修復的司法批判メモ


2006/05/15(月) 22:40:35 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-224.html

修復的司法についてはずっと勉強したいと思っているが、未だに基本的なことすら勉強できていない。宮台真司上野千鶴子による修復的司法の持ち上げを批判しているので、メモとして引用しておく。


今時、重罰化を含む応報刑的措置に対抗してコミュニケーションによる回復(修復的司法)を賞揚することが国家権力への対抗(による社会の擁護や弱者の擁護)になるとする勘違いには、仰天しました。アナクロニズム(時代錯誤)です。
 むしろ昨今では反動的司法学者が修復的司法を通じた国家の「内面的介入」を擁護し得ることが重大です。被害者が許していないことを理由に罪刑法定主義に違背して永久に閉じ込めておくことを可能にしようとするわけです。教育刑ファシズムの思考伝統に連なります。


明日の思想塾公開講座の参加者に参考資料を緊急にお知らせします@MIYADAI.com Blog


宮台が問題としている上野の記述がこれらしい。


多様で流動的なアイデンティティという議論をするたびに、かならず持ち出される批判がある。そうなれば一貫性のある「責任主体」はどこに行ってしまうのか,という批判である。もっと簡単に言えば、誰が責任をとるのか、と。アイデンティティは自由に帰られるかもしれない、だが、あなたのポジショナリティは自由には変えられない、そのとき、自由で多元的なアイデンティティを語ることは、ポジショナリティからの逃避と責任回避になってしまうのではないか、と。


アイデンティティとは、過去のある時点における自己と、現在の自己とを同一化する、すなわちそのあいだに一貫性と連続性を想定するという想像上の行為であった。渡辺公三が論じるように、近代法と近代国家によって要請される 法的「責任主体」にとっては、このような一貫性と連続性のあるアイデンティティが不可欠だった。債務は返済されなければならないし、犯罪は償われなければならない。


/だが、加害者は不法行為のあった過去の一点に繰り返し立ち返り、その時点における「自己」のポジションに、永久に同一化しつづけなければならないのだろうか。また被害者は、トラウマ的過去の一時点に、これも反復強迫のよう に立ち戻り続けることで、被害者という立ち位置に固定されるのだろうか。


/責任主体と多元的なアイデンティティという、一見両立しがたい二つの概念の間を架橋するポジショナリティの変容について、坂上香というTVディレク ターの製作した「ライファーズ終身刑を越えて」という作品ほど、啓示的に思えるものはない。…受刑者は、自分がどんな罪を悔いているか、被害者に対する想像力をいかに持つようになったか、他の受刑者たちとどのような支持的な関係を築いているかか、釈放後はどのように地域社会に貢献したいか…と鏤鏤自己申告する。それに対して弁護士やカウンセラーなどの専門家が、可否の判断を下すのだが、そのなかで地域の民間人が、受刑者の釈放に反対する場面が出てくる。「彼が変わったという言葉を、私は信じることができません。彼は地域社会にとってじゅうぶんに安全な存在とは言えず…」。…驚くべきことに、その場には受刑者本人が立ち会っている。…仮に本人が釈放されたなら、とまっさきに仕返しに怯えなければならない立場にいるだろう。…すなわち、受刑者の報復に怯えなくても済むとその発言者が信頼できるまでに、本人の 「変化」が確信できたときに、はじめて受刑者の「解放」は決定される、と。


ライファーズ終身刑者)の「解放」にあたっては、被害者もしくはその遺族からの手紙が、このコミッティー(委員会)に大きな影響力を持つ。つまり犯罪加害者の「その後」に、被害者が関与する権利を持つのだ。…/ここではライファーズが責任主体となるということは、彼(女)が自分と自分が冐した犯罪との関係を変容させる。ひいては被害者との関係を(たとえ想像裡においてさえ)変容させることを意味している。


この「責任」の取り方は、冐した罪の重さに比例した刑罰を受任するという意味での法的「責任」とは異なっている。さしてさらに驚くべきは、この「主体の変容」を促すインタラクティブな装置をアメリカの司法が持っている、ということだ。エリクソンの国、アメリカには、アイデンティティの変容と再構成、そしてそれを「成長」として受け入れる土壌がある…。


上野千鶴子『脱アイデンティティ』勁草書房、2005年、315頁)
――宮台真司さんの「思想塾」に参加。芹沢一也氏との対話一挙2万字!『あとん』6月号に掲載。藤井誠二のブログ、から孫引き


宮台の指摘は、修復的司法批判としてはすごくありふれたものだと思う。まぁ、「近代主義者」宮台にとっては譲れない線があるのだろうし、藤井誠二が指摘しているようなアメリカとの土壌の違いという点も強く意識している部分が当然あるだろう。でも、どうなんだろうな。私自身としては、藤井が指摘しているような面はあまり本質的ではないと思っている。もちろん、現実の関係者には本質的でない部分が重要なんだ、と言われれば確かにそうだが。宮台の指摘はより本質に近くて、ポスト近代的な試みが前近代的な行為を許す余地を与えてしまう、と。うーん、まぁ重要な問題ですね、と今はこの程度のことしか言えないのだが。司法分野までたどり着くのはいつになるやら。

TB


司法論ノート―利害関係者司法に向けて http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20070115/p1