想像力の欠如への解決策を示せ


2006/10/16(月) 22:56:15 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-284.html

坪井秀人『戦争の記憶をさかのぼる』(ちくま新書、2005年)


人間が「忘れる動物」であることを前提としながら、いかにして過去の戦争の記憶と向き合っていくことができるか。本書ではこの問いを出発点として、日本文学を専門とする著者が、加藤典洋の『敗戦後論』、田村隆一鮎川信夫高村光太郎の詩、戦後10年毎の8月15日の新聞紙面などを読み解きながら、「記憶のレッスン」に取り組んでいる。著者によれば、それは、次の戦争が「すでに肩が触れるぐらいに身近にある」という認識の下に、戦争経験世代が先細る中で記憶をさかのぼって過去と現在の間の空隙を埋め続ける営為であり、生き延びていくためには「その空隙への想像力を放棄するわけにはいかない」のである。


筆致は、テーマからして意外に思われるほど冷静で淡々としている。それゆえある程度の前提知識を有する層には読み進め易い一方で、「「戦争を知らない子供たち」を知らない子供たち」一般には親切とは言えない書き方になっているように思われる。また、戦後的「正しさ」への反発、抽象的な多数性と具体的な個の対立など、いくつかの興味深い論点を提示しつつ、最終的にこれといった結論に到達しない点には、やや肩透かしな感を覚えた。特に、第一章で主題的に扱われた上で、全体を通して一つの参照点となる加藤に対して、違和感が表明されながら最終的な評価が宙吊りにされているように思えるのは釈然としない。加藤、および加藤の思想的ルーツと著者が考える吉本隆明の立場は、第二章で肯定的に描かれている田村や鮎川の立場と一致しないまでも通底する部分があるはずであり、それら相互の関係性が十分に整理されないまま展開される第三章以降の記述は、全体に一貫しない印象を与えている。


私は不勉強にして田村や鮎川について詳しく知らないが、彼らと同じ「荒地派」の詩人としての吉本が彼らと同列に扱われることなく、あくまで加藤の思想的ルーツとして、いわば「背景」としてしか扱われないことには違和感を覚えないわけにはいかない。吉本には、「私利私欲」からの「公共性」を志向する加藤とは違って、個から安易に「公共性」へと接続してしまうことを拒む側面があるはずである。そもそも著者が吉本、加藤、および小林よしのりの共通項として、やや冷ややかに抽出している戦後的「正しさ」への反発は、(少なくとも吉本に関しては)具体的な個を抽象的な全体性へと解消してしまうことへの抵抗感の表明として、田村や鮎川の抽象的多数性への抵抗と相通じている。本書でなぜ著者が吉本と正面から向き合うことを(恐らくは)意識的に避けているのか、私には忖度するすべもない。ただ、吉本と加藤、あるいは吉本と田村・鮎川の立場の関係を深く掘り下げようとするなら「戦争の記憶をさかのぼる」という主題に拘泥するべきではなかったし、あくまで本来の主題を追究しようとするならば、生半可に吉本や加藤に触れるべきではなかっただろう。


ともあれ、「想像力を放棄するわけにはいかない」という一点が最終的に凝縮された結論だと強いて考えるとすれば、平凡な結論と言わざるを得ない。想像力を重視する論者は、せめてその想像力を助け支える制度的基盤について大雑把でも具体的な提案を行うべきだ。それが無ければ、我々は八月の虚ろな儀式と化した追悼と平和祈念を延々と繰り返すだけだろう。


さて、それにしても以上の私の文章が「「戦争を知らない子供たち」を知らない子供たち」一般には親切と言えない点をどう考えるか、これは極めて重大な問題だ。


戦争の記憶をさかのぼる (ちくま新書(552))

戦争の記憶をさかのぼる (ちくま新書(552))