神と正義について・7


2006/09/08(金) 15:15:20 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-256.html

(承前)


みんなのほんとうのさいわいと察知の気体


この連載は相対主義についての検討を出発点としていた。その上で相対主義を乗り越え、普遍的正義の実現に近づくための有力なアプローチとして、下地や丸山、デリダ否定神学的正義論を取り扱ってきた。そして前回、否定神学的正義論は相対主義を乗り越えていないと結論付けるに至った。それでは別なる道があるのか。今や我々は、これまでとはやや異なった視角から切り込んでみる必要がある。我々に新たな導きの糸を与えてくれるのは、戦後思想界の巨人、吉本隆明である。吉本は、その著述活動の初期から、「思想の相対性」について極めて尖鋭な考察を加えていた。我々は彼の議論をやや詳しく検討することによって、否定神学的正義論とは別の道について有意義な模索をなすことができるであろう。しかしながら、今回はまず、吉本の思索の尖鋭さを検討した大澤真幸による論考(大澤真幸「<ポストモダニスト吉本隆明」『思想のケミストリー』紀伊国屋書店、2005年)を手がかりに、吉本の可能性の中心に触れるための前提を押さえておかなくてはならない。


大澤は、いわゆる「ポストモダニズム」に特徴的とされる「普遍的な妥当性を要求する価値や規範の虚妄を暴きだし、理性の普遍性を懐疑する」ような態度は、モダニズムに由来するものであり、その変種にすぎないと述べる。モダニズムは、「伝統的な価値や規範が、それぞれのローカルな共同体に根ざす特殊性にほかならないことを認識し」、それらを相対化する。このような立場からは「実質的な規範を与えることを断念」せざるを得ないため(正義をポジティブに根拠付けることができないため)、「主として、普遍的に妥当する規範(正義)を構成するための形式的な手続きを定式化することに力を注ぐ」ことになる。大澤は、モダニズムのこうした形式的規範的態度を、吉本が言う「世界視線」、すなわち「内在的で経験的な世界の内のあらゆる局所に対して等しい距離をとり、それらを一挙に観望する」視線に仮託し、世界視線の帰属点が現前し得ないのと同様に、経験の超越的準拠点が現れ得ないことがモダンの特質だと結論付ける。大澤によれば、モダニズムポストモダニズムの差異とは、この前提の下に、超越的な準拠点が否定的にせよ「存在している」という面と、とにかく現前し得ないという面、いずれをより強調するかという違いにすぎない。


大澤の整理に従えば、正義の否定的「存在」を主張するデリダモダニストに分類されそうであるが、本連載の文脈からすれば、そうした分類はミスリーディングである。デリダが主張する正義とは、いずれの立場からも等距離を取る形式的な「無立場」のことではなかった。そうした「無立場」はむしろケルゼン的相対主義に近い。むしろ形式性や一般性を超えて、個別のケースに対応してその度毎に法を創設するような正義こそがデリダ的正義である。したがって、本連載の文脈に合わせて大澤の整理をやや恣意的に修正して用いることにしよう。すなわち、モダニストとは超越的な価値(神、正義)の実在を否定した上で、ローカル=相対的な諸価値・諸立場に対して等しく距離を取る中立的手続きの普遍的妥当性を主張する者たちであった。これに対して、モダニストが中立的かつ普遍的だと称する社会の枠組みや手続きそのものが、レイシズム、男性中心主義、西洋中心主義、人間中心主義など様々な面において極めて恣意的=政治的な性格を帯びていたことを暴露したのがポストモダニストたちである。ポストモダニズムによる一連の作業は、公には超越的な地位が空席であると述べ立てておきながら実際にはその席にローカルな価値を密かに座らせていたモダニズムダブルスタンダードを暴き、完全なる空席を求めるものだったと言える。こうした一般的ポストモダニズムの作業を踏まえて有力になってくるのがデリダに代表される否定神学的正義論である。否定神学的正義論は、超越的準拠=神=全き正義の完全なる空席、すなわち現前不可能性を強調しながらも、敢えてその「存在」を重視する点で、いわば再帰的なモダニズムの一種と捉えることができる。しかしながら、後述するように、大澤は否定神学的正義論に近しく見えるものを吉本の議論に見出し、それを「真の<ポストモダン>」なるものに対応させてしまう。この点においても、大澤の整理はミスリーディングと言わざるを得ない。


少し論脈が混乱してきた。ここで大澤が吉本に見出す可能性を見ていく必要がある。それは、端的に言えば、「不在において存在する」ような超越的他者ではなく、「具体的な生々しさにおいて現れる」他者への「感応」による普遍的妥当性への接続、という可能性である。吉本の議論にそのように読める部分があることは確かであり、その検討は後述することにするが、ここで大澤が吉本に見出す「真の<ポストモダン>」とはデリダの、あるいはエマニュエル・レヴィナスの正義論や責任論と基本的に同質のものである。一般的・形式的な手続きによって各個人を均質的に扱うのではなく、個別的・具体的な事情に合わせて応答(≒感応)していかなければならない、という立場こそデリダ(=レヴィナス)的正義であることを我々は既に見てきた。(ナイーブな)モダニズムにおける「不在において存在する」正義とは、普遍的であると僭称されたローカルな価値にすぎない。手続きは形式的であり空虚ではあるが、不在であるわけではない。デリダが言う「不在において存在する」正義とは、「不可能なもの」にほかならない。それは形式的であることを意味せず、むしろ具体的であることを要求する。したがって、多少ややこしいけれども、大澤が吉本に見出す可能性とはとどのつまり否定神学的正義論とほとんど一致すると見てよい。


さて、前振りが長びき過ぎた。今回押さえておきたい点は、吉本の議論には確かに否定神学的正義論的に読める面があるということである。それは、大澤が繰り返し参照している吉本の宮沢賢治論からまずは明らかになる。自然、それは宮沢賢治のストーリーそのものに一定の否定神学性が認められるということでもある。「銀河鉄道の夜」の主人公ジョバンニは、同乗者たちのローカルな「神さま」を否定し「たったひとりのほんとうのほんとうの神さま」の存在を信じて疑わないが、それはどんな神さまかと問われれば「ぼくほんとうはよく知りません」と答えざるを得ない。さらに、「きっとみんなのほんとうのさいわいをさがしに行く」「みんなの幸(さいわい)のためならば僕のからだなんか百ぺん灼(や)いてもかまわない」と普遍的絶対的正義への渇望がジョバンニによって繰り返し述べられるにもかかわらず、「けれどもほんとうのさいわいは一体何だろう」という問いに対しては、やはり「僕わからない」との答えしか与えられない。そこでは、殉じられるべき絶対的正義の内容が知られていない(予測不可能である)わけだ。


同じ否定神学性は「グスコーブドリの伝記」にも見られる。主人公ブドリは、やはりみんなの幸せのために自らの命を犠牲にして自爆する道を選ぶ。そこでの幸せとは凶作の予防であるから決して予測不可能ではないが、自己犠牲によって共同体全体を救う行為は紛れもなく自らのなし得る以上のことであり、不可能なものの経験、決定不可能なことを決定する狂気=正義にほかならない。このブドリの最後について吉本が加えている考察こそ、大澤が注目した部分であり、我々も無視することができない部分である。吉本は、物語の最後においてブドリの身体はイーハトーヴという人工都市と同化したと見做し、これを、「善い行いはその極限で、人間の身体を粉末にし、いわば<察知の気体>に化することができ、この気体は瞬時に時間や空間の制約を超えて他者の<察知>に感応できる」という宮沢のユートピア理念の表れと解する(吉本隆明「人工都市論」『ハイ・イメージ論Ⅰ』ちくま学芸文庫、2003年、195頁、強調は原文)。それ自体では難解なこの箇所を、デリダの議論を経てきた我々は比較的容易に理解することができるはずである。極限的善とは正義であり、「察知」とは言わば他者への「応答」である。身体が気化するという表現は、なし得ないことをなす、正義の性質を伝えるための隠喩にほかならない。


吉本はここで宮沢の理念について述べているにすぎない。それにもかかわらず、大澤が吉本に否定神学的正義論に近しい理論的可能性を見出そうとする作業に説得力があるのは、吉本がその最初期の「マチウ書試論」において「思想の相対性」に「関係の絶対性」を対置したことが前提にあるからである。大澤は、「関係」を「現前する他者との関係」(「対幻想」)と解することによって、吉本をいわば(結果的に)デリダレヴィナス的に解釈したのである。それは一つの、有力な解釈ではある。しかし、吉本の真価は否定神学的正義論に還元可能な部分にあるのではない。確かにそのようにも読めるが、そのように読んでしまっては、ある意味で吉本の仕事は台無しになってしまうのである。次回は大澤とは別様に吉本を読んでみたい。そこでもポイントはやはり「関係の絶対性」である。(続く)


思想のケミストリー

思想のケミストリー

ハイ・イメージ論〈1〉 (ちくま学芸文庫)

ハイ・イメージ論〈1〉 (ちくま学芸文庫)