責任と自由―2.必要と負担


2006/09/21(木) 20:45:50 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-174.html

そう簡単に降りさせないぞ、という主張や取り組みは多い。例えば以下のような主張。


「それは重いからやりたくない」という中学生の言葉は素直なものである。しかし、彼女が担いたくない当の負担が社会の中で必要とされており、かつ自分も社会の一員としてその恩恵を享受しているならば、自分はイヤだということは結局それを誰かに押しつけることに他ならない。そしてそれは社会の行使する暴力に自分もまた荷担しているのだという事実を隠蔽し、不可視のものとすることにつながるだろう。人々に裁判過程とそこで行使されている権力の暴力性を知らしめること、その自覚を持ってもらうことをこそ、裁判員制度の最大の意味と考えるならば、中学生の素直な信条を無視してあくまでも無作為に問答無用で裁判員の義務を押しつけるべきなのだ。


自由と負担」@おおやにき


一読して説得的である。しかし、どうだろう。これを改作するとこうなる。


「それは重いからやりたくない」という中学生の言葉は素直なものである。しかし、彼女が担いたくない当の負担が社会の中で必要とされており、かつ自分も社会の一員としてその恩恵を享受しているならば、自分はイヤだということは結局それを誰かに押しつけることに他ならない。そしてそれは社会の行使する暴力に自分もまた荷担しているのだという事実を隠蔽し、不可視のものとすることにつながるだろう。人々に食肉加工過程とそこで行使されている牛刀の暴力性を知らしめること、その自覚を持ってもらうことをこそ、食肉加工業ボランティア制度の最大の意味と考えるならば、中学生の素直な信条を無視してあくまでも無作為に問答無用で食肉加工業ボランティアの義務を押しつけるべきなのだ。


東も述べていたように、フリーライダーであることを恐れていたら生きてなどいけない。我々は確かに裁判官に一定の暴力行使の役割を押し付けているし、その恩恵を一定程度享受しているが、そんなことは裁判官に限ったことではない。もちろん、上に挙げた食肉加工業に限ったことでもない。暴力の意味を広くとれば、ほとんどの職業が社会の中で必要とされる一定の暴力行使の役割を担っているようにも思える。民間の職業は暴力行使役割の対価を市場システムの中で得ているわけだが、裁判官は公務員として税金から対価を得ているのであるから、構造としてそれほど異なるわけではない(ここで、対価を払っているのだから必ずしも押し付けているわけではないと言うこともできるし、それはそれ自体としてそれなりに妥当だと思うのだが、社会の中で誰かが引き受けなければならない負担が存在するという点については変わらないので、一旦措いておこう)。そうであるならば、自分達にとって必要な負担を誰かに押し付けていることの自覚を喚起するという論法で裁判員制度が正当化されるのと全く同じ論法で、あらゆる職業についてのボランティア義務制が正当化されるだろう(逆説的に聞こえるかもしれないが、それは一種のアナーキズムに似ている)。私はそんなことは嫌なので、負担を誰かに押し付けていることを自覚させることはもっと別の、強制的でないやり方でやってもらえないかと思う。


ボランティアと言えば、こういう主張もある。


「あなたは好きでやってるんでしょ」・・・帰属処理


「私はそうではないから」「私にはできないから」「忙しいから」・・・切断操作、終了。


何もしないことの言い訳モジモジ君の日記。みたいな。


 「切断操作」したがるのは誰なのか。基本的には、逃げたい連中なのだ。いや、違うか。逃げたいという気持ちの問題であるならば、実際にボランティアを担っている人の間にも「やらないですむものならやりたくないよ」(=逃げれるものなら逃げるよ)という声はしばしばある。適切に言い換えるならば、本当に逃げてしまう奴だけが、逃げたことの言い訳として「切断操作」を行う。


 では、なぜこのような「切断操作」は批判されるのか。実は、社会に対する責任を負っていないということを堂々と主張し、それを正当化する論理をきちんと述べた上で、ボランティア的仕事にコミットしないことをきちんと説明した上で切断処理するのであれば、そしてそれに対する有効な反論を誰もできないのであれば、担わないで逃げることは正当化できている。堂々と切断操作してくれればいい。しかし、こういうことをきちんと言う人は、少なくとも経験上はただの一人もいない。そしてむしろ、そうしたことを「言わないために」帰属処理(「あなたは好きでやっている」と言い放つこと)が行われる。


切断処理したがるのは誰かモジモジ君の日記。みたいな。


言うまでもなく、「好きでやっている」(自発的である)ことがボランティアの定義である。もちろん現実に「楽しいからやっている」わけではないことが多い以上、「好きでやっている」と言われてしまうことが「降りられない現実」の一面を隠蔽してしまう効果があるとしても、そうした事情を踏まえた上でやはりボランティアは「好きでやっている」ものだ、という認識は保持しておくべきであると私は思う。それはボランティアにコミットする人とそこから「逃げる」人との決して大きくはないが重要な差異として。ボランティアにせよ、政治参加にせよ、それをする人としない人との間に本質的な差異があるわけではないから、両者の間に埋めがたい差異が存在するかのように語る根本的な「切断操作」は確かに批判されてよい。だが、そこにある差異を軽視/無視して一切の「帰属処理」を許さないのは支持できる態度ではない。


逃げられるのであればそれに越したことはない。「逃げれるものなら逃げたいよ」と感じつつもボランティアなどに勤しむ人には、逃げられない理由があるのであり、それが「楽しいから」という理由でなくとも、一種の「帰属処理」(「好きでやっているんでしょ」)は可能である。逃げられる人には、そうした理由がないのであって、その点で両者は確かに異なる。その差異は本質的ではないが、尊重されるべき差異である。逃げられない理由がない、すなわちボランティアに従事する理由がないのであれば、逃がして構わないではないか。理由ができれば自然と従事せざるを得ないだろう。それまでどうか逃がしてやっていて欲しい。


切断操作」や「帰属処理」を許さず、「結合」していく、巻き込んでいくという一種の「降りさせない」戦略には確かな切実さがにじんでいるし、その戦略は自由に採られてよい。けれども根本的でない、その場その場の「切断操作」や「帰属処理」までを問題視して半ば強行的に巻き込んでいこうとする(「動員」していこうとする)のは、窮屈で寛容さを欠く息苦しい社会に繋がる道だと思うし、(ただ乗りやわがままも含む)一切の差異を消去していくように映る。だから、私は「降りさせない」戦略については否定しないまでも常に抵抗していく。「降りる」こと「逃げる」ことをかなりの程度許容することができる余裕のある社会こそ目指すべき道だろう。


年の為言っておけば、ボランティアの意義を社会制度に対する先駆性に求める点は示唆的だと思う。ただ、ボランティアが必要とされているからといって、それにコミットする責任がすぐさま生じるわけではない。それは、社会の中でその負担が必要とされているからといって、その負担を無作為に誰にでも強制してもよいとは言えないことと同様である。ただ、必要とされる負担を義務や責任とするべきではない、とか、することはできない、と語ることはしないほうがいいかもしれない。私が主張したいのは端的に私は嫌だということ、私はそれを負担したくないということだけなのだから。必要とされる負担を誰かに押し付けていることを十分自覚しながら、その負担を自分も押し付けられることからできるだけ逃げること。それが私の望みだし、それをわりと許すような社会が私の望む社会なのである。

TB


[考察]動機について http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20060924/p1


責任論ノート―責任など引き受けなくてよい http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20070122/p1