神と正義について・3


2006/08/01(火) 14:02:14 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-252.html

(承前)


民主主義の永久革命


ここで丸山眞男の、それ自体としては正義論とは言い難い議論を取り扱うのは、下地の議論を通して見たような否定神学的正義論の構造が広く共有されていることを確認するためである。我々は、ただその構造を発見するだけのために西洋の難解な哲学者の書を紐解く必要はない。それは、日本の戦後政治学の中心において一貫して唱えられていたからだ。


いくつかの引用によって証明しよう。まず、1958年の講演をもとにした「「である」ことと「する」こと」(『丸山眞男集』第8巻、岩波書店、1996年、25頁/丸山眞男『日本の思想』岩波新書、1961年、156‐157頁、傍点は省略)において、丸山はこう述べる。


 民主主義というものは、人民が本来、制度の自己目的化――物神化――を不断に警戒し、制度の現実の働き方を絶えず監視し批判する姿勢によって、はじめて生きたものとなり得るのです。それは民主主義という名の制度自体についてなによりあてはまる。つまり自由と同じように民主主義も、不断の民主化によって辛うじて民主主義でありうるような、そうした性格を本質的にもっています。


これは丸山の一貫した主張であり、その後も繰り返し表明される。曰く、「民主主義の理念は、本来、政治の現実と反するパラドックスを含んでいるのであり」、「未来に向って不断に民主化への努力をつづけてゆくことにおいてのみ、辛うじて民主主義は新鮮な生命を保ってゆける」(「民主主義の歴史的背景」前掲『集』第8巻、89、95頁)のである。そして、こうした認識を象徴的に表現するのが、有名な「永久革命」論である。


 もし主義について永久革命というものがあるとすれば、民主主義だけが永久革命の名に値する。なぜかというと、民主主義、つまり人民の支配ということは、これは永遠のパラドックスなんです。ルソーの言いぐさじゃないけれど、どんな時代になっても「支配」は少数の多数にたいする関係であって、「人民の支配」ということは、それ自体が逆説的なものだ。だからこそ、それはプロセスとして、運動としてだけ存在する。


(「五・一九と知識人の「軌跡」」『丸山眞男集』第16巻、岩波書店、1996年、34頁)


 さきほどもいいましたように、民主主義というのは理念と運動と制度との三位一体で、制度はそのうちの一つにすぎない。理念と運動としての民主主義は、(中略)「永久革命」なんですね。


(「戦後民主主義の原点」『丸山眞男集』第15巻、岩波書店、1996年、69頁)


パラドックス」という語にデリダを連想することもあり得るかもしれない。不断の民主化永久革命としての民主主義、それは不可能な理想への漸進にほかならない。丸山は完全なものとしての民主主義は制度化されない、と言っているのだ。丸山にとって、制度化された民主主義――それはケルゼン的な相対主義的民主主義に基本的に等しい――は常に不完全であり、批判されるべきものである。しかし、周知のことながら丸山は秩序のやみくもな破壊を喜ばない。彼は「政治的プラグマティスト」として、秩序の破壊者に臨んでは常に既定の秩序や制度を擁護する側に回る。現行秩序をひとまず承認しながらも、その固定化を警戒し、不断の修正可能性に賭ける丸山は、紛れもなく否定神学的正義論の立場に姿を重ねる。丸山において、パラドックスとしての民主主義が完全に実現されるユートピアは否定されている、が、目指されている。そして、丸山は現前し得ないそうしたユートピアから逆に現実を捉え返し、批判的言論の根拠とするのである。


丸山のそうした方法的な面での否定神学性を早くから鋭く見抜いていたのは、丸山を誰よりも激烈に批判した吉本隆明であった。丸山はしばしば、近代西欧を理想化した上でそこから日本の未成熟性を批判する「欠如論」者であるとして批判を受けた。これに対して近年の丸山研究においては、丸山は現実の近代西欧を理想としたのではなく、その理念型やエートスとしての、しばしば現実の西欧諸国においても達成されていないような「近代」を批判の準拠点としたのだという指摘がなされることがある。そして、そのような丸山的「近代」の虚構性を吉本は「丸山真男論」(1963年)において既に指摘していた。


 丸山「政治学」において重要なのは、対象の頂点に、虚構の極限(おそらくヘーゲル以後のドイツ観念論の方法でみられた幻想の「西欧」である)を設定し、その虚構の極限からくり出される規定によって、対象の構造を分析するという「方法」それ自体である。丸山のこの方法は、もしすべての「立場」というものを、対象と主体との現実的な交叉点にもとめるならば無「立場」とみえざるをえない。が、本質的には、虚構の極限に「立場」があるために、「方法」それ自体が「立場」と化しているものとかんがえることができる。丸山のある極限のイメージに、丸山の主体が交叉し、その虚構の地点に「立場」が描かれている。


(『現代の文学25 吉本隆明講談社、1972年、375‐376頁)


「丸山が描いているようなイメージとしての「西欧」近代の文物などは、どこにも「実在」していない」(同、370頁)。吉本のこの分析はおそらく当たっているだろう。丸山のこうした方法について、吉本は両義的である。「丸山真男論」においては、その方法としての鋭さが高く評価されつつ、それが不可避的に現実から遠ざかっていく点が問題にされていく。そこでの吉本の態度は、我々の否定神学的正義論についての探究に対して、後に大きな示唆を与えてくれるだろう。しかしながら、今は丸山眞男における否定神学性を確認しておくだけで次へ進むことにしよう。丸山を通して再度確認された否定神学的正義論の特徴は、?現行秩序の暫定的・限定的肯定、?全き正義実現の不可能性の確認、?現行秩序の恒久的是正義務の主張(全き正義の否定的保持)、として整理し得る。このような構造を持つ議論の最も洗練された唱道者はデリダであるが、デリダを訪れる前にもう一箇所だけ寄り道をすることを許して欲しい。(続く)


日本の思想 (岩波新書)

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丸山眞男集〈第8巻〉一九五九−一九六〇

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丸山眞男集〈第16巻〉雑纂

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柳田国男論・丸山真男論 (ちくま学芸文庫)

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