シュティルナーとアイロニーについて
2006/05/22(月) 00:22:54 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-228.html
左翼には(ますます)評判の悪い仲正昌樹。彼の新刊から少し引いてみる。
既に述べたようにアイロニーとは、「ある客体Xを把握したと思い込んでいる主体Yの姿勢」について、Y自身あるいはYの代理としてのZが、反省的に把握しなおそうとする思考の運動であるので、その形式や方法を厳密に“定義”することはできない。「アイロニーとはXである」というYによる“定義”の仕方それ自体が、次の段階でY自身あるいはその代理であるZによってアイロニカルに捉え返される余地が残されているからである。従って、あまりアイロニーの本質を正確に記述しようとしても仕方がないわけだが、本書の中での説明を容易にするために一応、「自分自身が“自らの思想”として表明していることが、反省を通して後に変更されることを既に予見している複合的なまなざしに対して開かれた姿勢、もしくは、そうした姿勢を(自ら)暗示する表現法」が、初期ロマン派にとってのアイロニーである、ということにしておこう。
(仲正昌樹『「分かりやすさ」の罠』ちくま新書、2006年、186‐187頁、強調は引用者)
この本を介して、今まで想定していたよりもはるかに、アイロニーとシュティルナー(特に「移ろいゆく自我」)は近い立場にあるのではないか、と思い始めている。キーワードは未規定性である、と言うとどうしても宮台真司を想起させるので、非固定性であると言っておこうか。
一見、異なるように思えるのは、アイロニーが徹底的に反省的な振舞いであるのに対して、今・此処の自己を全肯定するシュティルナーは無反省的に振舞っているように見えるからだ。しかしながら、必ずしも両者は正反対なアプローチを採っているとは言えない。なぜなら、シュティルナーにも反省的な契機が無いわけではないからである(そのことをポジティブに評価するべきか否かはまた別の問題である)。
ヘーゲルやマルクスのように「“最終目標”」を設定せずに、「「終わり」から遡及する形で「始まり」における“自分自身の意図”を確認し、明確化しよう」というアプローチ(198‐199頁)は、シュティルナーのある一面と遠くないように思える。実際、時代的・地理的に考えて、初期ロマン派とシュティルナーの間に何らかの思想的関連性があっても不思議じゃないはずであるが、そこら辺の研究はどうなっているのか。
なんてことをブログで言っていても、ちょっと不毛だな。他にも、宮台が言うオブセッシブからの自由と、シュティルナーの自己性との対比についてももう少し詰めたいところである。どうせだから、仲正本の他に、宮台真司・仲正昌樹『日常・共同体・アイロニー』、宮台真司・北田暁大『限界の思考』、北田暁大『嗤う日本の「ナショナリズム」』などを題材に、アイロニーについての勉強会でもやろうか。
ネタ本がこういう並びだと、(全人口的に見ればあくまで局地的とはいえ)ちょっとファッションぽくて嫌だが。それよりも問題は、ここら辺の議論とシュティルナーの議論を巧みに絡めたレジュメを私が切れるかどうかにあるのだった。
「分かりやすさ」の罠―アイロニカルな批評宣言 (ちくま新書)
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