黙祷と吐き気


2006/08/06(日) 14:22:58 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-269.html

8月6日ということで早めに起き、テレビの前で黙祷を済ませてから朝食を摂る。別に毎年こうであるわけではないが、できれば黙祷ぐらいはしたいと思っている。小学生ぐらいだったのだろうが、黙祷の意味が解らずに、兄が黙って目を瞑っている横ではしゃいでいて怒られたことがある。あれ以来、きっと私の中では黙祷というものはどこか侵されざるべきものとして意識されているかもしれない。ただし繰り返すように、別に毎年やっているわけでもなく、それほど神聖視しているわけではないが。


毎年のことであるが、8月になり、久し振りに原爆のことを思うと胸糞が悪くなる。気持ち悪くなるし、吐き気がするし、泣きそうにもなる。今年も広島市長のある意味で「空虚」な厳しい言葉が夏の空に響いていたし、二人の子どもがつらつらと何か言っていた。目を瞑って座っている首相の頭の上を滑っていくそうした言葉を、私もどこかシニカルに聞いているところがないわけではない。今日も何処かで人が死んでいるなぁ、と思いつつ。とはいえ、一方で吐き気も確かな事実としてある。


広島には二度ほど足を運んだことがあり、資料館やら原爆ドームやらも二回ずつ見ている。一回ぐらいは行ったほうがいいとは思うが、あの場所に何かがあるわけではないとも思う。広島に何かがあるわけではないし、広島が特別なわけでもない。それは長崎でもアウシュヴィッツでも同じだろう。ただ陰惨な暴力を前にして私は吐き気がする。その事実だけがある。いつも、結局、それだけがある。


当の時点から数えて60年を超えるとさすがに色々と変わっていかざるを得ないとは思うが、平和教育というものは今どうなっているのだろう。自分の経験から考えても平和教育なんてものは極めて形式的でお約束的な性格が強かったと思うが、他方でそうしたお約束さえも失われていくとしたら結構危機的かもしれない。もちろん実際どうなっているかについて私は全く知らないわけであるが、いずれにせよ従来型の平和教育平和運動はそのままでは維持できないことは明らかだろう。多くの人にとって、今はもう「戦後」ではない。アジアでは戦争は終わっていないと言うポストコロニアル的言説とは真逆の意味で、「戦後」性はもはや意識されていないと思う。それ自体はやはり60年以上経っているのだから無理もない。


他方で、今の子どもたちは私の世代より戦争を実際的なものとして身近に感じているはずではある。湾岸戦争以降戦争と呼べる戦争があまり目に見えなかった90年代(実際は色々あったわけだが)に生育した私たちと比べて、アフガニスタンイラクと立て続けに起きたあからさまな戦争を横目に育ってきている彼らに対しては、「戦後」型平和教育とは何か違った適切なアプローチがあるはずだろうと思う。もちろんそれはこれまで積み上げてきたものを生かしつつということであるし、きっとそうした試みが各地で既になされているだろうと期待するものであるが。