飯を食わねばならぬみじめさ


2006/05/04(木) 22:46:37 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-221.html

若者論の大枠は「学びからの逃走・労働からの逃走」というトレンドが心理的な問題(若者の内面の問題)なのか、経済的な問題(雇用の仕組みの問題)なのかという対立に収斂している。
ニート非難派」はこれは「心の問題」だだから「しゃっきりしろ」と一喝すれば問題は解決すると言い、「ニート擁護派」はこれは「雇用の問題だ」だから行政が手厚い制度改革をすることが何より重要と言う。
あのさ。
そんなの「両方の問題」に決まってるんじゃない?
「しゃっきりしろ」と一喝したって、事態は変わらない。
「勤労の義務」は憲法27条に明記されているのであるから、ニートは存在自体が違憲なのである。
存在すること自体が違憲であるところのもの(ほかにもありますね)をどうやって「おやじの一喝」くらいで補正できましょう。
そのような心理や生活習慣が生成し定着するには長く深い前史が存在するはずである。
一方、「雇用の問題」だという方々はクールでリアルな施策の必要性を説く。
でも、雇用の問題を行政レベルでリアルに考えるということは、雇用機会の拡大にしても、職業訓練機会の拡大にしても、年金制度や奨学金制度の充実にしても、要するに「金が要る」ということである。
だから、金が要るんだよ。
みなさん、最後にはそうおっしゃる。
だが、それが「金があれば社会問題のほとんどは解決できる」という思想に同意署名しているということにはもう少し自覚的であったほうがいいのではないか。
いま観察されている「学びからの逃走・労働からの逃走」という趨勢は、そういった経済合理性の原理に対する子どもたちの側の違和感や拒否反応を間違いなく原因のうちに含んでいる。
マルクス主義がどうもぴんと来ないんです」と言ったら、「それはウチダ君に階級的自覚が足りないからだ。まずマルクスを読み給え」という革命的同志が昔いた。
フェミニズムがどうもしっくり来ないんです」と言ったら、「それはあなたが父権制から受益しているセクシスト強者だからよ。いいから上野千鶴子を読みなさい」というフェミニスト同志が昔いた。
何か変、と私は思った。
だから、私にはニートの気持ちがちょっとだけわかるような気がするのである。
「どうも勉強する気にも働く気にもならないんです。つうか、金ってそんなに大事ですか」と言ったら、「何を言ってるんだ。さ、お金上げるから、勉強して、仕事をしなさい」と言われても。

skypeとニート論内田樹の研究室

まず、「学びからの逃走・労働からの逃走」が本当にトレンドになっているかどうかが疑われてよいわけだが、言っても聞きゃあしないだろうし、私もそういう大雑把な話の進め方は嫌いじゃないので、さしあたりトレンド認識に同調する。


その上で描かれる対立構図は、かなり矮小化されていると思う(特に、非心理的問題=経済的問題=雇用問題という飛躍の連鎖によって、若者の内面以外の問題が一元化されている点)が、あくまで若者論のトレンドについて述べている部分でもあり、さしあたりここも辛抱しておこうか。もちろん、内田さんの若者論の二元的整理が現実の言論状況に照らして妥当かどうかは慎重に検討されてよいわけだが、ほら、私も内田さんも細かい話は好きじゃないので、とりあえず先に進もう。


「両方の問題」というのも、まぁ許容範囲かな。正確には、「両方の問題」というよりは、両者が絡み合っている、もしくは因果しているというところだろう。


その後の暴論ギャグはスルーしてあげるのが大人の思いやり。


さらに後がメインになってくるわけだが、ここで回りくどく言おうとされていることは、社会学で言う再帰的近代化の一言でほぼ片付けられると私は考えている。それまで自明の前提とされていた価値が動揺したために、「学びからの逃走・労働からの逃走」が起こるのである。だいたい、脱物質主義的価値観の台頭なんてことは、70年代から言われていることである。別に新しくもなんともない。そういった社会構造の変動と、それに伴う心理的変化などは、アカデミズムにとって今やそれこそ自明の前提ではないか?。


だから、非心理的側面を中心にして若者論を展開する社会学者その他が、内田さんの想定ほど無自覚に「お金あげるから」的発想で発言しているとは思えない(もちろん中にはそういう人もいるだろう)。元に戻るようだが、非心理的な問題は経済的な問題に限られないだろうし、経済的な問題は雇用の仕組みの問題に限られないだろうし、それが必ずしも「金が要る」式の結論を出すわけではないだろう(その蓋然性は小さくないとしても)。したがって、非心理的側面に即して若者について語る論者が皆「金があれば」式発想の持ち主であるというのは、明白に論敵の矮小化なのである。


例えば、本田由紀さんがニートに関して行ってきた言論活動は、ニートの擬似問題化によって、シバかれる必要のない人々がシバかれ、援助を必要としている人々は無視される、という逆転現象の拡大を防がなければならない、という明確な問題意識に貫かれていたと思う。そこには、現実に「金が要る」人々が存在している。だからこそ、問題を心理的な部分に還元してしまわずに、雇用の仕組みの問題を強調して指摘することが重要だったのである。脱物質主義的価値観が台頭しようが、再帰的近代化が進もうが、金で困る人はいるのである。「金ってそんなに大事ですか」と尋ねる人は今現在金で困っていない可能性が高いのであるから、放っておけばよいのである。「逃走」していても困っていない人に「勉強して、仕事しなさい」なんて言う必要はないし、たぶん本田さんはじめ、良心的な学者はそんなことをわざわざ言わないだろう。


ところで、私がかつてaraikenさんを批判したときに用いた論理を整理すると以下のようになる。すなわち、ルサンチマンから解放される為に支配的価値からの脱却を訴えるのはよいが、現実に経済社会制度から逃れることができるわけではない以上、「逃走」したつもりだった人々は結局システムの下層に回収され、ルサンチマンを再生産する結果になる、と。ゆえに、心理的変革の重要性を強調するよりも制度的変革の重要性を強調したほうが有益である、と。ここで重要なのは、一人ポストモダンを気取っても、周囲はモダン的な環境のままあり続けるし、その内部で生きるほかない以上、モダン的問題は絶えず残存している、ということだ。要するに、何時だって我々、食うために「金が要る」のだ(いや、もちろん「貨幣」に固執するのはフェティシズムだが、ここで重要なのはその点ではない)。


今回の内田さんのエントリの筋を追っている限り、結局以前のaraikenさんと同じような踏み外し方をしているようだ。非心理的側面を中心に若者論を語る優れた諸先生方は再帰的近代という前提も当然踏まえつつ、その上で(あるいはそれ以前の問題として)「金が要る」問題その他の分析・解決に取り組んでいると思われる。それなのに、内田さんは時代的変化、社会構造の変革と、具体的事象(若者の心理・言動)とを、直接に結び付けてしまう、と言うより混ぜ合わせてしまう。そうして、脱物質主義的な価値観の拡大という観点に引きずられた結果、『「ニート」って言うな!』の出版以後にもかかわらず、このような現実から遊離したぼやけたことを言ってしまうのである。その意味で、私は内田さんの中にもaraikenさんと同型の、心理偏重および制度(環境)軽視ゆえの非現実的頑迷さを見るのである。


まぁ、このエントリ続くらしいので、どういう展開を見せるのか、さほど期待せずに待つことにする。でも、内田さんのニート論ネタで更新を稼ぐのはもう止めた方がいいな。


参考:イデオロギッシュにニートを撃て@on the ground*1





狂おしく生きてゆく
死にもの狂いでがっついて
明日も今日も昨日も明後日も飯を食わねばならぬみじめさ
私は幻か 君は人間か
夏の終わりに
夏の終わりに

狂おしく生きてゆく
死にもの狂いでがっついて
明日も今日も昨日も明後日も飯を食わねばならぬかなしさ
私は幻か 君は人間か
夏の終わりに
夏の終わりに
夏の終わりに
夏の終わりに


パラダイス・ガラージ「UFOキャッチャー」


「ニート」って言うな! (光文社新書)

「ニート」って言うな! (光文社新書)

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祭りのあと―世界に外部は存在しない http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20070121/p1