「降りる自由」についての事後的雑感


2006/09/25(月) 16:36:14 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-280.html

すでに和哉さんにご指摘をいただいたが、『波状言論S改』の東・鈴木・北田鼎談を読み返してみた。何で忘れていたのだろう。


鼎談の一部は北田のブログにも載っているはずだが、そこで北田が言う「降りる義務」を見ても、mojimojiさんが既に指摘した東の「権利」という言葉の使い方を見ても、なーんか語の使い方が緩いように思える。あくまでブログ上や口語上ではあるし、最近法学系の本を読むことが多いので単に私が敏感になりすぎているだけかもしれないが、やっぱりあくまで哲学や社会学をやっている人たちだからこういう緩い使い方になるのだろうかと思ってしまう。


(当然私なんかよりずっと鋭い読みをしているとしても)東や北田みたいな人はロールズノージックなども政治哲学としてよりも哲学として読んでいる部分が大きいのだろう。東がどっかで言っていた、サブ政治云々よりも政治自体がサブシステム化していく、といった議論については私も肯定的に捉えているのだが、そういう話とは別の意味で政治的な議論へのある種の鈍感さ(と言うより多分無関心)があるように思える(思いつき割合高し)。


私は「降りる義務」は無いと思う。北田の言いたいことは大体解るし、そこで「義務」と言ってしまいたいのも解らんではない気がするけれど、結果的には文字通りに読むと不正確なだけにレトリック的にしか読めないし、それゆえ厳密な議論をする場合には不適切な表現だと思う。


東については最初から別に私と全く同じ立場だと思っていたわけではなくて、便宜的に乗っかってみただけだけど、予想通り私とも少し距離があると思った。鈴木は東の「降りる自由」の立場を無責任ではない「非責任」ではないかと言い、東もそれを否定していないから、そう受け取っておく。そうだとすると、私は「非責任」なんてあるのかどうか懐疑的であり、明確に無責任の立場なので、そういう距離が存在している。


しかし、これは結局どういう距離なのか。東が最初から強調していたことではあるが、改めて「超越性」に対する態度が結構重要になってくるのだな、と思った。東は市場的価値や民主主義的価値など世俗性の外にある(べき)「超越性」を諦めておらず、諦めていないからこそ、「降りられない」世俗社会から「降りる自由」が必要だと言い(「降りる自由」の担保=コミュニティ間の移動の自由の担保こそが「超越性」の担保である)、「降りる」ことは無責任ではなく「非責任」だということになる(「超越性」へと降りてしまえば世俗とは責任を問う体系が異なるわけだから無責任ではなく「非責任」になる)。


そういう意味では東も宮台と同じで「超越性」志向を持っているわけだ。これに対して私は世俗一本である。だから「非責任」を担保する「超越性」を想定せず、降りる=無責任になる。鈴木が「超越性」を担保するシステム(コミュニティ間の移動を担保するメタユートピア)からは結局降りられないんじゃないの、という疑問を発していて、それに対して東はインフラがどうのと言っているわけだが、これが答えになっているのかどうかはよく分からない(たぶんなっていない)。このあたりの議論はここ1、2年に東がずっとやっていたことと直結するだろうから、isedなどを読み返せば色々進展があったかもしれないが、面倒なのでとりあえず読者諸氏に託す。


で、東が超越志向ゆえの非責任主義、私が世俗志向ゆえの無責任主義だとすれば、mojmojiさんは世俗志向ゆえの無限責任主義になるのだろうと思う。「超越性」に期待しない点では私とmojimojiさんは共通する(と思う)。東は応答責任をどこかで切断せざるを得ないことを認め、その切断は「超越性」の介在(降りる=コミュニティ間の移動)によって「非責任」の次元に移行すると考えている(それゆえそれを一種の「正当化」と言うことは確かにできるかもしれない)。私は応答責任をどこかで切断せざるを得ないことを認め、かつ「超越性」への期待が無いために「降りる」ことを「正当化」する方法はないと考え、さらにその必要も感じていない。mojimojiさんは応答責任をどこかで切断せざるを得ないことを認め、かつ「超越性」への逃げ込みを許さないために一切の「正当化」を排除する。


ま、そんな距離だ。言いたいことは以上。mojimojiさんからいただいたお返事の中で再度返事させていただく必要のあるところはあまりないでしょう。どうしてもと言う人は「神と正義について・9」でも読んでいただければ。


TB


責任論ノート―責任など引き受けなくてよい http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20070122/p1