神と正義について・2


2006/07/24(月) 15:47:29 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-250.html

(承前)


批判的合理主義の正義論


では、相対主義を乗り越えて何らかの正義を立ち上げる試みとして、下地真樹「批判的合理主義の正義論」(『情況』2006年5・6月号)を取り上げよう。下地は、世界にケルゼン的相対主義が蔓延していることをまずは認める。この世界においては、「私たちの主張はどこかで、究極的には正当化されえないドグマティックな主張に行き当たらざるをえない」ために、「論争は神々の争い」なのである。ケルゼン的相対主義において唯一成り立つ正義は、手続的正義と呼ばれるものであるが、この正義の下では「多くの人々が生命を奪われるようなどんな社会的決定も、それが適正な手続きにのっとって行われている限り、それを不正義という根拠はない」ことになる。下地はこうした手続的正義を「社会を批判する足場そのものを失」わせるものだとして退け、何らかの帰結主義的正義を欠くべからざることを主張する。


下地が提示する正義は、「社会のメンバー全員に対して、十全に生きられる状況を実現」することである。だが、下地によれば、これは正当化される必要がないものだという。この正義の正しさも、この正義が実現しているかどうかも、確証することはできない。我々には正しさを基礎づける究極の根拠は持ち得ないからである。それゆえ下地は、可謬主義に基づき、この正義を誤り得る仮説的なものとして捉える。それは誤りであるかもしれない、けれども、現に反証されるまでは暫定的に受け入れることができるものである。現行の正義の対象と内容、すなわち社会のメンバーリストと基底的潜在能力のリストに対して異議申し立てがなされ、その異議が合理的で妥当であるならば、従来の正義は修正される。現存する正義は誤り得るが、それが無限の修正可能性に開かれているゆえに、暫定的な正しさとして受け入れることができる。「社会は正しくあることはできないが、正しくあろうとすることはできる」。これが下地の主張する批判的合理主義からの正義論である。


以上の議論の構造を確認しよう。現行社会はひとまず受け入れられる、いや、引き受けられる。今ある法や制度は投げ出されることなく、だがあくまで暫定的なものとして承認される。ここにひとまず「正義」が成立する。不完全で、妥協的で、現実的かつ世俗的な「正義」が。しかしここから同時に、完全かつ無際限、理想的かつ彼岸的な正義への歩みが始まることとなる。「社会は正しくあることはできない」という言明に明確な通り、究極的な正義の実現は既に断念されている。だが、その究極的な正義、決して現前し得ない正義は、決して放棄されない。そうした彼岸的正義は、現行社会の絶えざる修正と改善によって近づいていくところの準拠点にあって永遠に光を放ち続けるのである。それこそ、究極的な意味での「社会を批判する足場」でもある。


このような構造を持つ正義論を、私は以後「否定神学的正義論」と呼びたい。否定神学とは、現前しない(不在の)神の存在を否定的言明(「神は〜でない」)によって浮かび上がらせ、指し示す営為を意味する。批判的合理主義の正義論もまた、同様の構造を持つと言える。正義=神の現前可能性は否定されるが、それが「ある」ことは放棄されず、絶えざる反証=否定(「正義は〜でない」「これは正義でない」)によって正義=神への近づきを得ようとする。もう一度確認しておけば、現行社会の暫定的承認と、無限の修正および改善可能性による彼岸的正義への漸進こそが、否定神学的正義論の特徴である。


私が、あるいはあまり厳密ではないかもしれないやり方で否定神学と非相対主義的な正義論とを結び付けるのは、これを拙速に批判するためではない。かといって、これを支持するためでもない。むしろこの立場に対してどのような態度を採るべきか、その吟味をややゆっくりとした足取りで行うのがこの連載の第一の目的である。事実、この立場を容易に批判することはできない。実現が難しい理想を捨てることはせずに、現在地から少しずつそれに向かって歩んでいく、という姿勢は日常的に広く共有されているところであるからだ。そして、思想的にはフランスの哲学者ジャック・デリダがこの立場を洗練化しており、ますます反駁は難しくなっている。


さて、今回は論文の紹介的な記述に終始した感があるが、下地の議論についての違和感などは後に改めて述べることにして、ひとまず否定神学的正義論の構造を押さえることで満足しておこう。次に私は、否定神学的正義についてより深く知るためにデリダの議論を参照することとしたいが、その前にやや寄り道をしようと思う。次回に検討するのは、日本政治思想史家の丸山眞男の議論である。(続く)