ポテンシャルからの議論と未来世代の権利


2006/10/12(木) 20:23:38 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-283.html

子どもは将来的に成人となって完全な権利主体となることができるから、動物や自然物とは異なる、という言い方がある。つまり、子どもは権利主体(義務主体)としてのポテンシャルを持っているから、未成熟ながら権利を認められる、という言い方である。


しかし、ポテンシャルからの差別化論はおかしい。例えば、明日世界が滅びるとして、最早ポテンシャルを持っているとは言えない子供は権利の根拠を失うから殺してもいいのだろうか。ボテンシャルからの議論に徹底的にこだわる人は、いいと言うかもしれないが、多くの人はそうは考えないだろう。そうであれば、動物や自然物同様の能力しか持たない子どもに権利が認められているのは、ポテンシャルゆえではない。


ポテンシャルからでないとすれば、子どもはヒトであること自体から権利が認められているのだ。子どもをはじめ、動物や自然物との能力的差異が比較的小さい人々を動物や自然物から差別化するのは、最終的にヒトであることそのもの以外になくなる。このことは、別に子どもじゃなくても、そもそもポテンシャルがほとんどない重度の障害者などについて考えればすぐに明らかである。


最終的にヒト属性を有していることだけが権利の根拠になるのであれば、人間中心主義であることは否定できない。人間中心主義に開き直るのも一つの道であるし、私もその道を採るが、それは道徳的な議論ではない。人間中心主義に開き直りながら、それを道徳的に基礎づけようとするのは誠実ではない。


まぁ、それはいい。それより、私が「動物の権利」とか「自然の権利」にリアリティを感じながら、一般的にはこれらより支持されている「未来世代の権利」にいまいちピンと来ない理由がなんとなく解った。「未来世代の権利」というのは、基本的にポテンシャルからの議論の延長なのだ。


もう少し根元には、不確かな可能性より今現在存在しているものを重視する個人的な心性があるのだろう。未だ存在もしていない存在の権利を云々するというのはどうなのだろう。いや確かに、「未だ存在もしていない」と言っても受精卵以前に遡っていけば、結局今も未来もつながっているわけだから区切れるものではないと言われればそうなのだが…。やはり完全に徹底した道徳的正しさは、未だ到来せざる者にも開かれなければいけないんだろうな。そういうことで、「未来世代の権利」については論じることも消極的ではあるものの、否定はしないという態度になるわけだ。