神と正義について・8


2006/09/15(金) 18:31:41 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-258.html

(承前)


思想の相対性と関係の絶対性


「マチウ書試論」を読もう。一般的には、この作品は「思想の相対性」を超える普遍的妥当性を「関係の絶対性」に求めたものとされる。その論理の核心は以下に集約される。


 だが、人間と人間との関係が強いる絶対的な情況のなかにあってマチウの作者は、「それなのに諸君は予言者である私を迫害しているではないか。」と主張しているのである。これは、意志による人間の自由な撰択というものを、絶対的なものであるかのように誤認している律法学者やパリサイ派には通じない。関係を意識しない思想など幻にすぎないのである。それゆえ、パリサイ派は、「きみは予言者ではない。暴徒であり、破壊者だ。」とこたえればこたえられたのであり、この答えは、人間と人間との関係の絶対性という要素を含まないいかなる立場からも正しいと言うよりほかはないのだ。秩序にたいする反逆、それへの加担というものを、倫理に結びつけ得るのは、ただ関係の絶対性という視点を導入することによってのみ可能である。


吉本隆明「マチウ書試論」『現代の文学25 吉本隆明講談社、1972年、336頁、傍点強調を太字に改変)


吉本によれば、秩序に加担する思想はその内容に関わらず、関係性によって常に秩序からの疎外者への迫害に加担することになる。それは人間の自由意志によらず、関係の絶対性によって決まってしまうものである。これに対して、秩序への反逆は、現に秩序から疎外され、秩序に加担していないという関係の絶対性によって「倫理」に結び付くのである。ここでの「倫理」とは、思想の相対性を超える普遍的妥当性と考えられるのが一般的であろう。大澤もそのように読む。


しかしながら、吉本の主張をそのように読むとすれば、当然にこのような疑問が抱かれはしないだろうか。秩序からの疎外者による秩序への反逆が「倫理」に結び付くというのは、それ自体既に何らかの(相対的な)思想に基づいた考えではないのか、と。秩序の外部に追いやられた「他者」に対して何らかの応答をなさねばならない、彼らの反逆は絶対的に倫理に結び付く、といった主張はデリダ(=レヴィナス)的に読むことが可能だが、ここで秩序から迫害を受けていることを問題視する視点自体が既に相対的でしかない。吉本は相対性に相対性を対置するようなトートロジーを犯したのだろうか。もしそうであるならば、「マチウ書試論」を読む価値など無に等しい。我々はここで「マチウ書試論」の別の読み方に気付くべきである。そもそもこの作品で言われる「思想の相対性」とは一般的な意味でのそれに還元しきれるものではないのだ。


マチウ書において、律法学者とパリサイ派は「大きな護符をみにつけ、衣服に長いふさをつけ、宴会では第一席を、教会では第一座を愛する」として攻撃される。これに対して吉本は「抑圧された思想や人間には、いつもこのように秩序が受感される」と述べ、「構成された秩序を支点として展開される、思想と思想との対立の型は、どれほど幼稚に見えようとも、これ以外の型をとることはない」とする。「キリスト教と言えども、秩序と和解したとき、やはり衣服に長いふさをつけ、宴会では第一席を、教会では第一座をあいした」のである。我々は、それ程注意せずとも、ここで問題にされている「相対性」が、一般的に言われるような、究極的な正当化根拠を持たないという意味ではないことを理解する。吉本が「ここで提出しているほんとうの問題は、現実の秩序のなかで、人間の存在が、どのような相対性のまえにさらされねばならないかという点にある」。吉本が抉り出そうとしている「思想の相対性」とは、思想の思想に対する相対性や思想それ自体としての相対性(だけ)ではなく、思想の現実に対する相対性なのである。この点を掘り下げるべく、次に我々は「丸山真男論」に取り組もう。


丸山真男論」の中で吉本は、「思想によって知識人であった」丸山を「生活によって大衆であったもの」に対置することで批判している。結論を先取りして言えば、この「生活」こそ「関係」と同義に読まれなければならないのである。吉本は終戦時、「怒るかわりに、すべてはおためごかしではないか、という皮肉と支配者拒否の様式をかいまみせた」大衆に「絶望的なイメージ」を見た。だが、丸山のような「進歩派」や「コミュニスト」たちはそれを見たはずであるのに、それについて述べることはない。丸山たちが理解しなかったのは、「大衆はそれ自体として生きている」ということである。「天皇制によってでもなく、理念によってでもなく、それ自体として生きている」大衆のイメージを理解せず、「虚構の極限」からしか大衆を捉え得ない丸山は、「支配ヒエラルキーが思想的に天皇制から、ブルジョワ民主主義に変った(あるいは変りつつある)から、大衆的な課題は、民主主義の擁護または確立にあるといった仮構のイメージで捉えることになる」。思想が右から左へ動けば、大衆も右から左へ(あるいは左から右へ)動くものだ/べきだという態度を採ること。それは、思想や理念以前にそれ自体として生きている、生活を営んでいる大衆の原像を見失うことを意味している。


「中和的なもの、あいまいなもの、論理により整序できないもの、感覚的なもの、本能的なもの」への「丸山の嫌悪」を遡ると「それ自体の生活者である大衆にたいする嫌悪」へと行き着く。それは虚構の極限からのみ現実を照射する丸山にとって必然に思える。丸山と否定神学性を共有する下地が大衆(「愚民」)批判を隠そうともしないとき、その手つきが丸山に似るのは偶然ではない。丸山や下地にとっては常に思想や正義がまず先にある。だが、その思想=正義は現実=生活に臨んで相対的でしかない、そう吉本は言っているのだ。


再び「マチウ書試論」の言葉を借りれば、「現実の秩序のなかで生きねばならない人間」にとって、「思想などは、決して人間の生の意味づけを保証しやしない」のである。我々は思想に生きる前にまず生活に生きる。思想を必要としない者はいくらでも居るが、生活を必要としない者は居ない。それゆえ思想は相対的なのであり、生活=関係は絶対的なのである。吉本の「大衆の原像」論は、一般的に受容されているように、エリートや知識人に大衆を対置するものとして読まれるべきではない。それは思想によって生きると錯覚する者に対して、生活によって生きざるを得ない人間の原像を突きつけるものである。知識人もまた生活を避け得ないのであるから、「原像」を否定することは自らの足場を切り崩すことにほかならない。また、エリートや知識人に属さないような者であっても思想に殉ずることは可能であるから、思想に生活を対置することとエリート・知識人に大衆を対置することは同じではない(さらに言えば、「生活」に密着することを旨とする「思想」もある)。


ここで「関係の絶対性」の意味を捉え直そう。「構成された秩序を支点」とする秩序の加担者と疎外者との対立は、現実的=生活的な関係にほかならない。そこでは思想の内容は問題ではなく、ただ「衣服に長いふさをつけ」られるか否かだけが全てであるような関係がある。思想の対立がそのような卑俗な対立に「堕する」のは、人が思想の前に生活=関係を生きるからである。とすれば、ここで秩序に対する反逆が結び付き得る「倫理」とは何であるのか。論理構成上、それは思想ではありえない。それは思想に裏付けされた規範や正義という意味での「倫理」とは別種の、もっと他の何か、より生の、要求を根拠付ける、あるいはおそらくより正確に言えば、要求を「理由付ける」何かである。それは、自らがこれこれの関係=生活にあるという事実それ自体を根拠/理由として何らかの要求を実現すべきであるとするような何か、言わば規範と事実のあいだの隙間にあって自らを主張するものである。それを具体的にどう構成するかは大きな課題であるが、本連載においてはそろそろまとめが必要とされる局面にある。(続く)


マチウ書試論・転向論 (講談社文芸文庫)

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柳田国男論・丸山真男論 (ちくま学芸文庫)

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