責任と自由―3.他者と無関心


2006/09/21(木) 20:46:15 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-279.html

責任について、と言えばということでサルベージ。長いし、未整理だし、主張がまとまっていないし、非常に読みにくいだろうけど、とりあえず。


きはむ:
ただ、批判しているわけではない以上、私がなぜマルクスに興味が無いかに関する説明責任は必ずしも大ではないと考えます。私が他の凡百の評論家になぜ興味が持てないかをいちいち一人一人説明しなくてはならない、ということはないでしょう。
「他者」論の文脈にしても、ある一人の人間が無数のマイノリティ問題になぜ興味が持てないのかいちいち説明しなくてはならない、ということはないはずです。私は、ある「問題」に「興味が持てない」こと自体は責められるべき態度ではない、と考えます。この場合の挙証責任はむしろ、「興味を持つべき」と考える側に存在するのではないでしょうか。それを思っても(是非はともかく)「マルクス」が未だ占める特別な地位を感じざるを得ません。


dojin:
『「他者」論の文脈にしても、ある一人の人間が無数のマイノリティ問題になぜ興味が持てないのかいちいち説明しなくてはならない、ということはないはずです。私は、ある「問題」に「興味が持てない」こと自体は責められるべき態度ではない、と考えます。この場合の挙証責任はむしろ、「興味を持つべき」と考える側に存在するのではないでしょうか。』


このことを論理的に正当化するのは難しいですよ。
「全ての問題に興味を持つこと」の現実不可能性は簡単に言えても、その論理的正当性を簡単に言えますか?


さらに論理的正当性を主張するのも、「他者」や「問題」の線引き、という困難な前提を導入しないとなかなか難しいと思いますよ。例えば、親が我が子を「興味がない」といって餓死させても、それは責められるべき態度ではないと言い得てしまいます。なぜなら我が子だってマルクスだってマイノリティだって同様に「他者」の「問題」と言い得るのだから。この場合、「他者」や「問題」はあらゆるものに当てはまることになり、故にあらゆるものに対する無関心が正当化されてしまいます。逆のロジックを使って、さらにいくつかの条件をつければ、あらゆるものに対する無関心が非難され得ます。


私はこういう議論にあまり興味はありませんが、繰り返すと、論理的には現実不可能性から論理的正当性は導き出せません。違うロジックがあるのならそれは何でしょうか?結局、「他者」や「問題」の線引きという困難な前提を置かなければムリなのではないでしょうか?


あと、もっと俗っぽい批判として、


『「他者」論の文脈にしても、ある一人の人間が無数のマイノリティ問題になぜ興味が持てないのかいちいち説明しなくてはならない、ということはないはずです。』


をたとえ認めたとしても、この文例の人間ときはむ氏の立場は全然違うのでは、と思っちゃいます?きはむ氏は「不特定多数のうちのある一人」という感じのニュアンスただよう「ある一人の人間」ではなく「マルクス主義に関連する思想について語らう特定の人」ですし、他者も「無数のマイノリティ問題」ではなく「マルクス」です。両者の置換えは、議論の論証というより議論のすり替えでは?この置換えに何らかの正当性を見出せるのでしょうか?別に置き換えた後の言明がより一般性の高いものであるわけではないですし。


きはむ:
「責められるべきでない」と語ることと「正当化」は同じではありません。私は現実不可能性を根拠に論理を展開したわけでも、別に興味を持つ必要は無い、などと積極的に唱道しているわけでもないことは読んで解って頂けることだと思います。


餓死などの問題に関しても、興味が無いこと自体は責められるべきではない、という私の立場は変わりません。これを問題化して親を問責するためには違うロジックが必要となります。論理的正当化ができないのは興味を持つべきだとする側も同様のはずです。つまり違ったロジックが必要なのは「興味が無い」という側ではなくそれを問責しようとする側なのです。
ということで、私の立場は「興味が無い」こと自体が責められるべき立場で無いということを認めた上で、いかにして責任や倫理を語り得るのか模索するものだ、と言っておきます。


置き換えは、マルクスと「他者」をイコールで扱うことをわかりやすくする意図でした。で、私と文例の立場は同じだと思います。一人採り出した時点で特定の人間、語るも語らないも一つの立場、マルクスも凡百とは言わないが無数の思想家の一人には違いない、ということで特に問題は無いのでは。私が多少でも語っているのはマルクスじゃなくて的場昭弘ですし。


dojin:
うーん。まぁちょっと考えてみたら、そもそも、私は「興味がない」ことを責めているわけではなくて、「興味がない」ものに「言及」するときのマナーについて触れただけす。


別にマイノリティ問題や餓死やマルクスや的場に興味がないのはいいとしても、それに言及する以上は、それらに対する理解がある程度なければならない、それがマナーだ、くらいのことです。


あと、話がもどっちゃいますが、餓死やマイノリティ問題に「興味がないこと」が責められるべきでない、となぜ言えますか?その根拠はなんですか?


きはむ:
逆でしょうね。これまで私の書き方が悪かったですね。興味が無いことをそれ自体として問責できる論理的根拠は見当たらないのではないか、と言ったほうが正確だったと思います。興味が無いことそれ自体だけで何で責めることができるのだろうという疑問です。その点私のここまでの言明は積極的というより消極的ですし、挙証責任(根拠を示す必要)はこちらには無いと言うのはこの意味が大きかったわけです。


そもそも、
>親が我が子を「興味がない」といって餓死させても、それは責められるべき態度ではないと言い得てしまいます。
だから「興味がない」ことを「責められるべきではない」とは言えないわけです、
とは言えません。
なぜなら、この文自体が結果としての餓死を問題にしている(違うロジックを持ち出している)のであって、「興味が無いこと」それだけで問責できるロジックになり得ていません。こういう帰結的議論は重要ではありますが、無関心でも死なせなきゃいいんでしょ、健康にさせときゃいいんでしょ、ということで容易に責任を回避できます。


あとは説教臭い倫理や道徳のレベルになるかと思いますが、それが大した力を持ち得ないことは言うまでもないでしょう。つまり私が言いたかったのは、興味が無いことをそれ自体として問題にできるロジックは無いのではないか、ということ。その意味で「責められるべきではない」と言うよりは「責めることはできない」と言った方がより正確だったかもしれません。


自分(例えば先進国上層階級に生まれ育った白人男性の異性愛者)がどんな立場にいるのかを意識することは必要だと思います。それを助ける言論も運動も大切なことです。しかし、意識化以上のことを求められるいわれは無いでしょう。自分の立場を十分に認識している人に対して、これこれの問題に興味を持っていないからよくない、と言いうるとしたらその根拠は何なのか私には解らない。


dojin:
最初から議論がだんだん離れていますね。まぁいいや。マルクスの話はおいといて、無関心の話についてちょっと聞きたいことが。コメント欄をながなが使ってすみません。


前半部は同意します。結果としての「餓死」の一因としての「無関心」を責めることと、「無関心」そのものを責めることは違う、ということですか。そういうわけ方をするなら、確かにその通りだと思います。


しかし、ということは、何かの「問題」の一因としての「無関心」に限定すれば(私は、そのような「無関心」しか考えていなかった)それは「責めることはできる」と考えていいのですか?


そもそも「興味がない」ことそれ自体を責めることができないのはあたりまえです。例えば、「ブログに興味がない」とか「ギターに興味がない」ことを責められる理由はないわけです。俺の勝手だろ、と。


しかし、だからといって「マイノリティ問題に興味がない」とか「障害者問題に興味がない」こと自体も責めることができない、とはいえないでしょう。ここでいう「興味がない」という行為(あえて行為といいましょう)は、マイノリティや障害者の生活に大きな影響を与えるのですから、そのことについても考える必要があります。ブログやギターとは違います。


つまり、何らかの「問題」の一因であるならば、「興味がない」ということと「殺人を犯す」ということは、同レベルの積極的な行為として考えることだって論理的にはできるはずです。(もちろん、「興味がない」ことと「殺人を犯す」ことを同レベルの行為として位置づけることができるか、という問題は残りますが)


差別や資源配分の問題では、この「興味がない」ことが他者を死に追いやる一因になることすらあり得ます。こういう場合には、


『しかし、意識化以上のことを求められるいわれは無いでしょう。自分の立場を十分に認識している人に対して、これこれの問題に興味を持っていないからよくない、と言いうるとしたらその根拠は何なのか私には解らない。』


という主張に対して、「あんたの無関心が、人様が心地よく生きるのを難しくしてるんだよ。それがあんたの無関心を責める根拠だ」ということができます。


たしかに、ここで問題とされているのは、「人が心地よく生きられない」という帰結の一因としての無関心ですので、無関心一般を責めているわけではないですが。きはむ氏は、このような限定された「無関心」ならば、責めてもいいと考えるのですか?


きはむ:
関心の対象としてのブログとギターとマイノリティ問題との間に本質的な違いがあるかどうか、疑問に思います。無関心自体が「俺の勝手」であることは同様ですから、要するにテーマに関わらず「問題の一因としての無関心」を責めうるか否かという論点ですね。


まず、無関心が「問題」の直接的原因となることは考えにくい。それは遠因や背景としては指摘しうるでしょうが、一般に、誰かを死に追いやるまでには何らかのステップを挟んでいるはずです。
多分大多数の人がそうしたステップが存在し得ないような配慮・取り決めに賛同するでしょうし、私も概ねそれが望ましいと思います。ただ、だからといって無関心までを排撃することを正当化できるかどうか。外面的言動・現象だけでなく内面まで厳しく問い詰めるなら、それこそ擬似キリスト教的態度になりかねません。


また、「人様が心地よく生きるのを難しくしてる」と言われたとして、果たしてこちらはその批判をそれ程重く受け止める必要があるのかどうか。この言い方は無関心一般を責める態度とそれ程異なるのか少し疑問でもありますし、仲正の言うような「無限責任」への後退を生みかねない気もしますし、色々問題があるような。


無関心という行為が生んだ結果に関しては「責任」が生じるでしょうが、だからといって結果から無関心まで遡って非難しうる根拠とはならないのではないでしょうか。そして無関心の結果への「責任」というのも、一方的に責められるということは意味しないでしょう。これがとりあえずの答えなのかな。


ちょっと穏健すぎるかな。そもそも「他者を死に追いやる」こと自体が果たして責められるべきことか、という問いがまずなされるべきなんですけどね、本当は。まぁ、もとより話の前提も語の定義も一致していないし、そこまで論じ始めたらきりが無いか。


dojin:
1.『無関心が「問題」の直接的原因となることは考えにくい』について


これに対してはなんともいえませんね。ただ、無関心が、一定の人間たちをキツい状況においやる、もしくはその場に留まらせる、そして無関心の人達を恨むことは十分ありうるでしょう。


2.擬似キリスト教的態度や無限責任について


きはむ氏が述べているのは、結局、他者の内面まで踏み込むことや「無限責任」への恐怖であって、無関心が責められるべきでない根拠ではありません。他者の内面や無限責任の話は正しいと思いますが、だからといってそれがそのまま無関心への免罪符になるわけではありません。実際に無関心によって苦しめられ、無関心の人を恨む人がいるならば、彼等にとっては現状よりも他者の内面への踏み込みや無限責任のほうがよっぽどいいと思うかもしれません。その人達からすれば、きはむ氏は、無関心が自分にとっては切実な問題ではなく、人間の内面の尊厳や限定責任といった現代社会のルールを守ろうとする一保守主義者にすぎないのです。そういう人達をどう説得するのですか?。その人達に面と向かって、無関心は「俺の勝手」といえますか?


ちなみにいっときますと、私はそういう意味では一保守主義者ですが、その根拠は自分の穏やかな生活を大切にしたいという個人的な利己心にすぎません。そして他人の無関心を私が責め得ないとしたら、それは私が自分自身の無関心を責めるだけの自己一貫性がないが故に、他人にそれを要求できないだけであって、無関心がア・プリオリに「責めることができない」ものだからではありません。


1.『無関心が「問題」の直接的原因となることは考えにくい』についての付け加え


例えば、『無関心」が直接的な原因とならなくても、自分達が直接的原因となった「問題」に対する自分達の無関心が、一定の人間たちをキツい状況に追いやる、もしくはキツい状況に留まらせることは十分ありうるでしょう。左翼がよく問題にしたように、フィリピンのスモーキーマウンテンには、日本企業がらみの強制立ち退きで家を失った人達がいますし、日本の民主主義政府の下での施策で施設に隔離された障害者たちなどの例もあります。彼らに対する私たちの無関心は、彼等をキツイ状況のままにしている一因と考えることはできませんか?


きはむ:
私は一保守主義者と呼ばれても否定しませんし、自ら一保守主義者と名乗りながら自分とは必ずしも一致しない人の意見を引っ張ってきてくださるdojinさんには感謝するほかありません(いや、嫌味でなくホントに)。


で、無限責任なんちゃらの話は確かに「責めることができない」根拠には必ずしもならなかったと思っていますが、「責められるべきでない」根拠に全くなり得ないとは思いません。
また、無関心が「俺の勝手」であることは変わりませんし、私はその言明についてある種の責任を当然負うでしょう。


正面からお答えすることはこれ以上しないと思いますが、この議論を通じて感じたことについてはその内エントリを立てようかと思います。


他者を他者として扱うコメント欄*1


私は、割り切った態度というものを責める気はない。しかし、それが無自覚であったり、地に足が着いていなかったりするならば、批判を惜しまない。逆方向へのそれぞれの割り切りも、割り切れないままの態度も、それ自体として責め得るものではない。私はまさに利己心にこそ拠っており、利己心をこそ尊重している。無関心はあるレベルにおいて「責めることはできない」し、全体を通して「責められるべきでない」。私は利己心によって「他者」を排除したり死に追いやることもまた、それ自体「責められるべきでない」と思う。このことを責める人々はある倫理を前提として持ち込んでおり、それは一つの態度であり一般的な態度でもあるとは思うが、私はその倫理を必ずしも信頼しない。
私が誰かを傷つけるという前提で生きている限り、わざわざ他人に言われるまでもなく、私は「責任」を負っている。そういう意味での「責任」なら最初から最後までいつもどこでだって負っている。しかし、それは一方的に責められたり断罪されることとは違う。世界は利己心とそれを実現する力の闘争で成り立っており、誰かが心地よく生きることができるような倫理や制度をつくろうとする行為もまた、何らかの力を動員することであり、利己心に突き動かされている。それを忘れてはならない。


私のこの見方自体が一つの割り切りかもしれないが、ともかく私は自分が誰かを傷つけなくては生きていけないという割り切れない思いをしか出発点に選べないし、割り切れないながらの暴力が伴う「責任」はとてもフラットであり、すべてを貫いていると思っている。
割り切れない思いを抱いて進む。「責任」なんて当たり前すぎて言うまでもないことだ。少なくとも無自覚なレベルで責めてくる言葉を意に介す必要はない。無関心が人を傷つける、それがどうした。無関心は責められるべき対象ではなく、説得すべき対象だ。あなたがあなたの利己心ゆえに、あなたの力を以て働きかける対象である。暴力の存在を指示し意識化することは必要だが、それをそのまま問責の対象とすることはよろしくない。言うまでもないことだが、何らかの倫理や制度をもって暴力を抑え込むこともまた暴力である。
重要なのは「どうすべきか」などという形式の論理ではない。「どうしたいか」だ。それこそが、割り切れない世界で私達が進むことができるほとんど唯一の原動力だと、私は信じている。


dojin:
『私はまさに利己心にこそ拠っており、利己心をこそ尊重している。無関心はあるレベルにおいて「責めることはできない」し、全体を通して「責められるべきでない」。私は利己心によって「他者」を排除したり死に追いやることもまた、それ自体「責められるべきでない」と思う。このことを責める人々はある倫理を前提として持ち込んでおり、それは一つの態度であり一般的な態度でもあるとは思うが、私はその倫理を必ずしも信頼しない。』


まさにこの文章が、「利己心の肯定」という倫理を前提としていることを自覚すべきです。結局、「割り切り」という自己否定を退けて「割り切れなさ」という自己肯定を採用する根拠は何ですか?その根拠が、我々はそのようにしか生きられないという事実性だというのならば、きはむ氏の議論は、事実性を規範性に移し変えてしまっているのであって「責めてもどうしようもない」という事実性の根拠にはなっても「責められるべきではない」という規範性の根拠にはなりえないのではないでしょうか?


きはむ:
私の態度は利己心を倫理としているわけではないと思っていますし、どちらかといえば事実性の話をしているというのはそうだと思いますので、そちらにだけ答えます。


私の主張は何度も言う通り消極的なものですね。「責める」人々からその倫理的・道徳的優越を剥ぎ取ろうとするもの、その問責の無根拠性・不適切性を指摘しようとするものでした。ですからより弱い言葉で言えば、「責められるべきだ」とは言えないんじゃない?、程度のものだったかもしれません。
「責められるべきではない」と言うのは積極的な規範性を主張していたわけではなかったと自分で思いますし、この言葉が気に入らないあるいは不正確だと言われれば、上記の程度にまで後退しても私は構いません。


どのみち「責められるべきだ」と言う人々はある倫理を動員しなくてはならず、それを周囲に受け入れさせねばならないということは変らないわけです。それに対して私はその倫理を必ずしも信頼しない。だから私は、この人々に自分達の主張の恣意性と相対性と暴力性を自覚してもらえれば、とりあえずいいんです。そんなことはみんな解っているよ、と言われれば、それは良かったですと言うだけで。


割り切れない世界でおよびコメント欄*2


ここでdojinさんが用いているロジックは基本的に北田暁大『責任と正義』で言うところの「強い責任理論」と重なる(面倒だから解説しない)。そこで北田は「強い責任理論」にコミットしながらも、それが倫理的言説としては無効であること、つまり(「制度の他者」に対するような)ある種の「恣意性と相対性」を受け入れなければいけないと結論しているわけであるから、その論証が正しいと仮定すれば、ここでの私の主張はそれなりに妥当だったことになる。だが、私は誰しも暴力の不可避性ゆえの「責任」が常につきまとうことを既に(今や?)明確に認めているのであるから、実際的には「強い責任理論」とそれが生む無限責任(北田的に言えば「責任のインフレ」)を容認している。つまり私がコミットしている立場というのは、無限責任が実際的に意味する無責任を積極的に受け容れるというものであり、無限責任論とコインの裏表をなす立場としての無責任論なのである。したがって、人は無限に私の責任を追及してもよいし、私の無関心を責めても構わない。私は自分に責任があることは認めよう(それはどっちでもいい)、けれども、私はその責任を果たすべきだとは必ずしも考えない(これまで何度も述べたように、責任を果たすかどうかは賢愚の問題、あるいは利益衡量の問題である)。私は責任を果たさないために自分を殺しに来る人を受け容れようとは思わないが、そういうことが有り得るだろうという事実に関しては常に/既に受け止めている。暴力の不可避性を認めるということはそういう態度も含むのである。


責任と正義―リベラリズムの居場所

責任と正義―リベラリズムの居場所

TB


責任論ノート―責任など引き受けなくてよい http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20070122/p1