九条の護衛者たち(一)


2006/08/07(月) 18:49:38 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-264.html

はじめに


しばらく前に、たまたま目に留まった討論番組で社民党福島みずほコスタリカを引き合いに出して安全保障についての持論を展開しようとしていた。していた、というのは話しかけの段階で端的に反論されて言葉に詰まり、結局展開できていなかったからだ。それを見て(すぐにチャンネルは変えたが)私は今更ながら愕然とした。今時コスタリカを引き合いに出して「護憲」の助けにしようという考えもつくづく浅はかだと思ったし(なぜ浅はかなのかは自分で調べて欲しい。ネットで調べればいくらでもでてくるだろう)、「護憲」を全く説得的に語ることができない代表的「護憲」政党の党首を見て、改めてこれはまずいな、と実感した。元々福島なんかには何も期待していないにせよ、他の有力な「護憲」派は説得的な主張を展開できているのだろうか。まだ間に合ううちに、改めて少し検討してみようと思った。隔日全4回連載の予定である。


理想主義的護憲論


日本国憲法第9条についてのいかなる改正にも反対する「護憲」論者の中でも、非武装中立論のような理想主義的な主張を正面から唱える者は少なくなってきている。そうした流れに抗して、大塚英志は敢えて理想主義的に護憲を語る(以下、大塚の主張は全て大塚英志『憲法力』角川書店、2005年、第十章から)。


大塚によれば、9条とは「ことば」の問題である。一切の武力行使を放棄した9条は、ことばを信じ、ことばによって他者と話し交渉して合意点を見つけていこうとする選択肢を示した。ところが、戦後の日本はこうした「ことばによる外交」の道を採らず、9条を実現してこなかった。戦争を放棄した主権国家としてのあり方の可能性は放棄されてきたのである。こうした武力によらない外交解決という理想論は現実的ではないとして笑われる傾向にあるが、理想論を笑うことは現実におもねることにほかならない。より困難でラディカルなのは理想論を語ることであるから、理念と現実の乖離に臨んでは、理念ではなくて現実の方をきちんと修正せよという原理主義的選択を再評価する必要がある。そうした原理主義的選択として、9条を前提に非武装中立の外交をするという理想主義を復興する選択肢が再び選ばれるべきなのである。


こうした大塚のベタな語りの背後にどのようなメタ戦略があるのか、という点をここで問題にしようとは全く思わない。大塚は社民党などは非武装中立を放棄していったと言うが、少なくとも遠い将来の目標としての非武装国家については社民党共産党もそれを放棄しているわけではない。「将来の非武装の日本を目指す」「現実を平和憲法の理念に接近させる着実な努力こそが求められている」といった社民党の宣言は大塚の主張と一致する(社会民主党全国連合常任幹事会「憲法をめぐる議論についての論点整理」2005年3月10日)。また、「世界史的にも先駆的意義をもつ九条の完全実施にむけて、憲法違反の現実を改革していくことこそ、政治の責任である」とか「独立・中立を宣言した日本が、諸外国とほんとうの友好関係をむすび、道理ある外交によって世界平和に貢献するならば、わが国が常備軍によらず安全を確保することが、二十一世紀には可能になる」といった共産党の宣言も基本的には同じことを言っている(「日本共産党第22回大会決議より抜粋」2000年11月24日)。


こうした言葉に接する限り、即時の非武装中立自衛隊の廃止を求める勢力はもはや無きに等しいとは言え、将来的・潜在的なものとしての理想主義的要求は未だ根強いと言えそうである。実際、大塚が言うような「ことばによる外交」論は昔から一貫して見られる主張であり、最近では井筒和幸が、「ちゃんとした「大人の国」は戦争しない、その代わりにどうするかというと外交するわけです」と述べている(高橋哲哉・斎藤貴男編『憲法が変わっても戦争にならないと思っている人のための本』日本評論社、2006年、36頁)。こうした立場は要するに「いかに<脅威>をつくらないか、いかに日本に攻めてくる国をつくらない(その国にとっても日本が大切な存在になる)かという観点で外交努力をしていく必要がある」という主張に終始することになるが(同、74頁)、「それで外交に失敗したらどうするのか」という端的な反問に対して一般的にあまり積極的に答えようとしないために、説得力はあまり大きくない。


この反問に対して、非武装を維持したままで積極的に答えようとした者も過去にはたくさんいる。その主張は、粛々と降伏論、パルチザン的抵抗論、非暴力不服従論、逃亡論と様々だが、いずれも非現実的であるとか、特定の価値観(絶対平和主義)を全国民に押し付けるものである(長谷部恭男『憲法と平和を問いなおす』ちくま新書、2004年、第8章)などという理由で有力な反論を与えられている。そうしたこともあって、今ではとりあえず自衛力の暫定的保有は認める者が多い。しかし、外交努力によって将来には非武装を実現するとは言っても、外交に失敗する可能性はいつでも想定できるわけだから、失敗したときどうするのかという反問に対する有力な一般的回答を用意しない限り、問題は全く解決していないことになる。要するに社民党共産党も含めて多くの論者は問題の先送りという形でのみ理想主義を保持しているわけであり、同時にそれを手段的に用いているわけであるが、それについてはまた後で触れよう。


(続く)


憲法と平和を問いなおす (ちくま新書)

憲法と平和を問いなおす (ちくま新書)

コメント

通りがかりのものですが、興味深く拝見しました。文中に「なぜ浅はかなのかは自分で調べて欲しい」とありました。この部分が結局わからずじまいになってしまったので、大変申し訳ないのですがわかりやすく教えてください。
2006/12/14(木) 06:03:39 | URL | とりとめのなさ #9e2HWJTQ [ 編集]


うーん、ホントに検索かければ色々出てくるのですが。今回だけですよ。


「わかりやすく」ということなので、乱暴にはしょって言いますと、①軍事的に米国の強い影響下にある、②「軍隊」と呼ばれないだけで実効的な軍事力を保持している(または保持可能である)、という二点においてコスタリカは日本と共通しています。したがって、護憲の文脈でコスタリカを持ち出すことに殊更の意義を見出すことはできません。


コスタリカも軍事力を持っている(または持ち得る)わけですから、非武装中立論を支持する根拠には当然なりません。それから、「実効的な軍事力を正式に軍隊として組織しなくてもやっていける例だ」という言い方で、明文改憲に反対する根拠としてコスタリカを使おうという人ももしかしたらいるかもしれませんが、そこでコスタリカを持ち出すことにほとんど意味はないと思いますね。そういう言い方をするなら(つまり実質的には九条改憲を認めているなら)、本論で言及した長谷部のように、解釈で変更したことを明文で変更する必要はない、という論拠だけで十分でしょう。


まぁ、共通点があるということは、何か参考にすべき点が有り得るということですから、コスタリカについて学ぶ意義は無いなどと言うつもりは全然ありませんよ、もちろん。ただ、未だに護憲派に根強いコスタリカ礼賛は、正直見てて痛々しく思います。


以上ですが、わかりやすかったですか?


詳しくは、こちらをご覧下さい(「コスタリカ+軍隊」のグーグル検索で最上位でした)。
http://www1.ocn.ne.jp/~mourima/sindou.html


あと、ウィキペディアでも結構書かれてますね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%82%AB
2006/12/14(木) 18:36:08 | URL | きはむ #- [ 編集]