責任と自由―1.降りる自由


2006/09/21(木) 20:44:23 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-180.html

ちょっと前の話をきっかけに、かなり前の話をする。野崎さんが東浩紀のことを「馬鹿げた批評家」、東が唱えた「降りる自由」のことを「下らない」と評しておられる。その意図はそれほど明確ではないのだが、リンクなど文脈からして「降りられない現実」を前にしては「降りる自由」など口に出せるものではない、といった話のように読める。ここで「降りられない現実」と言われているものはおそらく、障害者が障害から降りられない現実と、降りたいけど降りられない、降りたら他に代わる人がいない(だけじゃなくてもっと色々な事が複雑に絡まっているのだろうような)「闘い」という現実の二つを指しているのかな、と思える(あるいはもっと多様な意味が含まれているかもしれない)。だが、東の唱えた「降りる自由」とは「降りられない現実」を前にして口に出すことがはばかられるような、楽天的な自由(放縦?)礼賛だっただろうか。むしろ「降りられない現実」を問題視する意図があったからこそ「降りる自由」を提起したのではなかったか?


私はリアルタイムでは「降りる自由」論争を追っかけておらず、後から来た者なので当時の言論布置状況がまるで掴めないが、ひとまず原文に当たって振り返っておこう。


社会が全体として何かを決める。その決定の手続きが完全に合理的で合法的だったとしても、ひとりひとりの人間には、必ずその全体に「否」を突きつける自由、言い替えれば、社会から降りる自由がある。少なくとも僕はそう考えます。『動物化するポストモダン』で、僕はそんなことを「解離的」という言葉で表現していたつもりでした。


しかし、そのような「降りる自由」は、いま急速に縮退しつつある。なぜか。それは、僕風に言えば「大きな物語」、もっと一般的に言えば、神、聖なるもの、救済、つまりは超越的な価値のシステムが、資本のダイナミズムのなかでつぎつぎと脱臼されてしまったからです。人類社会は、長いあいだ、一方に世俗的な価値のシステムがあり、他方には聖的あるいは超越的な価値のシステムがあり、その両者のバランスをとりながら存在し続けてきたと思います。だからこそ、徴兵制でも、宗教的理由によるならば徴兵拒否ができる。しかし、そのような超越的な拠り所をうしなった僕たちは、世俗的なシステムから逃れる場所を失ってしまっている。そこで立ち現れるのは、結局のところ、すべてを世俗的な(市場的なあるいは「民主主義」的な)価値基準でのっぺりと覆ってしまい、全員にそこへの参加を強制するきわめて窮屈な社会です。ネオリベラリズムは、この窮屈さのひとつの側面にすぎない。


話を最初に戻すと、僕は実は、澁川さんの発言のなかに、「みんなで決めたことなんだから、いつまでもうじうじ言うなよ」という同じ窮屈さを聴き取ったのです。そこはやはり、もっと寛容になるべきではないでしょうか。それは、言論の自由を最大限に認めろ、ということではない。社会全体から降りる権利、社会に無関心である権利、社会全体の決定を無視する権利を認めろ、という話です。権利、という言い方がまだ強すぎるのであれば、そういう風に「降りて」しまう人間が一定数必ず存在することを正面から見つめろ、ということでもよい。


降りる自由」@hirokiazuma.com/blog


つまり、あるレベルで責任=応答可能性を貫くことは、別のレベルでたいへん無責任な事態を招きかねない。デリディアンっぽく逆説的な表現を使ってみれば、責任=応答可能性の連鎖とは、それが無限に続くためにこそ、毎回毎回局所的には切断される必要がある(誤配される必要がある)、そういう矛盾したものなわけです。(中略)


というわけで、僕が前回の投稿で考えていたのは、要は、「社会」という全体性は存在せず、社会とは原理的にさまざまな責任=応答可能性の連鎖の重ね合わせでしかないのだから、そのうちの特定の連鎖に対してはつねに「降りる自由」を保持していなければならない、ということでした。社会という全体はない、というこの言葉は、前回の「社会全体から降りる権利、社会に無関心である権利、社会全体の決定を無視する権利」という表現と矛盾しているように見えると思いますが(この点で僕の書き方は不注意でしたが)、僕がそこで言いたかったのは、「社会全体を僭称する審級から降りる権利」のことにほかなりません。


これは別にそんなにラジカルな主張ではないように思います。オタクにしろひきこもりにしろ、社会の一員ではあるに違いない。それが「社会から降りている」ように見えるのは、そのとき「社会」という言葉がある特定の集団によって乗っ取られているからです。スピヴァックのいう「サバルタン」の問題ですね。そして、僕はそういう集団に与したくないのです。


降りてみる」@hirokiazuma.com/blog


超越的なシステムや空間、つまりアジールがどうとか、共同体どうの宗教どうの、という話は追究していくとそれなりに面白いのかもしれないが、どのみち私には論じる能力はないしここではひとまず措いておこう。興味深いのは、東が世俗的な価値に市場的なものと民主主義的なものを含めている点だ(ここで民主主義に「」はいらない、と私は思う)。東によれば、「全員にそこへの参加を強制するきわめて窮屈な」、すなわち「降りられない現実」を市場的価値(経済効率、あるいは…財源?)や民主主義的価値(多数決!)が形成し拡大しているというのだ。そのような「降りられない現実」を正統/正当なものであると見做す立場に対して消極的な形で「否」を突きつける方法こそが、「降りる」ことである。そうして「降りる」ための(「権利」という語はやはり適切でないので)「自由」を確保しておこうと東は説く。


東同様、私もこの立場は全然ラディカルじゃないし、一般論としては多くの人々が共有できるはずの立場だと思う。それどころか、全体性を僭称する「社会」(特定集団)に対して、その「社会」から「降りている」、かどうかはともかく周縁部に追いやられているように思える人々(「サバルタン」、と言えるかどうかはともかく)やその「味方」である人々(つまり「降りられない現実」を闘っている人々)とも全く摩擦的な立場であるとは思えない。むしろ共通点を多く持つはずである。あるいはこの立場の消極性、また「降りる」という語感そのものを嫌う向きもあるかもしれない。その限りの隔たりであれば、「降りる自由」という言葉にこだわらずにより広範に共有可能な言葉を選べば、摩擦を一掃することもできるかもしれない(と言ってみたものの、そもそもどの程度摩擦があるものなのかがよく解らない。野崎さんと似た立場の人々は「降りる自由」を一体どう読んだのか)。


とはいえ、個人的には摩擦が消えない方が面白いと思う。ここまで書いたことは、野崎さんが二つのリンクで「降りる自由」をこき下ろしたことはミスリーディングだし、端的に言って間違いだということを原文で以て示し、「降りられない現実」の認識と「降りる自由」論は背反するものではなくセットであることを確認したわけだ(障害から降りられないという意味の現実認識についての一致は改めて問題にするまでもない)。結局大して立場に違いはないんじゃないの、ということ。けれど「降りる自由」は一般に「社会全体から降りる権利、社会に無関心である権利、社会全体の決定を無視する権利」ということ(だけ)で理解されているのだろうし、そうした「脱社会的存在」容認論みたいな部分への反発が強いのだろう(野崎さんがこのことについて述べているわけではない)。そうであればそういうものとして単純化した上で摩擦的議論を煽った方が面白かろう。


その際、繰り返しになるが、「権利」という語はやはり適切ではない。「降りる自由」とは別に侵されるべきでない自由や法的権利のようなものではない(道徳的権利としても微妙だろう)。であれば、「降りる自由」もあれば、「降りさせない自由」も認めていいだろう。降りる者が気に入らなければ、降りさせなければいい。私は降りることを認めない方向での制度設計には反対だが、(個人として自由に降りる、あるいはそれを許容する制度設計を追求するものとしての)「降りる自由」と同じ意味水準で(個人として他人が降りることを妨げる、あるいはそれを可能にする制度設計を追求するものとしての)「降りさせない自由」があってもよい。と言うよりも、「降りる自由」だの「降りさせない自由」だのは所詮言葉の問題にすぎず、そんな言葉を使うまでもなく私達にはそういう自由があるのだ(自然権があると言う意味ではない、念の為。それゆえ実質的にはそういう自由がないこともある。それは制度設計や現実的振舞いのレベルでの問題である)。

TB


責任論ノート―責任など引き受けなくてよい http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20070122/p1