、もっとも人間的であるはずのコミュニケーションを、コミュニケーションとして純化したときに、その人間性を否定してしてしまう、ということを示しているわけです。
 実際、2ちゃんねるでなくても、現代の若者たちのコミュニケーション、とくにケータイ普及以後のコミュニケ−ションというのは、伝達される情報がどちらでもよくなって、単にコミュニケーションがあるという事実性だけを、つまりつながりだけを確認するようなものになっていますよね。[108−109頁、大澤の発言]


 むろん、コミュニケーションといっても、レイバーやワークに従属している場合があって、それは、真のアクションとは言えない。真に人間的なのは、レイバーやワークから切り離されて、コミュニケーションとしてのコミュニケーションになっているようなアクションです。たとえば、アーレントが「社会」と言うときには、それは経済的なコミュニケーションのシステムのことであって、あまりよい意味ではない。彼女が、古代ギリシャの政治を理想化するのは、先ほどアガンベンに即して言ったように、そこには、ゾーエーから切り離されたビオス、レイバーから純粋に切り離されたアクションがあると考えたからです。
 ところがですね、彼女が予想だにしなかった展開というのが現在起っていることになると思うのです。つまり東さんが提示した問題というのは、言ってみればコミュニケーションとしてのコミュニケーションを本当に純化していった場合に、つまり、コミュニケーションをレイバーやワークへの奉仕から解放し、純粋に自己準拠させていった場合には、コミュニケーションは、ただの機械との相互交換と同じようなものになっていく、あるいは動物的な反応に近いものに帰っていく、ということだろうと思うのです。アーレントの前提では、もっとも「人間的」な水準が、逆に、非人間的なものへと反転していくわけです。[112頁、大澤]


 たとえば誰かを愛するというときに、彼女は身長が高いから低いから、顔がかわいいから、性格がかわいいからという理由で愛するとすると、これは彼女の属性、哲学の言葉で言えば「確定記述」を根拠に愛するということです。「相手が……の属性をもっているから」愛するという経験は、その属性をもっと強力にもっている対象が現れたら、乗り換えることができるということを意味する。しかしこれは彼女自身を愛することとは違う。ふたたび専門用語を使えば、「固有名」で愛することとは違う。こういうふうに言うと柄谷行人さんみたいだけど、こんなことは、愛するということについて真剣に考えたら、高校生でもわかることです。
 しかし、では愛とは何か。そう考えると、恋愛をするということは、原理的に相手が誰であろうと好きになる、そういう精神状態でしかないだろうという結論になる。これは奇妙に聞こえるかもしれませんが、論理的にどうしてもそうなる。相手を固有名で愛するとは、相手からいかなる属性が剥奪されても愛することである。たとえば相手が交通事故に遭って、意識がなくなっても愛し続けることができるのか。精神病にかかって人格が変わっても愛することができるのか。これはきわめて具体的な問題でもあるわけです。つまり、恋愛の概念を突き詰めていくと、相手が何ものであってもいいという、「運命的」とでもいうか、ある種空無化した概念に到達せざるをえない。『ほしのこえ』に描かれた恋愛はそういうものだったような気がします。[115−116頁、東]


愛については、似たようなことを森岡正博絡みで少し書いたことがある*1。無条件の愛とは結局、相手が誰であってもよいということだから、ナンセンスであり馬鹿げている。もちろん、属性には還元されない固有性を愛しているのだ、とは言い得るが、それでは固有性とは何であって何を以て判断するのかという問いへの答えは自明ではない。身体も人格も変容しても彼は彼だ、と漠然と言うならば、それは単に個体としての抽象的な固有性をしか意味していないように思える*2


愛には理由があって、私はこうこうの理由で彼を愛しているんだと言うが、その理由が属性に還元される限り、同属性の別人の存在によって愛の必然性は失われる。愛が必然性を求めて、属性を根拠にすることを拒み続けていくと、相手がどんな存在であっても愛するという地平にたどり着き、愛の対象は代替可能になるので、逆説的に愛は必然性を失う。必然性を求めてひた走っていたはずなのに、究極の地点で必然性を手放さざるをえなくなる。必然性の追求が偶然性を呼び込み、人間的理由の追求が非人間的地平に誘う。


同型の逆説が、アレント的議論にも適用できる。アレント的議論とはつまり、自己目的的な公共活動の称揚である。アレントは公共空間で「見られ聞かれる」ことによって、まさに自己の固有性(who)が発現することを期待し、必要に迫られていない、actionの為のactionを重視した。これが大澤が言う「コミュニケーションとしてのコミュニケーション」であって、現代的コミュニケーションこそこの純化形ではないか、というのが引用した議論の筋だ。もっとも人間的であるはずだった、自己目的性の追求行為は、すなわち内容なき形式の反復を意味するから、結果として人間的とは言い難い様相を呈す、と。


同じことは、ハーバーマスのコミュニケーション論にも言えそうだ。彼は目的-手段関係に堕しやすい「道具的理性」を批判して、コミュニケーションの中から立ち上がる「対話的理性」に期待したので、まさに「コミュニケーションとしてのコミュニケーション」称揚論者の一人である。アレントハーバーマスの議論には通じるところが多く、アレントのworkは目的-手段関係を特質に持つ点でactionと区別されていることなども想起される。北田暁大の「つながりの社会性」について知った時から、自己目的化したコミュニケーションとアレントハーバーマス的議論との親近性を感じてはいたが、大澤と東によってそうした関係はある程度整理されている。人間的であったはずの自己目的性が巡り巡って非人間的地平へ踏み出すとすれば、果たして目的-手段関係は簡単に切り捨てられてよいものであろうか。このあたり、「プロセス重視派」の方々にご意見を伺ってみたいものだ。


自由を考える―9・11以降の現代思想 (NHKブックス)

自由を考える―9・11以降の現代思想 (NHKブックス)