神と正義について・9


2006/09/17(日) 19:36:59 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-257.html

(承前)


エゴイズムの正義論


生活は思想に先立つ。この点を前回に確認した。それは、計算可能なもの、利用可能なものこそがまずあるということである。このことは生活が出発点であることを意味するだけではなく、同時に終着点であり、目的でもあることを意味する。


一般に、人は思想を目的として生きるのではない。人が何らかの思想、あるいは正義を要求するのは、それによって自らの生や生活をより良くするため、保障するためである。正義それ自体から主観的利益を得る人がいないとは言わないが、そうした効用は一般化できるものではない。人は自らの「力」とするべく正義を要求する。人は正義それ自体を目的とはしない。すなわち、正義は手段である。したがって、思想ではなく生活によって生きる者にとって、全き正義などといった計算/予測/想定不可能なものははじめから視野には入らない。ここにおいて、言わば「正義主義者」の主張と現実とのズレが生じてくるのである。例えば、下地は以下のように述べていた。


 先に述べたように、人の生を無前提に肯定するという公理を拒否する人もいるだろう。しかし、この公理を拒否することは、その人自身の生きる条件を支える論理的根拠も同時に拒否することになるだろう。その人が生きられる条件が確保されるのは、社会がそのようにすべきだからではなく、単なる偶然であると位置づけなければならない。だから、それを奪われたとしても、それを残念だとか悲しいとかは言えるとしても、それを不正だと言う根拠は存在しない。それを甘受するならば、公理を承認するかどうかはその人の選択である。その意味で、この公理を受け入れるか否かは、正義と呼びうるものが存在するかどうかの臨界点である。


(下地前掲論文、221頁)


我々は論理によって生きているわけではない。我々は「不正だ」と言いたいがために正義を要求するのではない。建前はともかく、力を得るために正義を要求し利用するのだから、自らに都合のいい不正には目をつむることもあるし、「不正だ」と言うことに現実的な意味がなければ別の手段を考える。我々の生が奪われようとするその瞬間に、正義は役に立ってはくれない。その意味で正義は相対的であり、力は絶対的である。それは望ましいかどうかとは別のことであり、現実に生きる我々にとって避け得ないことだ。


正義は手段として、生のままの力を補うことで初めて意義を持つ。正義=規範をただそれだけで振りかざしていても、力=事実による裏付けがなければ、宙に浮いているだけで意味をなさない。したがって、我々は規範を裏付けている事実の配置と推移に敏感でいなくてはならない。他方、事実を生のままで受け入れてしまっては、所与の力関係を動かすことができず、自らの力を増して生活をより良くすることはできない。ゆえに我々は規範を手段として必要とする。必要な規範を事実に基づき成立させ、事実=力によって支えるのである。そしてこうした規範によっては十分ではない地平において、我々は新たな「倫理」を必要とするだろう。「関係の絶対性」に基づいた「倫理」を。


かつて私は正義を必要としないことで「降りている」(つまり上記の公理を拒否している)と見做されたことがあるが、今や抵抗すべきであるのはこの二元論である。すなわち、正義に臨んで、人はそれを要求する=引き受けるか、放棄する=降りるか、いずれかであるという一見尖鋭な二者択一には問題の核心は無いのだ。相対主義を否定することは不可能であると私は考える。それゆえ規範は常に不安定である。究極的に正当な根拠を持たないという意味と、あくまで手段的であるという意味の二重において。いかなる時も、我々はこの前提の上で規範を利用しなければならない。この目的‐手段関係を手放せば、我々はすぐさま狂気や幽霊にとりつかれて得体の知れない何者かに自己を譲り渡すことになってしまうだろう。そして、従来の規範を超えて、更なる力を手にするためには、規範と事実のあいだ、その隙間に潜む可能性を追求する必要がある。(第一部・完)